始まりと終わり④

 ウィルは姉と2人、走った。


 追いかける兵士を振り返る事はしなかった。

 ただ、腕を引かれるがままに。


 姉の背中を見つめながらウィルは思い続けた。

 泣かないで、姉上、と。

 どうか泣かないで。


 僕が、強くなるから……。


 ……どれだけ2人で走ったのだろう。

 いつしか、追いかけてくる兵士はいなくなった。

 不思議なくらい、辺りは静まり返った。


 その気配に、グリスは警戒しながら歩を緩めた。

 ウィルも従う。


「追ってこない……?」

「……」

「姉上、誰も追ってきてない」

「…………」


 振り返っても誰もいない。

 ウィルは素直にホッとした表情を浮かべたが、グリスは違った。

 立ち止まり、気配を伺う。


「……」

「姉上……」


 息が整ってくると、ウィルの心に色々な事が一気に押し寄せた。


「姉上、モーリウスは」

「……」

「父上は……」


 覗いた姉の頬には、涙の痕があった。

 だが、それとは別に、彼女の眼差しは強かった。


「父上が簡単に討たれるとは思えない」

「……」

「でも、もしも……それが本当だったら……父上を襲った相手はわかってる」

「姉上……?」

「いい、ウィル。よく聞いて」


 少年の視線まで腰を落とし、彼女は決意の瞳を見せる。


「ウィル。あなたにはアイゼムの血が流れてる。武門の棟梁たるアイゼム家の血。騎士の中の騎士」

「……」

「金の獅子と呼ばれた父上と、剣聖モーリウス。2人の血と剣を受け継ぎし唯一の存在」


 そんな事……と、ウィルはためらった。


 剣は苦手だった。

 戦いは嫌いだった。

 本当は、そんな事よりも。

 たくさんの世界を見て周りたいと思っていた。


 大好きな本がある。

 大好きな物語がある。

 世界に溢れる様々な歴史や文学。

 そして、冒険の物語を巡る――ウィルにとって、本当に心揺さぶられるのは。

 ……広い広い世界、そのものだった。


「ウィル」


 グリスは優しく少年の頭を撫ぜた。

 つい先ほど、父が彼にしたのと同じように。


「お願いがあるの」


 父は姉へと、ウィルに願いを託した。

 今度は姉から弟へ。


「これを」


 グリスは抱え持っていた包みを取り出す。

 金の刺繍でほどこされた獅子の紋章の包みに。


「この鏡を、」


 箱から取り出した手鏡をくるむ。


「ラグナの炎に……ラグナの火山に投げ捨てて欲しいの」

「え……」


 この鏡は何なのですか?

 ウィルがグリスに尋ねようとした時。

 カツ、カツ、カツという靴鳴りが響いた。


 グリスの視線が虚空へと踊る。


「この先まっすぐ行けば裏口に出れるわ」

「姉上……?」


 足音が近づいてくる。

 姉が出口だと言うのとは別の方から。

 カツカツカツと。

 黒い衣の男が1人。


「姉上、誰かが」

「……」

「は、早く、逃」

「……私は」


 立ち上がる姉を見上げる。

 頬の涙は乾いている。

 瞳が物語っている。


「姉上」

「私は行けないの」

「――」

「ウィル、お願い」

「いやだ」

「……ウィル」


 悲しい顔は見たくない。

 大好きな姉上。

 ……久しぶりに見た姉は、とてもきれいになった。

 だけど。

 とても、悲しく思えた。

 ウィルにはその理由はわからない。


 ただ。


 今この手を離したら。

 もう二度と、掴む事はできないと。


「姉上、一緒に」


「……」


「早くッ」


 迫りくる――ああ、あれは姉上の夫たる人。スノール卿だ。


 ゆっくりと、たった1人で歩いてくる。

 逃れられぬぞと、言わんがばかりに。


 そして迎えるグリスのピンと伸びた背は答えている。

 逃げはしないと、決然と。


「お願いだから」


 一緒に行こうと願うウィルと。

 ……逃げてと願うグリス、2つの想いが交差してしまった時。

 そこに道が出来上がる理由は、たった1つ。


 ――願う想いの、強さ。


「ウィル」


 ――愛の深さ。


 グリスは最後に、少年を抱き締めた。


「……ね?」


 ――何を決意したか。


「行きなさい、ウィザール・アイゼム」


 ――どこで、覚悟を決めたのか。


 血を絶やしてはいけない。

 背中を押された。

 いやだと、ウィルはもがいた。


 だが。


 ……叫びながら走り出した。


「あなたが求めるものはここにある」


 声高らかに言ったグリスは、天に向かって小箱を突き出した。

 ウィルは鏡と包みを必死に抱き締めた。


「捕らえよ――」


 静寂は一気に崩れた。

 人の気配が一気に膨らんだ。

 逃げなければいけない。

 たくさんの顔が浮かんだ。

 だから。

 逃げなければいけないと。


 父上。

 モーリウス。

 そして……姉上。



 ◇


 城を飛び出したウィルは、わけもわからず、茂みの中に飛び込んだ。

 茂みから森へ。

 森は深く。

 ……わけもわからず。

 ここがどこかも。

 どこへ行くのかも。

 ……わからないまま。




 ……いつ、誰も追いかけてこなくなったのかわからなかった。


 気づけば、ウィルは1人だった。

 地面に転がり、自分の荒い息の音を聞き続けていた。


 空には星があった。


 樹々に遮られた空では、断片的にしか見えない。


 姉上の部屋から見る空は、こんな感じだったのだろうか?


 そう思いながら。

 ……少年は目を閉じた。




 空腹と乾きで目が覚めた。


 辺りは明るくなっている。

 だが呟いても誰もいない。


 姉上と、モーリウスと。

 父上……と。

 誰の名を呼んでも、答えてくる声はない。


 体のあちこちが痛かった。


「……」


 昨夜の事は一体何だったのだろう? 夢だったのではないか?

 そう思う反面、ずっと、包みを握り締めていた事に気づく。


 ゆっくりと、ウィルは包みの中身を取り出した。


 手鏡だ。


 姉上に届けてくれと言われたもの。

 これは一体……?


 黒銀に光る鏡には、たくさんの花が彫り込まれていた。

 鏡面に返す。

 ただの鏡――そう思った時。


 鏡の中央。

 ゆっくりと、まるで鏡面がめくり上がったかのように開いた。

 赤い――目だ。


「――ッッ!!」


 驚いて地面に落としてしまった鏡に。

 さらに、変化が起こった。


 赤い2つの目、そして赤い唇。

 鏡面に浮かび上がったのは、少女。

 黒髪をたなびかせ、黒と白のレースの衣は乱れた様子で不自然に舞っている。

 その少女は、笑っている。

 鏡を覗く少年に向けて。

 妖艶に。

 禍々しいまでの笑みで。


「なっ……」


 毒のような微笑み。


 そして。


 その少女の背後がギラリと光った。

 牙だ。


 毒々しく笑う少女の体を、今にも食わんと。

 開いた巨大な口と、巨大な牙が――。


「あ、姉上……」


 鏡の中に映ったのは、少女を食らわんとする巨大な牙と。

 毒々しく笑う少女――。


 ◇


 包みには、父が姉に宛てた手紙も入っていた。

 そこにはこう書かれていた。


 ――時は迫っている。

 この先、いつ何が起こってもおかしくはない。

 有事の際は、モーリウスを頼れ。ウィルと共に逃げよ。

 そして。

 この鏡を捨ててくれ。


「父上、姉上っ……!」




 これは、呪いの鏡である。

 閉じ込めしは、呪いの竜と悪魔の姫である――と。

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