第十四話 穢れだまり 弐

 土屋宗一の家は、青坂町にある。

 すぐに帰ってよいと言われ、そのつもりでいたのだが、いわゆる和良比の中心にある皇府のある黄丘おうきゅうに家が近いため、報告書を直接そちらへもっていくのを名乗り出て、青坂町に帰ってくれば、すでに夜はふけはじめていた。

 このあたりは、武家屋敷が多いため、通りには土塀が多く、あたりは暗い。月明りだけが、足元を照らしている。

「近寄らないで!」

 鋭い女性の声がとんだのに気づき、土屋はそちらへ走った。

 暗い路地で複数の人間が、一人の女をとりかこんでいた。

 女は片手で提灯をもち、取り囲んだ人間たちへ突き出している。

 取り囲んでいるのは、頬かむりをした五人の男たちだ。身なりから見ると、町のごろつきたちにみえるが、一人だけ、腰に帯刀しているようだ。

「何をしているのです!」

 土屋の声に、男たちの気がそれたその一瞬。

 女が動いた。

 一瞬、体をかがめ、足元の土くれをつかむと目の前の男の顔にめがけて投げつけた。

「このアマっ」

 短刀をぬいて突入してきた男を、女はひらりとかわし、その背に肘を入れる。

明らかに武道の心得がある女だ。

土屋は抜刀しながら走り寄った。土屋のほうを振り向いた男の胴をみねで打ちながら、その隣にいた男を蹴り飛ばす。

 晃志郎に比べれば、土屋はそれほど剣ができるほうではない。それでも、無頼の輩におくれを取るような腕前ではない。四門は、術も武も備わった人間でなければ務まらぬのである。

「こちらへ」

土屋の言葉にうなずいた女は、提灯を掲げたまま、するりと移動し、土屋にかばわれる位置に移動した。

「くそっ、退け!」

 帯刀していた男が叫ぶ。

「待てっ!」

 土屋が間合いを詰めようとした瞬間、至近距離で煙玉がさく裂した。

「くっ」

 あまりの煙幕に息を止め、顔を背ける。

 その一瞬は、無駄にせず、脱兎のごとく走り去った。

「……逃げられたか」

  土屋は男たちの走り去った闇を見る。男たちは、この辺りを知り尽くしているのであろう。あっという間に、その背は闇に溶けて見えなくなった。

「けがは?」

「大丈夫です」

 女はそう言って、着物のすそをパンパンと払い、乱れた部分をそっと直す。

 若い女性である。年のころは十八くらいか。やや眉が太く、大きな目は釣り目で、いかにも気が強そうだ。

 このような目にあったというのに、まったく動じてはいないようだ。

「助けていただき、ありがとうございます」

 女は、にっこりと微笑み、頭を下げた。

「私は、杉山道場の娘、美和と申します。危ないところを、ありがとうございました」

「杉山先生のご息女でしたか。どうりで」

 杉山道場といえば、土屋も知っている。無弦流の道場であり、晃志郎が師範代だという。門下生も多い方であったはずだ。

「……いらぬことをいたしました」

「まさか。とても助かりましたわ――ええと?」

「土屋です。土屋宗一と申します」

 土屋はそう言って丁寧に頭を下げた。

「彼奴らに心あたりは?」

「たぶん、宝千寺ほうせんじ付近にたむろっている無頼の輩だと思います」

 美和はため息をついた。

「寺からの帰り、ずっとつけられていたみたいで……うまくまけなくて」

 宝千寺といえば、青坂町と俵町の間にある寺だ。武家というより、どちらかといえば、庶民を相手にしている寺ではある。

周囲の治安はそれほど悪くはずであるが、近場にちょっとした盛り場があるのも事実だ。

「魂鎮めの儀ですか? それにしても若いおなごが、このような時間まで……寺ももう少し配慮すべきではないのでしょうか?」

「今日は、たまたま遅くなってしまいまして。私の修業が遅れたのがいけないのです」

 眉をひそめた土屋に美和は朗らかに答えた。

 その瞳のきらめきに、土屋は思わず目を奪われ、慌てて視線をそらした。

「……道場までお送りいたしましょう。また、襲われないとも限りません」

「ありがとうございます」

 美和の掲げた提灯が、闇を照らし白い土塀を浮き上がらせる。

 月が、夜空を明るく照らしていた。


 翌朝。

 晃志郎と龍之介は、ふゆに会いに行くことになった。

 手がかりになりそうなものであれば、藁にもすがりたいという心境である。

 行平町の片隅に、ふゆという娘が嫁いだという乾物屋『ほしや』はあり、それはすぐに見つかった。

 晃志郎と龍之介がのれんをくぐると、三和土より高い位置にある板の間から、ふくよかな若い女性が愛想よく出迎えた。まだ朝が早いせいか、客はいなかったが、数人の使用人の姿が見えるところから見て、店はそこそこに繁盛しているようであった。

「封魔四門の水内だが、こちらの奥方である、ふゆさんと、お話がしたい」

「ふゆは、私ですが」

 女性は、びっくりしたような目で、龍之介を見返している。

 四門は、ふつう、庶民には縁がない役所である。驚くのも無理はない。

「北浦の娘、お蝶について聞きたいのだ」

「どちらの?」

 ふゆは、首を傾げた。

 ふゆが首をかしげるのも無理はない。何しろ、お蝶が鳴上村にいたのは、もう十三年も前のことだ。

「鳴上村に一時住んでいた、道中奉行の役人の娘だ。仲が良かったと聞いたが」

 龍之介に言われて、ふゆはようやく思い出したように頷いた。

「ああ、お蝶ちゃん……えっと。でも、もうずっと会っておりませんけれど」

 お蝶が鳴上村を出たのは、もう十三年も前のことだ。ふゆは、お蝶と同じ十歳だったはずだ。多くを期待するのは無理かもしれないな、と晃志郎は思った。

「覚えている範囲で構わない。どんな娘だった?」

 晃志郎は、戸惑いを見せるふゆに問いかけた。

「えっと。元気で、弟思いの子だったと思います――ただ、おばさんが、お蝶ちゃんにとっても厳しくて、遠くに行くとすごく怒っていました」

「そのことで、何か不満を言ったりはしていなかったか?」

 ふゆは考え込むように首を傾けた。

「……言ってはいなかったように思います。お蝶ちゃん、なんというか、そういうところ、大人びた子で……私のためなのって、言っていました」

 ふゆから見て、須美は厳しすぎる母親に見えたらしい。しかし、お蝶はそれを反発もせず受け入れていたようだ。

「ああ、そういえば」

 ふゆは思い出したように口を開く。

「九兵衛さんが、お蝶ちゃんの弟に会ったって、聞きました。なんか随分と悪くなってしまったらしいって……」

「九兵衛というのは?」

 晃志郎の問いに、ふゆはヒョイと、手を伸ばして指をさした。

「青坂町の亀甲長屋きっこうながやに、住んでいる鳴上村のひとです。一応、出稼ぎってことで出てこられたのですけど、もう、奥さまもいらっしゃって、ずっとこちらにお住まいです。私が嫁入りのときもいろいろ手伝って下さって」

 九兵衛が和良比に住み着いたのは、ふゆが来る前だそうだ。その前から、季節雇いの仕事などを求めてたびたび和良比に出稼ぎに来ていたそうで、ふゆが『ほしや』の主人に見初められ、和良比に来るとなったとき、主人のひととなりについて、太鼓判をおしたのは、九兵衛だったらしい。九兵衛は、今、版木の彫り物師として働いているらしい。つとめているのは藪裏町の彫り物屋だという話だが、はっきりはわからない、と、ふゆは答えた。

「九兵衛はいくつになる?」

 晃志郎の問いに、ふゆは小さく首を傾げた。

「はっきりは存じませんが、三十くらいのお年だと思います」

「そうか」

 晃志郎と龍之介は頷いて、『ほしや』を出た。

「どうします?」

「藪裏ならすぐそこだが、場所がわからん。まずは女房に聞くしかあるまいて」

 ふうっと龍之介はため息をつく。

 長屋にいったところで、今、九兵衛は不在であろうが、やむを得ない。

「藪裏町は、彫り物屋が多いですからねえ」

 彫り物屋というのは、版元に依頼されて、版木を掘るのを専門にしている職人集団である。

 もちろん、個人で仕事を受ける職人もいるが、職人を何人か雇い入れ、大きく仕事を引き受ける『彫り物屋』は、親兄弟が彫師でなくても、新しく始められ、職人を育てることができるので、和良比の人口が増え、書物の印刷需要が高まるにつれ、増えてきた稼業である。

 晃志郎たちは、すぐそこにあるであろう、九兵衛の職場を探すのをあきらめ、青坂町のほうへと足を運ぶ。

 面倒ではあるが、結局、探索方の仕事というのは、大部分が『歩く』のが仕事である。

 亀甲長屋は、青坂町でもかなりはずれにあり、行平町からそんなには離れてはいない。

 杉山道場のあるあたりよりは、だいぶ南の位置にある。

「あら? 晃志郎さま?」

青坂町に入ったあたりだろうか。若い女性の声に振り返ると、小荷物を手にした美和が立っていた。どこぞからの買い物帰りであろう。青坂町は商家が少ないため、ぼてふり以外から物を買おうとした場合、町境にまで買い物に来ることは珍しいことではない。

 武家は大きい家であれば、商人が持ってくるが、そうでなければ、家人なり、下働きのものが買い物をするしかないのである。

「美和さま、お久しぶりです」

 頭を下げた晃志郎に、美和はにこやかに歩み寄る。

「ご仕官なさったとお聞きしました。おめでとうございます」

「も、申し訳ございません。先生にご挨拶も致しませんで」

 美和は、くすっと笑う。

 晃志郎は、美和と自分を見比べている龍之介に気が付いた。

「龍之介さま、こちら、杉山道場のご息女の美和さまです。美和さま、こちらは、四門の水内龍之介さま」

「水内さま? あら。では、お奉行様の?」

「不肖の息子です」

 にやり、と龍之介が笑う。

「今日は、お役目で?」

 美和の言葉に、晃志郎は頷きながら、杉山道場へしかるべきあいさつに行っていなかったことをいまさらながらに気が付いた。

「……美和さま、そういえば、どちらで俺の仕官をお聞きになったので?」

「ひと月ほど前、沙夜さまからお聞きしましたわ。まったく。随分と水臭いのですね」

 美和の恨み節に、晃志郎は、ひたすら頭を下げるしかなかった。

 仕官が決まってから、道場へ行く暇がこれっぽっちもなかったというのが現実ではある。

 なにしろ、月の半分は動けなかったのだから。だが、恩師に連絡一本しなかったのは、明らかに不義理である。

「沙夜と、知り合いなのか?」

 驚いた龍之介に、美和は「少し」と頷いた。

「父は、晃志郎さまが仕官したって聞いて、それはもうガッカリしていましたわ――最近ようやく、太一を本気で鍛える気になったみたいですけど」

「太一殿は、筋が良いです。俺よりも、良い剣士になりますよ」

「……だと、いいのですが」

 美和はほんの少し寂しそうに笑った。

「ご心配なさらずとも大丈夫です」

 晃志郎がそういうと、美和はあきらめたように「ええ」と頷いた。

 美和と晃志郎のやりとりをみながら、龍之介は「なるほど」と、小さく呟く。

「そういえば、四門といえば、昨日、土屋さまというかたに助けていただきまして」

「え?」

「お茶くらいお礼に差し上げたかったのですが、すぐに帰られてしまいまして。お仕事ご一緒なさることがございましたら、よろしくお伝え願えますか?」

「助けられたとは、どのような?」

「ちょっと、無頼の輩に絡まれてしまって。危ないところでした」

「そうか……それで、今日は、土屋は市井奉行所に顔を出すと言っていったのか」

 龍之介は得心したというように頷いた。

「美和さま、それでお怪我等は?」

「大事ないですよ。土屋さまのおかげです」

 美和はそういって、微笑んだ。

「そんなに心配してくださるなら、たまには道場に顔を出してください」

 いたずらっぽい目で晃志郎をにらみつけると、美和は「では」といって、路地を曲がっていった。

「美しい女性だな」

 美和の後姿を見送りながら、龍之介はポツリと口を開いた。

「……ひょっとして、晃志郎、道場の跡取りに、とか望まれていたとか?」

「まあ、杉山先生はたまに、そのような冗談をおっしゃってはおりましたが、そんなことは必要ないのですよ。ご子息は、いずれ名のある剣豪となりましょう」

 晃志郎は確信をもって答える。

「……そうか。まあ、晃志郎はそれでよいのだろうな」

 龍之介はふうっとため息をつく。

「沙夜も前途多難だな」

「沙夜さまがどうかしましたか?」

 晃志郎の問いに、龍之介は答えない。

 晃志郎は、意味が分からず龍之介を見たが、結局、答えは見つからなかった。

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