第1話 乗っ取り
1週間ほどしたある日、タワーシティで事件が起こった。警察がマンション内に入り実況見分を行っている。被害者は14階に住む接客業の山田章子という女性だった。
何でも数日前に彼女の盗撮動画がネットに上げられたという。彼女は人を部屋に上げたことはなく、誰かが隠し撮りをしたんだと警察へ通報した。当然隠し撮りをしたのはマンション住人の誰か、ということになる。
警察から通報を受けたタワーシティは本社に連絡し担当の窪川という若い男が出向いて来ていた。
「私、槇村不動産販売の窪川と申します。は、お世話になります。」
窪川が刑事に名刺を渡していた。リストラ後リタイアしていた信介はたまたまこの状況に出くわし、彼らの後を着いていくことにしたのである。ようは暇だったのだ。
14階に到着した信介は山田章子という女性と事件のあらましを承知した。すでに物見遊山な人たちが廊下に集まって来ていた。その中には三橋夫人の姿もある。
「あら、佐崎さん。いやねえ、盗撮だなんてねえ。」
信介の姿を見つけた三橋夫人が早速声を掛けてきた。
「では、入居者の名簿を拝見させて下さい。」
刑事が窪川に言っていた。
「は、はい。すぐ会社に確認を取りまして対応させていただきます。」
「ちょっと君。そんなことを軽々しく言って貰っちゃ困るよ。」
刑事と窪川の会話に横やりを入れたのは初老の男だった。とにかくこのマンションはシニア層が多い。マーケティング用語で言うならM3層が厚い。
「入居者名簿なんて個人情報、いくら警察の言うことだからってホイホイ渡されちゃ困るよ。」
「ですが・・・。」
窪川は困惑した表情で刑事と男の顔を見比べた。
「あなたは?」
「あなたこそ、どなたですかな?」
明らかに刑事は機嫌を損ねたようだ。
「お話があるなら署の方で充分お伺いしますが。」
「ほお、私を引っ張るぞと。脅しですか?」
「あなたね、捜査の邪魔をしないでいただきたい。」
刑事が威圧的に男に詰め寄る。
「特に隠しカメラらしきものはありませんねえ。」
鑑識らしき男が1名部屋を調べていたようだが、廊下へ出てきた。
「そうですか・・・。するとやっぱり誰かが侵入して・・・。」
刑事はほら見たことかと詰め寄っていた男の顔を見ながら言った。
「このマンションの住人全員が容疑者ということになる。いずれ全員からお話を伺うことになるでしょう。まずはあなたからということでどうですか?」
「あなたねえ。」
初老の男も気色ばむ。
その様子を眺めていた信介の袖を引く者がいた。
「これだよ、おじさん。」
肇だった。
「小僧か・・・。こんな所で何してるんだ。」
「i-tubeにアップされていた動画。削除要請出しても簡単には消してくれないんだよね。」
そう言って肇はスマホの画面を信介に見せた。
そこには、件の女性が洗面所で服を脱ぐ姿が映っていた。シャワーを浴びようとしているところらしい。カメラは固定でしばしば女性はフレームから外れるが下着姿がはっきりと映っていた。
「小僧、こんな動画見てちゃダメじゃないか。小学生が・・・、」
信介が注意しようとすると、肇は構わずに続ける。
「これ縦位置の固定動画だね。しかも少し上を向いている。」
「確かにな、それがどうした?」
「おじさんも鈍いなあ。マンションの住人がこの部屋に忍び込んで撮影したのなら固定撮影はおかしいよ。現に隠しカメラは見つからないんでしょ? この位置は洗面所の正面だよ。このマンションの洗面所はどこもほとんど同じ造りだから、分かるでしょ。」
言われてみればその通りだった。撮影された動画は縦位置で・・・。
「縦位置!」
「そうだよ、スマホで撮影されたものだね。」
「すいません。ちょっといいですか。」
信介は2倍に増えた野次馬を押しのけて部屋の前に進み出た。そこへタイミング良く山田章子嬢が外へ出てきた。
「あの、あなたのスマホ洗面所に置いてませんか?」
信介が唐突に聞く。ぎょっとした顔をしながらも山田章子は黙って頷いた。
「スマホ立てに置いて?」
「ええ・・・。木製のスピーカーの音がよく響くってスマホ立てを。」
山田章子が言った。
「ちょっとあなた、誰なんですか?」
刑事がまた1人余計な人物がといった表情で信介を制止した。
「刑事さん、犯人が分かったかも知れません。いや、犯人は分からないかも知れませんが、私たち住民の少なくとも直接的な容疑は晴れるかも知れません。」
「何を言ってるんです、あなたは?」
「とにかく、スマホを見せて下さい。」
山田章子も頼りない警察と感じていたのか、黙って部屋の中へ招き入れた。
「こっちです。」
「では、失礼します。」
山田章子が言っていたように洗面台の上ほぼ中央にスマホ用スピーカーが置いてあった。スマホ本体のスピーカーを反響増幅させる電気のいらない木製のスマホ立てである。章子のアンドロイドはそこに差し込まれていた。
「お風呂に入る時、ここから音楽を掛けてるので・・・。」
「なるほど。いいですか?」
信介はアンドロイドを手に取ると、
「ロックは掛けてないんですね。」
と言った。アンドロイドはパスワード設定が出来ていなかった。
「1人だし、特に見られてまずいようなものも入ってないから。」
山田章子が弁解がましく言う。今は刑事も黙って信介の様子を見ていた。
「それでは失礼します。」
アンドロイドのアプリを見ていく信介。『フォト』には当然件の動画は残っていなかった。消去されたのだろう。復元は不可能ではないはずだが。
「うまくいけば、ストレージに残ってるかもよ。」
いつの間にか隣に肇が来ていた。
「小僧。ストレージか・・・。」
パラパラとアンドロイドの画面をめくっていくとUBernoteがあった。
「これはいつも使ってらっしゃる?」
画面を信介が山田章子嬢に見せると彼女は首を横に振った。
「お店で誰かに入れて貰ったんだけど、よく分からなくて・・・。写真でスマホがいっぱいにならないように貯めておけるって。」
「そうですか。」
信介はUBernoteをタップする。するとそこにはネットにアップされていた動画があった。それを見せると山田章子は顔を赤らめ、
「いや。」
と声を上げた。
「どういうことですか? この動画は? ご自分で撮影された? それを自分でネットに?」
刑事が先へ先へと走っていく。それを制止して信介が説明した。
「違いますよ。お嬢さんは被害者です。このスマホ、乗っ取られてます。」
「スマホが乗っ取られる?」
刑事が素っ頓狂な声を上げた。そこへさっきの鑑識の男が口を出してきた。
「可能性はあります。ウィルスを仕込んでスマホを乗っ取りカメラを通じて相手の部屋の中を盗み見ることも可能です。」
「なんだと!」
「いいですか、この盗撮された動画はスマホの縦位置の動画です。しかもこの位置から撮られたものに間違いない。乗っ取られたスマホは勝手にカメラが起動し動画を撮影し、それを送信した。そういうことですよ。」
信介が警察官ふたりと山田章子嬢に説明した。
「むむむむ。」
刑事は腕を組んで唸った。
「なら、この動画は?」
「通常撮影された動画は『フォト』の中に保存されます。でもそれではすぐバレる。で、犯人は保存場所をストレージに指定した。勝手にメールを発信した形跡はありません。UBernoteから撮影した動画を盗み出したのではないかと思います。このアプリを入れた人物が犯人ですね、恐らく。」
「おい、このスマホを詳しく解析しろ。」
刑事は鑑識係員に命じると信介には目もくれず現場を立ち去っていった。
「災難でしたね。スマホには最低でもロックを掛けておく方がいいですよ。誰かが勝手に何かをインストールしてしまう可能性もありますから。あとウィルスチェックのアプリを入れておくともっといいです。」
信介は山田章子嬢にそう言うと肇を連れて部屋を出た。
「佐崎さんですか? 私、博多と申します。いや、お詳しいんですね。」
やって来たのはさっき刑事に詰め寄っていた初老の男だ。上階へ向かうエレベーターである。
「いえ、それほどでも。この少年のおかげです。」
言って信介は肇を男に紹介した。
「はじめまして。菊川肇です。」
「おう。これはこれはご丁寧に。博多六郎と申します。」
初老の男が答えた。
挨拶できるんじゃねえか、と信介は肇を見ながら思った。そうなるとやはり俺をロボットと思っているのか? そんなことを考えているうちに肇は行ってしまった。全く愛想がない。
それで信介は博多六郎と名乗った男と二人きりになった。エレベーターは上昇を始めた。
「最近多いですね。」
と六郎。
「何がです?」
「こういう事件がですよ。先般もオレオレ詐欺に繋がるような情報漏洩があったとか。」
「そうですね。」
「この年寄りばかりのマンションが狙われてるんじゃないでしょうね?」
「ここが? まさか。」
「実は私のパソコンもこの前ウィルス感染しまして・・・。」
「え? 大丈夫ですか? マンションWi-Fi使ってますよね。接続切りましたか?」
「いえ、感染する前にウィルスチェックソフトが見つけ出しましたんで。」
「そうですか、それは良かった。」
「年間4千円で済むんですから安いもんですよ。」
「あとは不用意にURLや添付ファイルを開けないことです。」
信介の部屋がある40階に着いたが、六郎はエレベーターを降りなかった。
「私は、ひとつ上ですので。」
六郎はそう言って初めて41の階数ボタンを押した。
「そうですか、ではここで。」
こうして信介は六郎と別れた。
偶然も重なって事件後何度か話をする機会に恵まれた信介と六郎はすっかり打ち解けていた。今朝は六郎に誘われて例のパンケーキ屋にいた。
「パスワードは頻繁に変えない方がいいって説もあるようですが、どうなんですか?」
席に着くや六郎が信介に問いかけてきた。どこかでその情報を仕入れたらしい。答える代わりに信介はメニューを六郎に渡した。
信介と六郎は明恵に注文をする。
「レギュラーパンケーキ イチ ホットコーヒー イチ アップルパイ イチ コウチャ イチ OK」
明恵はそうマイクに話しかけた。するとタブレットに注文内容が表示され、厨房へ連絡が行く。また音声入力した内容が直ちに本社コンピュータに吸い上げられ、ビッグデータとして活用されるのだ。声を認識されない加代ちゃんはリストラされてしまったとか。
「明恵ちゃん、大変だね、それ。」
「そうなんですよ。伝票にぴっぴっと鉛筆でチェック入れて持ってく方がずっと簡単で。」
明恵が注文の品を運びつつ信介に答えた。
「でも伝票のデータ入力とか大変らしいです。書き間違いもあるし。これだと同じ情報が厨房にも行くので間違いないし。セキュリティという意味でも私の声が登録されているんで他の人では受け付けないんですよ。」
「居酒屋さんなんかでは端末使って客に直接入力させてますよね。」
今度は六郎が話した。すると明恵が、
「あれ、結構入力間違いとか多いみたいですよ。で、後でお客さんとトラブルになる。」
と答えた。
「1個のつもりが10個になってたとか。」
と六郎。
「そうなんです。2人で来てるのに10個なんて常識で考えたって変だろうって。自分で入れたのにね。」
「まあ、そういうことだな。」
「いやいや、そこが今までのシステムの限界なんですよ。人の判断をどこまで入れるか。何でも最後は人だとなると、システムは非常に使い難く、信頼性も落ちるようになる。」
二人の会話に答えて信介が解説を加えた。
「これ、直後なら言葉で言えば訂正も出来るんでしょ?」
「そうなんです。注文を言うとタブレットにそれが文字で表示されて確認するんです。そこで訂正って言えば、変更されます。変更後の注文が厨房にも行く。さっきの注文個数の間違いもAIが指摘してくるんですよ。」
「すごいな。」
六郎がさも感心したように言った。
「でも、相当な投資だね。このパンケーキ屋さんは何店舗くらいあるんだい?」
「150店舗です。」
明恵は屈託がない。
「人を1店舗につき1名減らせれば年間いくら浮く? 150店舗でいくら? そういうことですか。」
と六郎。
「いや、それ以前に人が集まらないんですよ、今はね。外食産業は慢性的人手不足だ。」
信介が言った。
「そうなんです。私は好きなんですけどね。嫌いな人も多くて。アルバイト募集しても全く応募なしって事もありましたよ。」
すでにパンケーキとアップルパイはテーブルの上に乗っていたが、明恵はまだ脇に立っていた。この時間は暇なのだ。他に客はいない。
「それより知ってますか?」
唐突に明恵が信介たちに尋ねた。暇と言うより実はこれがしゃべりたかったのかも知れない。
「何がだい?」
信介が明恵を見た。おもむろにナイフをパンケーキに入れながら。
「そこのマンションの前で若い男の人たちが騒いでて警察が来たんです。」
「え?」
信介はフォークの手を止めて再び明恵を見た。
「猫をね、マンションの中に放したんですって。」
「猫?」
「オートロックのマンション入口に猫を放したんです。猫は大騒ぎで走り回って、中にいた人たちも大騒ぎで。コンシェルジュって言うんですか? 猫捕まえられなくて警察呼んだとか。」
「うーん、それは知らなかったなあ。」
六郎もアップルパイを頬張りながら明恵を見た。ゴスロリ風の制服の明恵が言うには、
「犯人はi-tuberらしいですよ。後でその時のバタバタがi-tubeに掲載されたそうです。私も見たんだけど、あっここだって思っちゃった。」
「それ、まだ見られるの?」
「と思いますよ。」
そう言うと明恵は新たな客にテーブルを離れていった。
信介はスマホを取り出すとi-tubeを開いた。タワーシティで検索を掛ける。出てこない。ならば、マンション、猫で検索を掛けてみた。すると、
「あった、これだ。」
信介は動画を六郎にも見せた。
「間違いなくうちですね。」
走り回る猫に恐怖で足がすくんでいる中年女性が映っている。それは紛れもなく有村さんだった。
動画にはたくさんのコメントが付いていた。
「どうも、最近の若い者は悪趣味通り越してますな。」
六郎が顔をしかめた。
「酷いね。有村さん、この前は還付金詐欺だし・・・。」
「削除申請してないんでしょうか?」
「さあ。たぶんしてないんじゃないですかな。」
「ああ、このi-tuber、この手の悪辣な動画ばっかり上げてますよ。酷いもんだ。」
六郎が他の動画を選んで信介に示した。そこには1階のコンビニで大騒ぎをする若者たちの動画が映っていた。
「これ、事件の範疇じゃないですかね?」
「微妙ですね。」
屋内の動画はこれだけだったが、これ以外にも明らかに我がマンションでの撮影動画が多く掲載されていた。どれも犯罪紙一重で、住人のお年寄りを脅かすような動画ばかりである。
「全く不届きな奴等だ。」
そして次の瞬間、更に動画を探していた信介が絶句した。
「これは・・・。」
それは先般の山田章子嬢の脱衣動画だった。書き込みに依ればこのi-tuberピカキンチューなる人物が他サイトから転載した動画だとある。信介は悪い予感がした。こいつが真犯人? まだ山田章子嬢のスマホを乗っ取った人物、UBernoteを仕込んだ人物は捕まっていない。脱衣動画にはよりたくさんの「いいね」が付いていた。
裸こそ映っていないものの派手な下着姿はバッチリだ。先般話しただけだが章子嬢はホステスではあるが、いたって真面目な女性と信介は感じていた。
「ちょっと問題だな。」
信介は何かを決意するように首をゆっくり振るとコーヒーを飲んだ。
「ところで、さっきのご質問ですが・・・。」
信介が腹も満ちたところで六郎に話し始めた。
「さっきのって?」
「いや、パスワードを頻繁に変えない方がいいかって。」
「ああ、そうなんです。色々見てると両方あるんですよね。頻繁に変えた方がいいって言ってるのと、あまり変えない方がいいって言ってるのと。」
六郎は言いながら首を傾げた。
「どっちも正解ですよ。使う環境に依ります。」
信介はきっぱりと言った。営業トークの名残かスパッと言いきるのが信介だった。そっちの方が説得力がある。
「と言いますと?」
「つまりこのスマホのパスワード、こういうのは頻繁に変えた方がいい。外へ持ち歩くPadやノートパソコン、これもしょっちゅう変えるべきです。」
「どうして?」
「誰かに見られる可能性が高いから。覗き見される可能性があるでしょ? 外で使うんですから。」
「ああなるほど。」
「それに対して自宅内だけで使うパソコンやマイページの類い、ネットバンキングなんかもネットカフェなんかで使わないのなら、パスワードは変えない方がいい。」
「ほお。どういう理屈ですか?」
「しょっちゅう変えるとなるとどうしても似たようなパスワードになりやすいんです。」
六郎は紅茶を飲み干しながら信介を見た。
「私も経験あるんですが、会社のパソコン立ち上げる時にパスワード入れますよね。あれ、必ず1週間に一度は変更するように指示がありました。実際1週間過ぎると警告が出て無理矢理パスワード変更画面になってしまいます。」
「はいはい。うちの会社もそうでした。面倒くさいですよね。でも、佐崎さんはシステム会社でしょ? それは仕方ないんじゃないですか?」
「いやそうなんですが、実際8文字以上のパスワードをしょっちゅう変えてたら覚えきれないですよ。それで私も、こういうことをやってました。」
六郎は益々興味を持って身を乗り出してきた。
「例えば、IKASASとパスワードを決める。」
信介はボールペンを取り出すとナプキンにアルファベットを綴った。
「IKASAS?」
「SASAKIをひっくりかえしただけです。」
「ああ、なるほど。」
「まだ6文字です。なので、IKASASのあとに01を付ける。IKASAS01、これで8文字以上、ローマ字・数字の混在。理屈の上ではそこそこ安全度の高い組み合わせです。なんでしたら最後に?を付けてもいい。」
「うんうん」
「でも、1週間ごとに変えるとなると、思いつく単語もなくなってくる。ランダムになんてなったら絶対覚えきれない。だからメモを書く、紙に。机の引き出しにしまうわけです。危ないですよねえ。」
「パソコンの画面にポストイット貼ってる人いましたね。昭和ですね。」
六郎はそう言いながら笑った。
「今は平成の次の時代ですからね。メモはヤバいから覚え易く、私はこうやってました。」
信介はナプキンのIKASASの後の01を消して02と書き込んで見せた。
IKASAS01の次の週はIKASAS02、その次の週はIKASAS03です。」
「なるほど〜。」
「もしIKASASが佐崎の逆さまだと知れれば01、02、03と試していくだけで大当たりです。だからパスワードをしょっちゅう変えろって言うのは危険なんです。こういうことやる人が多いから。」
「おお、目から鱗です。」
「だから誰にも覗かれない自宅に置いてあるパソコンなんかはパスワード変えない方がいいんですよ。」
「うんうん。なるほどザ・ワールド!」
「それもまた昭和ですねえ。」
そう信介が言うと2人は大声で笑った。
ひとしきり笑った後、信介が今度は真顔で六郎に言った。
「但しですよ、ネットなんかで使ってるパスワードは使い回しはやめた方がいいです。」
「ようは、ハッキングされて情報が漏れた時大変なことになるってことですね。」
「そうです。ネットバンキング、ネット通販、クレジットカードのマイページなどなど全てが一気に危険にさらされることになりますから。」
「いや、よく分かりました。勉強になりました。」
博多六郎は65歳、信介より5つ年上だ。サラリーマン生活を終えて隠居した時にこのマンションを買ったそうである。今時なのでシニア採用で会社に残る選択肢もあったのだが、スッパリ辞めたという。で、タワーマンション。金の出所が気になる男だった。
部屋に戻った信介はまずコンシェルジュ席に電話を掛けた。明恵が教えてくれた『猫騒動』について聞くためだ。
コンシェルジュは明確に肯定した。確か先月、猫が館内に入り込んで大騒ぎになったと言うのである。但し、その時の動画がネットにアップされていることは知らなかった。コンシェルジュは住人である有村さんの顔が出てしまっているなら対策が必要だと言った。更に本社の営業が来てるので話をしませんかと信介は誘いを受けた。
2階に降りてみると槇村不動産販売の営業窪川が来ていた。
「先般は大変ありがとうございました。」
慇懃に礼をすると窪川は名刺を差し出した。肩書きは何もない。これだけの大型物件を扱う営業にしては若い。高齢者住宅のようだからな、信介は心の中で思った。
「今度は猫騒動の動画が出回ってるとか。」
さも深刻そうな顔で窪川が唸る。
「それよりちょうど良かった。その後警察から連絡はあったんですか? 捜査の進捗は?」
「はあ。山田様のスマホの解析を進めているようですが、なかなか・・・。UBernoteを仕込んだ男は特定されたようですが、山田様の店のお客様で全くの善意のようです。」
「そうですか・・・。実はあの時の動画なんですが、i-tubeにもアップされていることが分かりました。」
「え? なんですって? 同じ動画ですか?」
「はい、同じものだと思います。そこに猫騒動もアップされていました。上げたのは同じ人物です。ピカキンチューとかいう人物。」
「同じ人が?」
「ええ。まあ山田さんの動画が消える前にダウンロードしてあったとも思えるんですが・・・。」
「こちらのも持ち帰りまして私どもから削除申請を行うように致します。」
窪川はメモ帳に信介に見せて貰った動画のことを書き込んだ。
「最近、猫騒動以外に何かありませんでしたか?」
信介はコンシェルジュに問いただした。
「何か・・・ですか・・・?」
コンシェルジュはさも深刻そうな顔で信介を見返してきた。
「さあ、特にはないと思いますが・・・。」
「本当に?」
「え、ええ。たぶん。」
信介には秋葉という名のコンシェルジュが100%の善意なのか、何か含みを持っているのか判断出来なかった。
窪川はタワーシティを出ると都心の本社へ戻った。槇村不動産販売の本社は西新宿高層ビルの5フロアを占有する中堅企業である。
タワーシティは東京オリンピックの年に販売された3社協業の大型物件だった。ところが、元々供給過多だった東京近郊のマンションはその年のうちに早くも値崩れを始める。富裕層は更に好条件のマンションに移り、残ったのは中間層、定年退職を迎えたシニア世代ばかりとなっていった。現役世代の極端に少ないタワーマンション、それが今のタワーシティだったのである。
「おい、窪川。」
呼ばれて窪川は部長席へ。
「君をサイバーセキュリティ対策会議のメンバーに選んでおいたから宜しく頼む。」
「え? それは課長が出席するのでは・・・。それに私そういうことには素人で・・・。」
窪川は突然の指名にもごもごと反論を試みた。
「何を言ってるのかね。三山課長は今目黒の新物件で付きっきりなんだよ。だから窪川君、君に頼んでるんだ。」
部長の大下は有無を言わさぬタイプだ。言われた以上これは決定事項なんだろう。とはいえ、タワーシティの新しい入居者募集もやらなくてはならない。よく分からない会議に忙殺されるのは気が進まなかった。
「ですが、私はサイバーセキュリティとか全然でして・・・。」
口ごもりながらも窪川は更に言い募った。
「知らないなら、いい機会だからよく勉強したまえ。うちも様々なITテクノロジーを活用しているんだ。知っておいて当然だろ。」
もはや聞く耳持たない、そんな雰囲気で大下部長はパソコンの画面に目を転じた。そこにはゴルフ場の情報が開げてあった。
こうして窪川は槇村不動産販売が取り組むサイバーセキュリティ対策会議のメンバーとなった。各部門から人が出ており、総勢12人である。そしてCISOの山上副社長が座長だ。会議は実質的には企画本部の東郷本部長が仕切っていた。
「2018年改訂されたサイバーセキュリティ経営ガイドラインが、今般時代の変化に伴って再改定される。それに合わせて我が社のサイバーセキュリティ対策も改定を加えていかなければならない。その改訂内容の用件出し、実際の運用方法、そして検証の方法など諸君らといっしょに考えていきたい。」
東郷本部長の挨拶が済むと、早速会議は始まった。だが、窪川には眠い話でしかない。
WEBやITを一番使っているのは販売促進部であって、窪川のような営業では縁遠い。販促部がWEBサイトから集めた個人情報を元に営業部が営業活動を行うなどはある。だが、そこから先は足と根性だ、が大下営業部長の方針だった。
「では、会の発足に当たってちょっとお尋ねしていきたいと思います。」
立ち上がったのは会社が雇ったコンサル会社の担当者だった。
「では、どなたか実際にサイバーセキュリティリスク経験のある方いますか?」
コンサルは会議室を縦横に歩き回りながら出席者の顔を順に見ていった。皆一様に首をすくめて通り過ぎてくれと願っている。
「では、あなた、どうですか?」
誰からも手が上がらないので1名が犠牲になった。
「販売促進ですね。結構WEBは必須のツールじゃないですか?」
仕方なく指名を受けた販促の担当者が立ち上がった。
「私どもの部門では、WEBサイトの制作と運用。WEBサイトにおけるアンケートの実施と個人情報の収集を行っています。」
「そうですか。で、何か危険なことはありましたか?」
「そうですね・・・。随分以前のことになるんですが、アンケートの自由記入欄におかしな文字列を記入されたことがあって・・・。」
「ほう。それでどうなりましたか?」
「いや、私はよく分からないんですが、システム部の方が対応してくれました。」
「そうですか。これは、SQLインジェクションというシステムの脆弱性を突いた攻撃方法です。古いアンケート入力フォームなどは危ないです。」
しばらくコンサルによる脆弱性を突いた攻撃についての話が続いた。窪川には話の半分くらいしか理解できなかったが、盛んに繰り返される攻撃という言葉が酷く印象に残った。つまり、悪意を持って攻撃される可能性が企業にもあるということだ。
「では、あなた。いかがですか?」
突然指名を受けて勢いよく立ち上がった窪川は椅子を後ろに倒してしまった。それを慌てて直して、
「は、はい。営業の窪川と申します。」
自己紹介をした。
「窪川さん、何かリスクを感じた事ってありますか?」
「いや、あの。私は営業部門なので、足と根性で・・・。」
小さな声で話す窪川に辺りから失笑が漏れた。
「営業の方ですね。いいですよ。」
「あの・・・、実は私の担当するマンションで、先日居住者のスマホが乗っ取られるという事件が発生しまして・・・。」
窪川が話し始めると、意外にもコンサルが興味を示したのか更に突っ込んできた。
「その、居住者の方がシャワーを浴びるために服を脱がれる動画がネットに出てしまったんです。それで、その、警察も呼んで対応に当たってるんですが、なかなか犯人の特定に到らず・・・。」
窪川の話に座は益々和んでいく。
「それは当社のサイバーセキュリティとは関係のない話だろ。住人のスマホのウィルス感染まで心配していられないぞ。」
東郷本部長が呆れたように言い出して、窪川は真っ赤になって席に着いた。
「まあ、直接はそうなんですが。ネットに出てしまって、それが槇村不動産のマンションだと特定されてしまうとイメージダウンですね。別の問題かと思いますが、取り敢えずは居住者の方がご自分で出来なければ、動画の削除要請を出すべきですね。」
「はい。そうなんです。住んでいただいてる皆さんには快適に生活していただきたいんです。早速要請を出すようにします。システム部の皆さん、宜しくお願いします。」
窪川は勢いよく話して再び席に着いた。
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