始まりと終わり③

 ああ、自分は何のためにここにきて。

 何のために過ごしたのかと。

 ――そんな、姉上の声が聞こえた気がした。


「アイゼム卿が――」


 この男の人は一体何を。

 なぜこのように叫び。

 驚愕を浮かべながら。


 笑っているのだろうかと。


 笑いながら膝を着く男の顔は、あまりにも恐ろしかった。


「わかりおろう……この意味が」

「……」

「モーリウス殿、何故今日ここに貴殿らは現れた?」

「……」

「大人しく従いくださるか? モーリウス殿。グリス様と、ウィル様と共に」

「……否と申したら」

「言うに及ばず」


 兵士が動けば、鎧が鳴る。

 その音は、常と同じのはずで。いつも聞いているはずの音なのに。

 聞き覚えがない、鋭利。

 似ている――まるで、父の書簡で表情を変えて行った姫君のように。


「捕らえよ」

「控えなさい、ゼルフ」

「構わぬ。3人を」


 ――否。


「歯向かうならば」


 ――首とても。


 モーリウスが腰の剣を重々しく抜いた。


「ウィル様、姫を」


 剣の鍛錬で何度も見てきた、剣を振るうモーリウスの姿。

 だが、初めて前にする。

 木剣ではなく愛刀を振り、

 ――踏み込んだのはわかった。

 だが、振るった剣の行く末は、見えなかった。

 次の瞬間、兵士が一人倒れた。

 いや――斬られたのだ。

 首の端から吹き出る血と。

 人が斬られた瞬間と。

 ……すべて、初めて目の当たりにする。


「ウィル様ッ!!」


 2人目の兵士が絶命する。


「ウィル」


 腰を砕きながら逃げ行く男に視線を投げるモーリウスを、姫君が制する。


「モーリウス」

「……時間がありませぬ」


 姉に手を引かれ、弟は走り出した。

 何が起こっているのか、まったくわからなかった。

 ただ、モーリウスの後を走る。

 暗い回廊を走る。

 冷たい空気が肌の上を駆けて行く。

 構わず走る。


 ――アイゼム卿が討たれた。


 姉に握られた、確かな感触。


 ――わかりおろう……この意味が。


 温もり。

 目に浮かぶ姉の笑顔と。

 ……父の笑顔。


 ――泣かなかったか?


 大きな手。

 髪を撫でられたのは数時間前の事なのだ。

 別れを言ったのは、ほんの、ほんの。

 ――空には同じく雲が走り。

 同じような夕の光がさしていて。

 夜の闇などまだ微塵もない。

「父上」


 ついさっき。

 ……笑っていたのだ。


「モーリウス、こちらへ」


 グリスが道を指し示す。


「この先に、裏へと抜ける近道が」


 姫に促され、モーリウスが先を走る。

 暗い廊下に一層闇が増す。


 階段を下り行くと、鼻先に、炎のにおいがジュっと掠めた。


 一気に駆け降り、階段の裏手に滑り込む。

 座り込み、一息吐く間もなく、鎧の音が近づいてきて息を止める。


「……」


 遠ざかるのを待つまでの時間は、永遠に思えた。


「モーリウス……どういう事」


 立ち上がろうとするモーリウスの袖を、姫が引き留めた。


「答えなさい」

「……」

「手紙には、もしもの事あらばモーリウスと共にただちに逃げよとしか書かれていなかった」

「……」

「父が討たれた……どういう事、これは」


 まさか。

 そんな事。


 ウィルは何も言えない。

 嘘だとも。

 嘘だよね? とも。

 何で? とも。

 どうしてとも……父上の名すら。

 何も。

 まだ、

 ……涙すら。


 ただ、

 そんな事、あり得ないとしか。

 それだけしか。


「すべては、」


 そう言い、モーリウスは姫が持つ小箱に視線を移した。

 悟ったように、姫は獅子の刺繍の包みの中身を解き放った。

 包みの中に、小箱があり。

 急く様に姫が開いたその中に。


「……鏡」


「……」


「これは」


 どこかで怒号が聞こえる。

 姫の部屋に横たわる2つの遺体を見れば、何が起こったかなどすぐに知れる。


「行きます」


 どうあっても、ここから逃げねば。

 モーリウスが立ち上がる。


「私の使命は、2人の死守。ディン様より告げられた、最後の命」

「――」


 ウィル、と名前を呼ばれ、再び姉に腕を掴まれる。

 先ほどよりも強い力だった。

 痛いほどだった。


 あねうえ、と紡いだ言葉は。

 闇の中へと、逃げるように消えて行った。


 走るゆくさきに、兵士が現れる。

 兵士が何を知り、何を知らずとも、モーリウスは剣を振るった。

 赤い旋風が起こった。

 頬を撫でる風は、つい先ほどまではひどく寒く感じられたのに。

 熱かった。

 どうしてか。

 焼け付くほどに、熱かった。


 進めば進むほど、走る事はできなくなった。

 代わりに、兵士の数が増えた。

 走るよりも、モーリウスが剣を振るう時間が増えた。

 必死に自分達を庇いながら。

 ……ウィルにとり、モーリウスの剣は絶対だった。

 彼以上に強い者は、この世界にいないのではないかと。

 もしいたら、父のみだ。


 父が率いる獅子の軍。

 かつて金の獅子と言われ恐れられたという英雄譚。


 どれだけ修練を重ねても。

 どれだけ鍛錬を繰り返しても。

 敵わないと思い続けた。

 今日、彼につけられた痣が、まだ頬に残っているのに。


「殺せッ!!!!」


 どこかでする声は、誰が、誰に唱えたものか?

 斬りかかる無数の剣は、一体、何を望んだものか?


 まっすぐに。


 ただ、まっすぐに。

 きらめく無数の光が、自分に向かって走ってくる。


「ウィル様――」


 姉に握られた腕よりも。


 ―― 一瞬、何が起こったかわからぬほどに。

 視界が真っ暗になった。

 違う。モーリウスだ。

 さっきまで向こうで剣を振るっていたモーリウスが……剣が床に転がっている。

 剣を離してはいけない、モーリウス。

 何で今……両手を広げて。

 2人を掻き抱くようにして。


「……姫、様」


 耳元で囁く。

 生涯敵わぬ、絶対たる剣士が。


「ウィル!!」


 何が起こったかわからぬ。ただ、ウィルは姉に乱暴に腕を引かれた。

 掻き抱くモーリウスの胸の中をすり抜ける。

 待って、姉上、モーリウスが。

 モーリウスが、何か言ってるんだ――そう思いながら。

 必死に振り返り、ウィルが見た、モーリウスの姿は。


「逃すな――」


 こちらを見て、笑っていた。

 背中に、無数の剣を突き立てられながら。


「行け」


 口元だけで告げた最期の言葉より。

 誰かが叫んだ、呪いのような罵声の方が、耳に強く飛び込んできた。


「モーリウス」


 待って、姉上。

 姉上、止まってと。

 願いながら。

 心の中で叫びながら。


「走って」


 そう言う姉の声に従う。


「ウィル、走って」


 嫌だ、姉上。

 モーリウスが死んでしまう。

 父上が死んでしまう。

 嫌だ、姉上。


「お願い」


 止めて。

 どこにも行かないで。


「ウィル」


 ――強く。


 父が最後に言った言葉は、本当にそうだったのか。

 わからない。

 走っても走っても、ウィルにはわからない。


 そしてもう、尋ねる事もできない。


「姉上……っ」


 泣かないで。

 走る姉が呟いた声。

 違う。

 ……泣いているのは、グリス自身だった。

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