第十八話 くぬぎ 壱

 夏が近い。

 開け放たれた障子戸の向こうから、眩しい日が差し込んでいる。

 中庭の植木の葉の緑が濃く、そのむこうの空の色はとても濃い青色だ。

 沙夜は藍染めの木綿の生地についっと指を滑らせる。

 谷本から結婚の申し込みを受けたものの、父、兵庫からはまだ、何も言われてはいない。

 兵庫は、娘を政治の道具にしようとは思ってはいないようで、今まで持ち込まれた『良き縁談』についても、無理強いすることはなかった。

 しかし、である。

 谷本は、家柄も才能も申し分ない男で、封魔奉行所でも出世頭。いわば、兵庫のお気に入りでもある。谷本になら、という可能性はある。

 ──晃志郎さま……。

 沙夜はまだ、針をいれてはいない布を胸に抱き寄せた。

 自分はこんなにも、会いたいのに。

 晃志郎が自宅へ帰ってから、十日以上たつ。

 それから、晃志郎とは全く会っていない。

 もちろん、晃志郎が龍之介と和良比の外へ旅に出たことは知っている。帰ってきて、まだ間もないこと、役目が立て込んでいるであろうことも、兄を見ていればわかる。

 それに、晃志郎が沙夜に会いに来なければいけない理由など、どこにもない。

 だからこそ、せつない。

 晃志郎は、沙夜が会いたいといえば、来てはくれるだろう。だが、それは、たぶん沙夜が晃志郎の命の恩人であり、龍之介の妹だからだ。

 ――会いたい。

 会って、どうなるというものでもない。でも、ただ、会いたい。

 沙夜の心に大きく育ったものを、告白したら、晃志郎は困惑するだろう――でも。

 自分の気持ちが、もはや抑えきれないところまで来ていることを感じながら、沙夜は青い空の向こうを見続けていた。




「どうします?」

 宝仙寺を出て、晃志郎は龍之介に問う。

 昼時の参道は賑わいをみせている。

「このあたりで飯を食って、詰め所に戻ろう。先走っては、いかん」

 自身に言い聞かせるように、龍之介が提案する。

「そうですね」

 和良比、いや、蓮を揺るがす事件が背景にあると思われるだけに、焦りは禁物である。

 ふたりは、ぶらりと参道の脇にある飯屋に入った。

 揚げを焼いている香ばしい香りがする。

 店内はまばらで、お運びの女中も、それほど忙しそうではない。

「うまそうなかおりがするな」

 晃志郎は、注文をとりにきた女中に話しかけた。

「へい。お揚げをやいております。おいしいですよ」

 ニコリと、女中が笑う。

「それではそれと、日替わり飯をもらおうか」

「ああ、俺もそれで頼む」

 晃志郎と龍之介の注文を聞くと、女中は「はいよ」と明るい返事を返した。

「みっちゃん、こっちにも日替わりひとつ」

 常連なのであろう。親し気に入ってきた男が座りながら声をかけた。大柄で、手足が太くたくましい。職人のなりではあるが、腕に覚えがある感じだ。

「あ、清吉せいきちさん」

 パッと女中の顔が華やいだのがわかった。

「先日は、どうもありがとう」

「いや、どうってことないよ。ここいらも何かと物騒だ。気をつけなきゃだめだよ」

「はい」

 女中は頭を下げて、パタパタと厨房のほうへと引っ込み、やがて、盆を両手に持って晃志郎たちの座った机のそばへとやってきて、丁寧に配膳しはじめた。

「ちょいと訊ねたいのだが」

 龍之介が、女中に声をかけた。

「先ほどの話、耳に入ってしまったのだが、何かあったのかね? いや、最近、この辺りで人さらいがあったという話を聞いているので、気になっただけなのだが」

 女中は晃志郎と龍之介の風体を確かめるように目を向ける。晃志郎はともかく、龍之介は人品卑しからぬ風体だ。端正な顔立ちと、穏やかな微笑みは若い女性には強力な武器となる。

 女中は、頬を赤らめて「へい」と頷いた。

「少し前に、この少し先にある『くぬぎ』っていう料理屋のあった空き家に住み着いているチンピラが、店に来て困っていたところを、清吉さんに助けてもらったのです」

「くぬぎ?」

「数年前に、押し込み強盗のあったところですよ」

 少し離れた位置に座っていた清吉が、たちあがって、晃志郎たちの隣の机に移動してきた。

 話好きなのか、それとも、女中の気を引きたいのか、両方なのか。

 なんにしても、好都合である。

「少し前から、無頼のやからが住み着いて、この辺の人間は迷惑しているンです。ただのチンピラだけじゃなくって、二本差しもいて薄気味悪いというか」

「ほほう」

「二本差しはともかく、チンピラはしょっちゅう、この辺りを徘徊していてね。若い娘にちょっかいかけたり、店に難癖つけたりで、いい迷惑ですよ」

「この辺りでは、人さらいもあると聞いたが?」

「先日、宝仙寺に入っていく娘を見張っているやつをみました」

 清吉は、ここぞとばかりに口を開いた。

「あっしは、若ぇころ、結構ワルでね。いろいろやらかしたクチで、大きな声じゃ言えねえが、賭場なんかにも入り浸ったことがありやす。でも、そういうやつらが女を見る目とは違う感じですね」

「違うとは?」

「なんつうか……目に入った女を値踏みするという感じではありませんで、もう最初から決まっている相手を観察しているというか」

「観察?」

 晃志郎は、沙夜を襲った連中のことを思い出す。

 水内の名にひるむこともなく、しかも煙玉まで用意していた。

 明らかに、最初から沙夜を計画的に狙っていた、と感じられた。

「そうです……なんというか。まるでお上の張り込みみたいな目つきで」

「なるほど」

「あっしは、これでも喧嘩には自信があるほうですが、さすがに刀を使う二本差しを相手にはできやせん。一応、市井奉行の同心さまに連絡はしましたが、そのあと、どうなったかは存じません」

「それは、いつのことだ?」

「つい、二日前ですよ」

 二日前といえば、杉山美和のことかもしれない。

 残念ながら、清吉の通報に市井奉行所は大して動かなかったのだろう。土屋が現場に居合わせたのは、幸いであった。

 もっとも、『寺の入り口に怪しい浪人がいる』というだけで、なかなか役人は動けないだろうと、晃志郎は思う。

 浪人が女を狙っているかどうかは、その瞬間まではわからないことなのだから。

「くぬぎって料理屋はかなり大きな料理屋で、離れまである広いお屋敷みたいなところだから、相当な人数がいるかもしれません。門構えも塀も高くて、庭に池まであるって聞いておりやす。よく考えたら、あそこを襲った押し込み強盗も、未だに捕まっていないらしいですからねえ。物騒な話でさあ」

 清吉はそう言って、飯をかきこみだした。

「あっしら、庶民には縁のねえ店でしたからね、行ったことはねえですが。なんでも、主人から小者に至るまで、皆殺しだったそうで。あまりの惨さに恨みの線ではないか、という噂ですよ」

「恨み?」

「へい。特にあくどいといううわさがあったわけではありませんが、えらいお方もよく使っていた店ですし、なんといっても大きな店ですから。まあ、噂ですよ」

 清吉は軽く肩をすくめた。

「ただ、皆殺しでしたから……縁者もあの屋敷を持て余して、売りに出したらしいです」

「なるほど」

 中途半端に縁者がいたために、お上が手を入れることもなく、売りに出された屋敷は未だ買い手がつかぬまま、無頼のやからが住み着いた、ということなのだろう。

「なんにしても、近所の者はめいわくしておりやす。なんとかならないものでしょうかね」

 清吉の言葉に、「ふむ」と、龍之介は頷いた。

「清吉、だったな」

 龍之介は懐から財布を出し、飯代よりも多い銅銭を清吉の机の上に置く。

「良い話をきかせてもらった。俺は、封魔四門の水内と申す。お前はなかなか鋭い──また何か気が付いたことがあったら、詰め所に来てくれ」

「え? 四門さま?」

 清吉はびっくりしたように龍之介と晃志郎を見る。

 親しげだった表情が、驚愕の表情に変わった。

「ひぇ、おったまげた。そんなえらいお方だとは思わなかった」

 清吉はペコペコと頭を下げる。

「えらくはない。ただの使い走りにすぎんよ」

 龍之介は苦笑する。

「いや、でも、四門さまっていったら、ほかのお役人より偉いって聞いたことがあります」

「そんなことはない。四門でもピンキリだ」

 ──とはいえ、龍之介さまは、特別だけどなあ。

 晃志郎は、こっそりそう呟く。四門の探索方というのは、確かに下っ端役人ではあるが、龍之介は封魔奉行の息子であり、穴平などからも、一目置かれている。

 もっとも、血統だけでなく、龍之介には、実際、才もあれば人望もある。

 探索方などという現場でなく、もっと上役に就いてもおかしくはないのだ。

「あの」

 清吉は少し迷っていたようだが、顔を上げた。

「四門さまならば、一つ、ついでにお話したいことが」

 清吉は大きく息を吐く。

「あっしは、左官をして食っております。くぬぎの『土塀』は、たぶん、普通じゃない、と思います」

「普通じゃない?」

 清吉はへぇ、と頷いた。

「あっしは、しがねえ左官ですから、難しいことはわかりやせん。しかし、壁や床、土塀に関しては毎日、見ていやす。だからこそ、わかるのです。あの、土塀は、ふつうの土ではありません。いえ、ずっと前からではないとは思います。それこそ、押し込みが入るか入った後か……なんだか嫌なものを感じるのです」

「嫌なもの?」

「はい。なんというか、落ち着かないものがある、そんな気がするのです」

「わかった。調べてみよう」

「ありがとうございます」

 清吉は頭を下げた。

 押し込み強盗か、今住み着いている者たちかは知らず、何らかの呪術を仕掛けている可能性はある。

 しかし『何も』おこっていない状態では、清吉のように違和感があっても、なかなか通報まではしないものだ。

 晃志郎と龍之介は、念入りに清吉に礼を言うと、食事を済ませてから、ふらりと『くぬぎ』という料理屋のあった場所へと足を向けた。

「手は、出すな」

 龍之介は晃志郎に念を押す。

「虎金寺の例もある。ふたりだけで踏み込むのは得策ではない」

「わかっていますよ。俺はそこまで無謀ではありません」

「どうだかな……」

 信用ならんというような顔で、龍之介は晃志郎を見る。

 晃志郎から見れば、龍之介こそ、黙って通り過ぎることのできない性分なのではないだろうかと思うのだが、これはお互い様なのかもしれない。

 土屋なら『私が止めなければどこまでも行くお二人だ』と言いかねない。

 もっとも、融通が利かないことにかけては、土屋は折り紙付きだ。

 結局のところ、四門とは、そんな人間の集まりなのであろう。

 参道を離れ、竹林を抜ける。

 やや暗い道の向こうに、立派な張りめぐされた土塀が見えてきた。

 通常の塀より高い。庭の木々と思われるこんもりした緑の他は、何も見えない。

「ありますね」

 晃志郎の言葉に、龍之介が頷く。

「おそらく土に練り込んであります。これは、結界用ですね」

「中を封じている……正確には、中のモノを隠すためのものだな」

「どうします?」

 晃志郎の言葉に、龍之介は頭を振る。

「何もしない」

「意外ですね」

「また誰かさんに無理をさせたら、俺は家に帰れなくなる」

「どういう意味ですか?」

「少しは自覚してくれ」

 ふう、と龍之介は、息をつく。

 ざわり、と風が木の葉を揺らした。




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