今はまだ遠い side カナタ01

 カチャン、小さな音と共にポストに鍵が入れられる。怠い体を起こし玄関へ行くと、既に大柄の男・俺の家来兼世話係の洋平がポストから鍵を取り出していた。


「坊ちゃん。次の仕事ですよ」

「おいその呼び方やめろ。……ちっ、まだ今の仕事も終わってねぇっつーのに」

「まあまあ。お父上も大変なのですよ」


 洋平は俺に鍵を手渡すと、朝ご飯できていますよと言いキッチンへ入った。鍵を振ると、小さな紙が出てくる。

 神野芽衣子、68歳。高校生の孫がいる、か。

 ちいっ、と大きな舌打ちをしてリビングに入った。


「あの男は人使いが荒すぎるとは思わねぇか」


 カンカンとステンレスのコップを爪で弾きながら朝食をテーブルに並べる洋平を見る。今日の朝食は焼き魚とほうれん草のお浸し、玉ねぎとわかめの味噌汁。朝食はパン派だと口酸っぱく言ってもこれだ。この男は完全に俺を馬鹿にしている。俺の苛立ちに気付いているはずなのに余裕で笑っているのが更に俺の苛立ちを煽る。


「お父上もあなたと同様せっかちですから」

「俺はせっかちじゃねぇ」

「せっかちではない人はそんな癖を持っていませんよ」


 未だカチカチと鳴らしていた爪を顎で指されバツの悪さからすぐに手を引っ込めた。


「……とにかくだ。今の仕事はまだ片付きそうにない。アサヒに回せ」


 アサヒとは、俺の弟のことである。俺と同じ仕事をしているが、両親に甘やかされ自由気ままな生活を送っている。気が向いたら仕事をするという、真面目に忙しく仕事をしている俺からしたら小憎たらしい男だ。


「できません。お父上はあなたにやれと命令されています」

「だから、俺は……」

「命令、です」


 あえて命令を強調した洋平は、この話は終わりだとばかりにいただきますと手を合わせた。その態度にまた苛立ちながら箸で焼き魚をつつく。

 面倒臭ぇ。やっぱり俺はパン派だ。

 ジャージを脱ぎ、洋平がアイロンをかけたカッターシャツを羽織る。あの男は暇さえあれば家事をしていて、私はきっといい旦那になれますね、などとほざいているがこれじゃあこの世界に何をしに来たかわからない。確かにアイツの作る飯は美味いし掃除も隅の隅まで行き届いているしシャツを羽織った感触も悪くないが。


「坊ちゃん、そろそろ」


 リビングのほうから洋平が俺を呼ぶ。ブレザーを羽織り鞄を引っ掴んで部屋を出た。


「……だからその呼び方やめろ」

「私にとってはいつまで経っても坊ちゃんですよ」


 ガキの頃から俺の面倒を見ている洋平からしたら確かに俺はいつまで経ってもガキなのだろう。チッと舌打ちをして玄関を出た。その瞬間眩しい光が目を刺す。


「っ、チィッ、太陽だけはどうにかならねぇのか」

「坊ちゃんは太陽に弱いですからね。ですが太陽がないと地球上の生物は滅びてしまいます」

「フン、弱っちい生き物だ」


 こうして人間界に溶け込んで生活する以上、限りなく避けてはいるが人間と接触する機会はある。マナーを守れない大人、保身ばかり気にする政治家、自分が守られているとも知らず甘えたガキ共、そんな奴らを見る度に吐き気がした。人間は弱い生き物だ。


「すみません、あの、いつもこの電車乗ってますよね」

「……」


 人でごった返したホーム、俺に声をかけてきたのは同じ制服を着た女だった。顔を真っ赤にしたその女の後方に友達らしき数人がこちらを見守っている。一人で行動することもできねぇのか。


「私、あなたに一目惚れして、よかったら」

「……数秒後には、お前は俺のこと忘れてるよ」

「えっ?」


 女の目の前に手を翳す。女は驚いた顔でその手を見て、そして目を瞑ってその場に座り込んだ。「あかね?!」と後方で見守っていた友人達が女に駆け寄る。


「えっ、わ、私……」

「あんた急にどっか行って倒れちゃって、どうしたの?!」

「わ、わかんない、私何して……」


 そんな女達を尻目にホームに滑り込んできた電車に乗った。

 列の前の方に並んでいたため奥まで押し込まれる。毎日この電車に乗るわけだが、この瞬間はいつまで経っても慣れない。皆がイライラしているのが手に取るように分かって気分が悪い。……まあ、一番イライラしているのは俺だという自覚はあるが。

 入口の反対側のドアに押し付けられる形で立ち、向かい側のホームにふと目をやった。


「……」


 あの女がじっと俺を見ていた。病院で会った、あの女だ。

 人間の脳というものは俺たちにとっては便利なもので、普段目にしているものでも脳が必要なものと認識しない限り記憶には残らない。さっき声をかけてきた女の目に俺は留まったようだが、俺があの女の俺に関する記憶を消したことであの女の目に俺は映っても記憶に残ることはなくなった。

 それを利用して俺たちは人間の記憶から自分たちの存在を消しているわけだが、向かいのホームに立つ女は俺をじっと見ていた。恋慕の類ではないのは目で分かる。ならどうして、俺を見ているのか。

 電車が動き出し駅を出る。それまでずっと女と視線が外れなかった。


「……変な女がいた」

「え?」


 隣に立っている洋平に向かって気が付けばポツリと呟いていた。洋平は特に気に留めずそうですか、と答えた。どうせ坊ちゃんに一目惚れしたんでしょう、とも。俺は何も答えなかったが、あの目が頭から離れなくなったのは事実だった。

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