第1章

正義のかけらと銃使いの少女①


 あの瞬間を、忘れる事はできない。

 忘れよう、忘れたいとどれほど願っても。

 頭の中で、胸の奥で、無数の悲鳴と共に。

 あの女が、笑いながらささやくのだ。


 これがお前の運命だと。


 その銃で、私の心臓を。

 撃ってみろ――そう言うのだ。


 貫く事ができたならば、解き放たれる事ができるのだろうか?


 悪魔に心臓は、ないと聞くのに。



 ◇


  第1章



 かつて、一人の王子がいた。


 生まれながらにして体が弱かった王子は、幼い頃からいつも病に伏せていた。

 そんな王子を、王は快く思わなかった。病に侵されるのは王子に責任があると、脆弱な王子を強く罵り、病に苦しんでいる時も部屋に近づく事さえしなかった。


 そんな王に、王妃は強く嘆いた。

 そして、健やかに産む事ができなかった自分を、常に責めた。


 やがて王妃は心を病み、同時に、王の心は離れて行ってしまった。


 病がちの王子と心を病んだ王妃は、城とは別の塔に移され、王が会いに訪れる事は一度もなかった。

 そしていつしか、王の隣には別の者が座るようになった。


 塔に住む病に囚われた悲しい王子。


 自由に外に出て駆けまわる事もできない、部屋を出る事さえできない王子の唯一の楽しみは、たった1人の友が訪れる時。


 騎士の名門であるアイゼム家の長男、ディン・アイゼム。


 王から見捨てられ、誰も近づこうとしなかった王子に、唯一笑いかけてくれたその少年は、王子にとって生涯の友となった。


 ――やがて、金の獅子として世に名を馳せた1人の騎士。

 それが、ウィルの父だった。


 ディン・アイゼムの名は、隣国の誰もが知っている。金の獅子――戦神いくさがみとも称されてきた。

 そしてその腹心モーリウス。彼もまた、幼い頃からアイゼム家に仕え、剣聖と呼ばれ畏れられた。


 アイゼム家は、ウィルの曽祖父の代から王家を守り、寄り添い続けた。騎士の中の騎士。


 ウィルもまた、物心つく前から言い聞かせられてきた。


 王家を守る事。

 正義を貫く事。

 強くある事。

 弱きを助ける事。

 世の悪を、決して、見過ごす事なきよう。

 己の正義を、絶対に、見失わない事。


「父上……」


 その父が死んだ?


 誰かに討たれた。

 ウィルには何もわからない。

 相手が誰なのか。

 なぜそんな事が起こったのか。


 本当に?

 

 そして、モーリウスも同じく、ウィルとグリスを守るようにして。


「姉上……」


 川辺に膝をつき、ウィルはただ姉を呼び続けた。


 傍らには、姉から預かった鏡が放り出されていた。


「……」


 何が起こっているというのか。

 これからどうすればいいのか。


「父上……」


 その時、ガサガサという茂みを掻き分ける音が耳に飛び込んできた。

 人の話声がする。

 何を話しているかはわからない。


 声に怯えた少年は、その場に息を詰めて凍り付いた。


 さらに彼を震えさせたのは、耳に入った一言。


「探せ」


 探している。

 恐らく自分を。


 飛び上がるようにウィルは立ち上がり、投げ出してあった鞄を掴んだ。

 そのまま駆け出そうとしたが、足元に転がる鏡と金の刺繍の包みに目が留まった。


 このまま忘れたふりをして、走り去ってしまう事もできるのに。

 ウィルは苦しそうに2つを掴むと、鞄の中に押し込んだ。


 水の流れを頼るように、駆け出した。


 ああ、どうして走らなければいけないのだろう。自分は何から逃げているのか。

 何が起こっているのか。

 冷静に考えなければいけない――でも頭はうまく回ってくれない。


 姉はどうなったのか。

 父上とモーリウスは本当に死んでしまったのか。

 この鏡は一体なんなのか。


 そして、鏡に映る少女と竜は一体――。


 考えられない中、唯一浮かんだ事は。

 城に、戻らなければいけない。

 自分の城に。故郷に。

 アイゼム家の領地、イーゼルへ。


 父はきっと生きている。死んだなんて、嘘だ。

 一刻も早く父の元へ戻って、事の詳細を伝えて、姉上を助けなければ。


 父に、父に。

 早く――。


 やがて、川が二手に分かれた。ウィルは迷わず、森を抜ける方の道を選んだ。

 川の流れは緩やかになり、森の向こうには田園が開けた。


 畑の向こうに、町が見える。

 

 ウィルは弾けるように町に向かって走った。

 誰か、誰か――狂おしいほどもがく心とは別に、足は思ったほど早く走れない。


 それでも、ようやく町並みと人影が見えてきた頃。

 見えた人影の中に、兵士がいる事に気が付いた。


 ウィルは思わずその場に立ち止まった。


 あれはただの……町に駐屯する兵士だ。

 ウィルも町の学校に通っている。兵士がいるのも普通の事だ。

 なのに、胸が早鐘のように打つ。

 兵士から命からがら逃げたのは、昨晩の事なのだ――。


 ウィルはギュッと鞄を掴んで歩き出した。


 父上の元へ帰る方法を探さなければいけない。

 大丈夫――自分に言い聞かせ、人通りの少ない民家の間をすり抜けるようにして町に入った。


 表通りに出ると、そこは、市場だった。

 いくつものテントが所狭しと並んで、人の熱気に包まれている。

 みずみずしく光るたくさんの果物、こぼれ落ちそうなほど積み上げられたジャガイモや菜物の数々。店先に集まる人と、元気な客引きの声。


 人と、土と、水と、太陽のにおい。


 光って見えた。


 とてもきらきらして見えた。


 自分の状況も忘れ、テントの道を歩いて行く。


 焼けるいいにおいに引かれるように進むと、網で野菜が焼かれているのを見つけた。

 彩りの夏野菜。トウモロコシにナスにオニオン。

 甘いにおいに立ち止まっていると、テントの中から出てきた店主が、網にエビと肉を投げるように乗せた。


 エビが跳ねた拍子に水が顔に飛んだ。


「わっ」


 思わず悲鳴を上げると、店主が笑い声をあげる。

 そうこうする間に、香ばしいにおいと熱気が、顔についた水もろともウィルを包み込む。


 肉のにおいに釣られるように、ウィルは空腹を覚えた。そう言えば昨日、馬車の中でお弁当のサンドウィッチを食べて以来だ。

 食べていなかった事さえ忘れていた。色々な事がありすぎた。


 途端に、お腹が鳴る。


「食べるかね? 一皿3オルボスだよ」


 ウィルは困った顔で肩掛け鞄をさばいた。

 小銭の入った巾着袋を取り出す……中には、オルボス硬貨が5枚。ウィルの顔がパッと輝く。


 木の皮で出来た容器に、野菜と肉、エビが盛られていくのを、ウィルは食い入るように見つめた。

 甘辛いタレが塗られて、焦げかけたにおいが鼻をくすぐる。


「ありがとう」


 両手で受け取って、ウィルは弾けるように器を持ってテントの隅に行った。

 フォークを借りて、まずは大きめに切られたジャガイモを頬張った。口いっぱいに入ったジャガイモに、ウィルはたまらずはふはふと悶える。


 おいしい。とてもおいしい。

 涙が出たのは、ジャガイモが熱かったからだけじゃなかった。


 タレの染みた鶏肉も、むさぼるように口に入れる。


「おいおい、そんなに慌てて食べるなよ」


 見かねた露店の店主が、苦笑しながらウィルに言う。


「ヤケドするぞ。水飲むか?」


 差し出された水を、ウィルは一気に飲み干した。


「うまいか?」

「うん」

「そうかそうか。どれも、今朝仕入れたばかりのものだからな」


 温かい物を食べるだけで、体がホカホカする。太陽みたいだと、ウィルは思った。


「お前、どこから来た? この辺の子じゃないだろ。親は?」


 尋ねられ、ウィルは凍り付いた。


「……お使いで……」


 間違ってはいない。

 でも、それ以上は黙っていなければいけない気がした。

 なぜだか、本能が。


 そこからは、掻き込むようにして食べた。

 喉を通ったおいしいはずのものたちは、途中から、味がよくわからなくなってしまった。


 最後の肉を飲み干した時、ウィルの前を小さな子供が転げるように走って行った。

 通りに悲鳴がわき起こる。ウィルも、子供の背中を目で追いかけたが。


「逃げたぞ!! 捕まえろ!!」


 怒号と共に、子供を追いかけていく姿があった。

 兵士だ。

 兵士の1人が焼き網をひっくり返し、乗っていた野菜や肉が地面に散らかる。


「くそっ!!」


 店主は悪態をつく。

「嫌な奴らだ」


 茫然と兵士の背中を見送るウィルに向かい、店主は少し心配そうな顔で言う。


「お使いが済んだら、早く帰んな。今この町は物騒だ」

「なにが……」

「昨日、城に忍び込んで盗みをした子供がいるそうで、やつら、町の子供を片っ端から捕まえてるんだ」


 ――僕を探しているんだ。


 ぞっとした。

 兵士が自分を探している――。


 目の前に、最後に見たエイリーヴの領主・スノール卿の黒い輪郭が浮かんだ。


「助けて」


 耳につんざく声がした。


「大通りで子供が兵士に」


 掛けてきた町の大人が叫んでいる。

 ウィルはテントの脇に身を縮めた。


 自分の代わりに、子供が――。


 ウィルは歯を食いしばる。


 僕は、父上の所に、戻らなきゃいけないんだ――。


 握りしめた手のひらが、熱くなった。

 温かい物を食べたからではない。

 ウィルの心を、何か言いようのない、熱いものと。

 凍り付くような冷たさが交互に浮かび上がった。


 このまま身を潜めていたい……心の中、そう呟くのとは別の所で。


 正義たれ――小さい頃から聞き続けた父の言葉が、延々と鐘のように打ち続けた。

 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

かがみ姫 ―呪いの竜に囚われし、悪魔の姫君― 春瀬りつ @haruse_r

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ