第二部 羅刹党
第一話 鳴上村 壱
「だんな、お元気になられてよかったですねえ」
「今日から、おつとめですか?」
井戸端に洗濯に出てきていた長屋の女たちが口々に声を掛ける。
水の冷たさが、しだいに心地よい季節になってきた。よく晴れた空に、新緑の緑が眩しい。
「やあ。その節は心配をかけた」
晃志郎は、ぺこりと頭を下げ、女たちに微笑んだ。
藪裏町に戻ってきて、三日。今日から、ようやく仕事に復帰である。
晃志郎は、目が覚めた段階で、すぐにでも家に帰ろうとした。だが、ひとりぐらしでは、何かと不自由だと指摘され、早々に床払いをしたがる晃志郎に対して、沙夜が頑としてそれを受け入れず、結果として、十四日ほど水内家に留まることになった。
居心地が悪かったわけではない。むしろ良すぎた。三度の飯は美味すぎる。そして、沙夜や源内と話すのは楽しかった。
しかし、嫁入り前の娘である沙夜が、若い男の世話をしているというのは世間的によろしくない、と晃志郎は思い、何度も家に帰ろうとしたのだが。「気にしすぎだ」と龍之介にも止められた。それは、晃志郎の身体を案じてのことであろうが、晃志郎がどれほどの自制心を持って沙夜と接しているか、龍之介が知らないからであろう。
今日は、虎金寺の事件から二十日目。ようやくに、傷が治り、晃志郎は久しぶりに四門の詰所へと向かう。これだけ長い間、療養を余儀なくされたこともあり、見習いとしては、首になっているのを覚悟していたのだが、晃志郎は、四門の『戦力』として『必要』と、穴平が上役に訴えたらしい。
――もう、
晃志郎は首をすくめる。沙夜と龍之介をはじめとする四門の仲間たちに救われた命である。もはや、気楽な浪人ではいられない、と思う。
『家に帰ってもいいのよ』
と、見舞いに訪れたなつめが言っていたが、それは、最初から選択肢にはない。
「あ、赤羽殿。元気になられてよかったです」
四門の詰所の戸を開くと、ほっとした笑顔で土屋が迎えた。
「ご迷惑をおかけいたしました」
「おっ。赤羽殿! 心配しましたぞ」
田所が奥から出てきて笑みを見せた。
「田所さんも、お元気そうで」
田所も、前回の襲撃で、大きな負傷をしたひとりである。龍之介の話では、何針も縫ったという話だ。
「おかげさんでね。奥で、穴平さまが待っているぞ」
田所は、にやりと笑う。これから、外へ調べに出るらしく、あいかわらずの身の軽さで飛び出して行った。
晃志郎は、田所を見送ると、奥の座敷へと向かった。
今日は、あまり人が詰めていないようで、人影は他になかった。取り調べに出払っているのであろう。
「よう、来たな」
煙草を吹かせていた穴平が、にこやかに晃志郎を手招きした。龍之介もそばにすわっている。
障子ごしに明かりが部屋に差し込んでいた。
晃志郎が龍之介のやや後ろに座ると、土屋が茶を入れて持ってきてくれた。
今日、晃志郎が来ることがわかっていたのだから、既に次の仕事の話であろう。
「傷はもう痛まぬか?」
「もう大丈夫です」
穴平の言葉に、晃志郎は頷いた。穴平は、用意していた地図を広げた。どうやら、和良比の外の地図だ。
「実は、三人で、行ってもらいたい場所がある」
穴平は煙管で、ポンと、一点を指した。
白川家保有の、星蒼玉の産出場所だ。
「雷太という男の出身が、どうやら、この山のふもとの『
「北浦が?」
晃志郎の問いに、穴平は頷いた。
「もともと、『鳴上村』は、『星蒼玉』がとれることもあって、重要地区だ。道中奉行の監視下にあるのは当たり前だ。村自体はとても小さいがな。白川家の権力を支えている重要な村と言ってもいい。さらに、術者も生まれやすいと聞いている」
「現在、皇帝の寵愛を受けている百合の方は、白川家のご出身ですね」
土屋が口をはさんだ。
「……最近、陛下のまわりがきな臭い」
龍之介がぼそりと口をはさむ。
「正妻の涼香と側室の百合の方、ともにご懐妊で、生まれてもいない子供の覇権争いが起こっているらしい」
「涼香さまのご実家は、間中家……。家の格としては、間中家の方が上でしょうが、白川家には、財力があるから、難しい話ですね」
土屋が眉をひそめた。
「十五年前の瑠璃の方の時のようなことになっては困る」
穴平は渋い顔で、息をついた。
「白川家には、悪いうわさが多いです。それが、やっかみなのか、真実なのかわかりませんが……星蒼玉がからんでくると厄介な話です」
土屋の言葉に、晃志郎は、『白恋大社』であった、文乃を思い出す。
白川家が呪術で皇帝の寵愛を得たという噂があると、文乃は言っていた。その真偽がどうであれ、きな臭いことには変わりはない。
「羅刹党は、権力のどこかに潜んでいる」
穴平は断言した。
「思えば、十五年前の事件も、完全に解決したわけじゃない。凩は、結局捕まらなかった」
煙管を握る手に力がこもっている。
「間違いなく、羅刹党は、十五年前の事件も十年前の事件も噛んでいると、俺は睨む」
穴平の目が鋭く光った。
「もはや、四門は、受け身ではいられぬ。何かが起こってからでは遅い、攻めよとの、殿の仰せだ」
殿、というのは封魔四門を束ねる封魔将軍のことであろう。封魔四門は、将軍の下、和良比の外にも拠点をいくつも置いている点が、封魔奉行所とは違う。四門は、もともとは、国内全土の虚冥と戦うための組織なのである。封魔奉行が老中の管理下にあるのに対して、封魔将軍は、皇帝直属だ。
「攻める、か」
龍之介が小さく呟いた。
「それで、北浦がこの辺りに配置されていたというのは?」
晃志郎は地図を目で追う。雷祥山は、大人の足で片道二日。しかし、山深いところにあるため、それほど物流のさかんな場所ではない。星蒼玉の産出さえなければ、人が寄り付かないような場所である。
「道中奉行に確認したが、やつはちょうど、十三年ほど前に与力をやめている。和良比に戻ってくる前の三年ほど、何をしていたのかわからんが、最後の駐在勤務は『鳴上村』だそうだ」
穴平はふうっと息をついた。
「現在の道中奉行は、五年前に代わっている。残念ながら当時の道中奉行は亡くなっているが、北浦の同僚だった男が、今、鳴上村にいるらしい」
「その方のお名前は?」
土屋が口を開いた。
「
「ずいぶんと、ややこしい香りがしますね」
晃志郎の言葉に、穴平は無言で小さく頷いた。
出立は明朝と決まった。
旅支度といっても、それほどせねばならぬことなどない。晃志郎が、『かめや』に行くといったら、土屋と龍之介も同行を申し出た。
「しかし、あのお女中が、赤羽どのの、姉上とはね」
土屋が感心したようにそう言った。
「すみませんが、その件は、知らないふりをしていただけませんか? 姉は、あの店では『武家』の出だとは、知られたくないようなので」
晃志郎の言葉に、土屋は頷く。
「謎の多い姉弟だな」
龍之介が苦笑した。
「俺に、なつめほどの謎はありませんよ」
晃志郎はそう言って『かめや』の暖簾をくぐる。
「いらっしゃいませ」
入ってきた三人を出迎えたなつめは、びっくりしたような顔をした。
「あらまあ。お久しぶりですねえ、二階へどうぞ」
なにげない顔で、二階へ案内しながら、龍之介と土屋にさりげなくお辞儀をした。
三人は、二階の座敷に上がり、なつめでない女中に注文をした。
「ところで、和良比の外には、行ったことはあるのか?」
龍之介は、なつめが食事を運んできたのを見計らい、話を切り出した。
「……俺は
森木陀というのは、和良比に次ぐ第二の都市である。和良比と違って、海が近く、貿易もさかんだ。晃志郎が森木陀に滞在したのは、わずか一カ月であり、すぐに和良比に舞い戻っている。晃志郎がそう話すと、龍之介は『ほうっ』と息をついた。
「私はありませんね。今回が初めてです」
土屋がなつめにわかりやすいように、答える。
「あら、お客様方、和良比の外へお出かけですか?」
さりげなく、なつめが会話に割って入る。他の女中も、その程度の会話なら咎めたりはしない。
「ああ。ちょっと鳴上村まで野暮用でね」
龍之介がニヤリと笑った。
「まあ。それはたいへんですわね」
なつめはそう言いながら、お膳を整える。
「鳴上村は、タケノコが良くとれるから、うちの出入りの商人さんもよく仕入れに行かれるそうですけど……山が深いのでクマや野犬が出たりするそうですよ」
「へえ、気をつけないといけないな」
龍之介はにこやかになつめに応える。
――二人とも役者だ。
常連客と女中の関係を崩さずに、情報をやりとりするなつめと龍之介に、晃志郎は思わず舌を巻く。
「いつ頃お戻りで?」
「早ければ、七日くらいで済むと思う……帰ったら、また、飯を食いに来る」
龍之介はニヤリと口の端を持ち上げる。まるで、なつめと『いい仲』ではないかと、錯覚するようなやりとりだ。
「あら、まあ。期待せずにお待ちしておりますわ」
なつめも営業用の微笑みを浮かべて、他の女中たちとともに座敷から出て行った。
「クマね……クマですめばいいがな」
龍之介は箸を手にして、小さく呟く。
「私は、クマだって嫌ですよ」
土屋はくすりと笑った。
「土屋さまのおっしゃるとおりです。クマや野犬は、チンピラよりよほど強敵です」
晃志郎がそう言うと、龍之介は「そりゃそうだ」と頷いた。
「そういえば、柳陣内の取り調べなのだが」
龍之介は、焼いた魚を丁寧にほぐしながら、口を開く。
「どうも、勘定方の方に深い病巣がありそうでな」
女郎に身を落とした常和の父、谷口は作事奉行で、五年前に無実の罪で失脚している。
おそらく、その罪をかぶせた輩とは、当時は谷口の配下であった柳であろう。
谷口が切腹に追いやられた後、柳は、作事奉行所をやめて、すぐに勘定奉行所に仕官している。
もちろん、再仕官が、珍しいわけではないが、柳が常和に語ったような『苦労』や『辛酸をなめる』ような状況に陥ったとは思えない。
「勘定奉行も怪しいと、親父は睨んでいる」
「……
晃志郎は肩をすくめた。
「お奉行が、となりますと、簡単には行かないでしょう」
「ああ。証拠がいる……権限的には、四門の方が調べやすいのだが、『呪術』がらみという決定打がないと、俺たちに取り調べの権限はまわってこない。難しいところだな」
龍之介は白い飯を口に入れ、小さくため息をついたのだった。
「道中気をつけてくださいね」
勘定をうけとると、なつめは、にっこりと笑った。
「そうそう、鳴上村で、知り合いが『
世間話のようになつめはそう切り出して、晃志郎に釣りと一緒に小さな紙を手渡した。
「私の知り合いといったら、まけてもらえるかもしれませんよ」
「『雪虫』ね。ありがとうよ」
小さく頷きながら、晃志郎はその紙を握りしめて、『かめや』を出た。
店から出て、二人に軽く目配せをし、しばらく歩いてから、晃志郎は紙を開いた。
『星狩り注意』
走り書きで書かれたその文字を、晃志郎はじっと見る。
「星狩りってなんだ?」
覗きこんだ龍之介が首を傾げた。
「泊まる宿まで、ご紹介してくださるとは」
土屋が面白そうに微笑する。
「……きっと、厄介ごとがたくさん待っているということですよ」
晃志郎が憂鬱そうに呟く。
まだ若い青い木の葉が、風にゆらりとゆれていた。
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