第二十話 くぬぎ 参
夕刻にはまだ間がある。
晃志郎は宛所なく歩いていた。
考えようとしたわけでもないのに、水内家で過ごした日々が、脳裏に浮かんでは消える。
まるで、遠い昔のことのようだ。
帰ろうとするたびに、哀しげな眸で晃志郎を見つめた、沙夜の顔が浮かび上がってくる。
じっとりとにじむ汗。
濃い青色の空の太陽が、やけに眩しい。
かなりの距離を歩いたところで、晃志郎は頭を振り、沙夜の幻影を追い払おうとした。
──仕事を忘れてしまうとは、相変わらず、俺は甘い。
必然ではなかったものの、間中家を見に行ったはずだった。しかし、谷本と出会ったことで、それをすっかり忘れてしまっていた。
今さら戻って見に行くほどのことではないが、自分の動揺を意識せずにはいられない。
──馬鹿だな、俺は。
沙夜は、水内家の人間だ。一介の封魔士でしかない晃志郎とは、住む世界が違う。
もちろん、今の晃志郎は、四門の役人だ。出会った当初の、市井の封魔士よりはマシになったかもしれない。しかし、封魔奉行からみれば、晃志郎はきっと、素性のしれない男のままだろう。
封魔士としての才があるだけの、貧乏浪人だった過去は、変えられない。
──そんな男の世話を、よく娘にさせたものだとは思うが。
水内家にいる間、沙夜の父である水内兵庫は、晃志郎の前に姿を現すことはなかった。
呪術者に後れをとって死にかけた男など、会う価値もない……そう思われたのかもしれないと、晃志郎は思わず苦笑する。
もっとも、羅刹党という存在が明るみに出て、四門が後手に回ったという事実は、封魔奉行所にとっても他人ごとではなく、兵庫は、家に帰る間も惜しむほど、多忙を極めていたのも事実だ。
また、兵庫の思惑がどうであれ、水内家で晃志郎が看護を受けた事実は変わらず、晃志郎は水内家には並々ならぬ恩義がある。
その恩義が、なかったとしても、沙夜は、龍之介の大切な妹だ。
胸にある沙夜への想いが、受けた恩義に対する感謝以外のものであったにしろ、それを口にすることは晃志郎には許されぬことのように思える。
──埒もない。
晃志郎は、空を仰ぐ。
雲一つない晴れやかさが、なんとも恨めしく感じられた。
武家屋敷が続くため、人の通りはそれほど多いものではない。
長い白壁沿いに歩いていた晃志郎は、官庁や、宮廷のある黄丘へと続く広い道へと出た。
ところどころに植えられている柳が、ゆらゆらと枝を揺らしている。先ほどまでの通りにくらべると、多少は商家があるため、人通りがある。
「おや、だんな。こんな場所で奇遇ですね」
不意に声をかけられ、晃志郎は驚いた。
「ウメさん?」
長屋の梅吉だ。辻の小さな団子屋で、腰を下ろし、団子を手にしている。
軒の下にできたわずかな影に腰を下ろし、僅かばかりの涼を得ているようだ。梅吉の屈託のない笑顔に、晃志郎はほっとした。
「隣、いいかね?」
「どうぞ」
晃志郎は、梅吉の隣に腰を下ろし、自分も団子を注文する。
梅吉は、すでに真っ黒に日焼けして、額から汗が滴っている。
「仕事帰りかね?」
「いや、ちょいと休憩時間ですよ。大工は晴れた日にしかほぼ作業ができないですから、お天道様が沈むまでは仕事です」
梅吉は首に巻いた手ぬぐいで顔をふいた。夏本番には、少し間があるとはいえ、炎天下の作業は、たいへんであろう。
「そうか。でも、藪裏町からだいぶ遠いから、帰りはずいぶん遅くなるのではないか?」
ここから、藪裏町まではかなりの距離がある。毎日のこととなると、通うだけでもかなりのものだ。
「そろそろ棟上げなんで、あと少しのことですんで」
梅吉は団子をほおばりながら、湯飲みに手をのばした。
「なかなかここまで、大きな仕事をさせてもらうことはないんで、多少の不便さは、どうってことはないですよ」
「大きな仕事?」
梅吉はひょいと、官庁の大きな建物から少し離れた位置にある、こんもりとした林の方角を指さした。
「黄央大社の道場の方の新築に携わらせていただいておりまして。給金も大きくて、女房は大喜びですよ」
「大社の? そりゃあ、すごい」
封魔の流派である神社の工事を引き受けたとあれば、大工としての格も上がるし、給金も大きい。遠いとはいえ、梅吉にとっては、またとない仕事であろう。
「とにかく、大工の人数が足りないってことで、あっちこっちから寄せ集められているんです。なんでも、急ぎの仕事だそうなので」
「へぇ」
黄央大社は、和良比の街中にあるため、もともと手狭と聞く。
新築は、そのための拡張なのだろうか。
それにしたって、もともとが敷地面積が、他の大社に比べたら狭い事実は変わらぬから、境内を狭くしても広げたいものがあったのであろう。
急ぎというなら、現在の施設で支障ができた、ということなのかもしれない。黄央流の土屋あたりに聞けば、その辺の事情もわかるかもしれないな、と晃志郎は思った。
「旦那も、最近はお疲れのようですな」
梅吉は晃志郎の顔を見上げる。ほんの少しだけ、その目に同情のいろがある。
「お互い、商売繁盛は良いですが、食っていくことはしんどいですな」
「……まったくだ」
晃志郎は、苦笑を浮かべながら相槌を打った。
四門の仕事を始めて、飯を食うことに困らなくはなった。明日の糧を心配しなくてもよいというのは、ありがたいとは思う。
しかし、猫を追っかけていたころのように、のんきではいられない。
あの頃。ひもじくても、それほど辛くはなかった。梅吉をはじめとする、長屋の人間の暖かさに触れながらの生活に、晃志郎は満足してもいた。
ただ、死にかけた自分を、必死で助けてくれた人間がいる。
そして、自分がやるべきことがあるとわかった以上、もうあの頃に戻ることは許されない。これは、どうしようもないことであろう。
「では。あっしは仕事に戻りますんで」
梅吉は団子の料金を店員に支払うと、頭を下げて道を上っていく。
ゆるやかに上る、この坂道は、文字通りの和良比の中心へ向かう道だ。
──仕事か。
まさか、自分が四門で働くとは思っていなかった。
縁は異なもの、という。
──随分、遠回りをしている。
ここに落ち着くとわかっていたなら、もっと平坦な道があったはずだと思う。しかし、その道を選ばなかったのは、晃志郎だ。
そのことに、後悔はしていない。
だが、別の人生になっていたのは事実だろう。同じ状況でも、違う未来が選択できたはずだ。
梅吉の背を見送りながら、晃志郎はしばらく坂道を眺め続けていた。
龍之介と土屋は、右近と共に市井奉行所の資料を調べ始めた。
資料室は、棚の上に、年号ごとにたくさんの調書が積み上げられている。右近が、事件の起きた三年前の資料を抜き出し、窓際に置かれた文机のところに重ねておいていく。
かなりの分厚さの調書が並べられ、くぬぎの事件については、市井奉行所もかなりの人員を割いて取り調べたのがよくわかった。
右近の言うとおり、調書によれば、くぬぎの商いは、非常に綺麗であったようだ。仕入先等への支払いは滞りなく行われており、商売敵と思われる他の料亭からの評判も、悪くはない。
住み込みの奉公人等への支払いも、待遇もしっかりしていたようだ。
もちろん、常連客は『ツケ』払いが常である高級料亭であるため、金銭的な問題が全くなかったわけではないとは思われる。
龍之介は、常連客への調書に目を通していく。
取り調べをした客は、相当数にのぼる。しかも、業種は、商人から武家の人間と、多岐にわたっていた。
──柳陣内。
帳面を繰っていた龍之介は、見覚えのある、その名に目を止めた。
事件が起こる、半年前からたびたび通っていたらしい。
勘定の支払い等に問題がなかったのであろう。名は記載されているが、特に目立った調査が行われたわけではなさそうだ。数回利用したときの様子、印象が語られているだけだ。
その内容自体には、何一つ目新しい情報は見当たらない。
「土屋、どう思う?」
龍之介の手元を覗き込み、土屋は眉間にしわを寄せた。
「偶然ではありえないですね」
土屋は厳しい顔で断定した。
「少なくとも、柳は、これまでいくつもの事件にかかわっていることが発覚しております。柳が直接襲った、とは思いませんが、何らかのかかわりがあるものと、考えるべきではないかと……」
土屋は、奥の棚で資料を捜している右近に声をかけた。
「くぬぎの売掛の帳面などは、残ってはおりませんか?」
「……多分、どこかにはあったと思われます」
ツケの内訳がわかったとしても、柳がくぬぎを襲った証拠にはならない。しかし、店に通った頻度、連れの人数などは、わかるかもしれない。
右近が目録を引っ張り出してきた。押収品などを記載したものだ。
「ああ、ありますな。蔵にまとめて保管されているようです。案内いたしましょう」
「では、私が」
土屋が立ち上がる。
「俺も……」
「水内さまは、その調書に、勘定奉行、もしくは寺社奉行の関係者が他にもいないか、お確かめいただけませんか?」
「なるほど」
事件とは無関係かもしれぬが、柳陣内の他にも、疑わしい人間がいないとも限らない。
くぬぎにつとめていた人間が死んでしまっている以上、他に手掛かりはないのだ。
龍之介は再び、調書を手にする。
筆をとり、武家の人間を中心に、名を控えはじめた。
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