第二十四話 朧の勘助 弐
「失礼いたします」
襖がつぅっと開き、沙夜が座って頭を下げる。
「おお、沙夜、すまぬな」
龍之介は沙夜から茶を受け取ると、ぐびりと飲んだ。土屋は頭を下げながら遠慮がちに受け取る。
「それで、この後は、四門の詰所に戻りますか?」
晃志郎の言葉に、龍之介はふうっと息をつく。
「そうだな。昨日はほぼ徹夜であったし、一度報告に戻った後、家に帰って休んでも良かろうて」
「それならば、ふたりとも夕餉はうちでどうじゃ?」
源内がにやりと笑う。
「いえ、俺は、今日はご遠慮いたします」
晃志郎は苦笑いを浮かべた。
「……さすがに、たまには湯屋にいきませんと」
そういって、自分の着物のにおいを嗅ぐようなそぶりを見せる。臭うというほどではないが、汗をかいているのは間違いない。
「せっかくのお言葉ですが、私も今日は家に帰ります。なかなか厄介な仕事になりそうですので、帰れるときに帰っておきませんと家のものが心配します」
土屋は肩をすくめた。土屋は母と年の離れた妹と暮らしている。
もっとも、土屋が言うにはこの母はかなりの女傑で、土屋の留守を狙って泥棒が入ったとしても、なんなく撃退してしまうほどの武術の達人らしく、そう言う意味では、土屋が家を空けたところで何の心配もいらないのであるらしい。
「つまらんのう」
源内は、ふうっと溜息をつく。襖の隣で頭を下げた沙夜も少し寂しそうな瞳で晃志郎を見あげた。
「源ジイ、そんなにがっかりしなくても、しばらくは晃志郎も土屋も俺と組むことになりそうだから、いつだって機会はあるさ」
龍之介はそう言って、煎餅に手をのばす。
「朧の勘助のほかにも、
自分に言い聞かせるように、龍之介はそう呟く。
「まずは、焦らずに穴平様へご報告をいたしましょう」
土屋が龍之介と晃志郎に目をやり、そう結論付けた。
四門の詰所で報告を終えると、晃志郎は湯屋へと向かった。
と、言っても、いつも行く
もちろん、風呂が目的なのではない。しかし、せっかくの湯屋であるから、晃志郎は、久しぶりの風呂を楽しみ、こざっぱりとしてから、湯屋の二階に上がった。
湯屋の二階は、広い座敷になっていて、男性の社交場となっている。晃志郎は風呂の間預けていた刀を引き取り、屏風で区切られた一角に座り込む。
「すまんが、茶をひとつ」
座布団に腰を下ろしながら、晃志郎は湯屋の男に声をかけた。
「へい」
男がさがっていくのを見やりながら、ふうっと息を吐くと髪を無造作に束ねた若衆姿の侍が晃志郎の方へやってきた。そこはかとなく色気が漂い、男にしては華奢だ。しかし、りんとした姿勢は自信に満ちていて、それでいて隙がない。男妾のような軟弱さとは無縁であった。
なつめである。
「随分、化けたものだ」
晃志郎の言葉に、なつめはニヤリと笑う。
「湯屋にその格好じゃ、そっちの客引きと思われるぞ」
眉をしかめた晃志郎になつめは「あんたがいるから、大丈夫よ」と、低い声で返した。
「それで、聞きたいことって?」
「不知火と凩が組んでいる可能性がある」
晃志郎は、ふうっと息をついた。
「凩は引退したという噂だけど」
「昨晩、四門の踏み込み先で、凩と不知火が同時に術を仕掛けてきた」
「偶然の可能性は?」
低い声を作りながら、なつめは賑わう座敷を見回す。幸いというべきか、誰もなつめと晃志郎に興味を持っているものはいないようだ。
「九対一でないと思う」
晃志郎の言葉に、なつめの目がすうっと鋭くなった。
「まず、不知火だけど」
晃志郎に茶が運ばれてくるのを見て、なつめは湯屋の男が去るのを待って口を開いた。
「寺社奉行元与力、
なつめは、そういって首を振った。
「星蒼玉の術具の横流しは単に資金稼ぎね。寺社だけじゃなく、もっとお上の中枢に絡んだ組織があると私は見ている」
「狙いは?」
「……それがわかれば、苦労はしないわ」
苦虫を噛み潰したようになつめは顔を歪めた。
「現在、帝周辺は結構きなくさくてね、たぶんそれに絡んでのことではないかと言われてはいるのだけど」
「勢力争い?」
「そんなところね」
晃志郎は片眉をあげた。
「面倒だな」
言いながら、茶を口にする。
「ところで、四門の現場をどうして晃志郎が知っているの?」
なつめは面白そうに晃志郎を見た。
「……しばらく働くことになった」
憮然とした顔で、そういうと、なつめはブッと噴き出した。
「あらあら。浪人、赤羽晃志郎が四門に?」
晃志郎は笑い転げるなつめを睨みつけた。
「余計なこと、するなよ」
「わかっているわよ。可愛い弟の意志はできるだけ尊重したいもの」
けらけらと笑いながら、なつめはそう言った。
「ふふふ。何もしないであげるから、たまーにお姉さんに力を貸しなさい」
晃志郎は答えず、嫌そうに眉を寄せる。
「凩のこと、調べておいてあげるわ。奴が本当にまた動き出したとしたら、お寺社としても放置することはできないし」
「……それにしても、あんた、『かめや』で何を探っている?」
「知りたい?」
クスッと笑ったなつめを見て、「遠慮する」といいながら、晃志郎は慌てて首を振った。
知ったが最後、巻き込まれるのは目に見えている。これ以上、面倒はごめんだった。
「あーら。教えてあげてもいいのに」
残念そうななつめを見ながら、晃志郎は深くため息をついた。
翌朝。
晃志郎は、夜明けとともに起き、なつめが帰り際に持たせてくれた握り飯の残りを食べた。なつめの中で晃志郎は、いつまでも「お腹を空かすとすぐ泣く弟」であるらしい。
まあ、泣くかどうかはともかく、ほぼ年中、腹が減っているのは事実である。
たまには、と、珍しく湯を沸かして、茶を飲んだ。
そして洗ったまま放置してあった朱塗りの弁当箱を持ち、家を出る。
「やあ、だんな、今日は早いですね」
声をかけてきたのは、となりのおまつの旦那である梅吉だ。大工道具を担ぎ、弁当と思しき風呂敷包みを包んでいる。
「ウメさんも、仕事かい?」
晃志郎が声をかけると、梅吉はニマリと笑った。
「へい。ちょいと遠いンですがね。大きな仕事が入ったンですよ」
「それは奇遇だな。俺も、しばらくは仕事にありつけそうなんだ」
晃志郎が笑顔で返すと、梅吉は人の好い笑顔で「それはようございやした」と答えた。
晃志郎は、うすい朝もやのなかを、
人通りはそれほど多くはない。商店の小僧たちが軒先をほうきで清掃をしていた。
通りにある民家から、味噌汁の香が流れてくる。腹を満たしてきたにもかかわらず、晃志郎の鼻がひくひくと動いた。
――いやしいにも程がある。
自分自身に呆れながら、晃志郎は首をひねった。
晃志郎の住む
庶民の多い藪裏町とは町の様相は随分と異なっていて、ちらほらと荷物を抱えて通いの勤め先に出かける町人の姿は通りからぱたりと消えてしまう。
晃志郎は水内家の門扉の前に立つと、反対の通りから歩いてきた谷本に気が付いた。
「おはようございます」
晃志郎は、扉から一歩下がり、谷本に場所を譲る。
谷本は端正な顔を歪めて、晃志郎を上から下まで観察するように見た。
「……ああ、確か、龍之介さまの」
ほんの少しだけ口元を緩めて、谷本はそう言った。相変わらず、目は厳しいままだ。
龍之介らから人となりを聞いていた晃志郎と違い、谷本と晃志郎は二度、ちらりと会っただけであるから、覚えていなくても不思議ではない。しかも、晃志郎の身なりは不潔ではないにしろ、浪人そのものである。興味を持たれなくても仕方がないのだ。
「赤羽晃志郎と申します。四門で龍之介さまのお手伝いをさせていただいております」
晃志郎は深く頭を下げた。
「ああ、四門か」
谷本は得心がいったように頷いた。四門は、潜入捜査も多く、浪人の身なりの人間がいたとしてもそれほど不思議ではない。
「おや、谷本様、赤羽様、御一緒でいらっしゃいましたか?」
門扉を開けた茂助が驚いたように二人を出迎えた。
「お奉行は」
谷本の言葉に、茂助はへい、と頭を下げる。
「中でお待ちでございます」
谷本を玄関に案内しながら、茂吉は晃志郎のほうをちらりと見た。
「赤羽様は、どのような?」
「俺は……これを返しに来ただけなので」
言いながら晃志郎は朱塗りの弁当箱を包んだ風呂敷を茂助に差し出した。
「おや、でしたら、お嬢様に」
茂助の言葉に、谷本が振り返る。
「いや、その……こんな早朝にお訊ねするのはご無礼でしょうから」
晃志郎はそういって、頭を掻いた。
「龍之介さまは、ご在宅で?」
「へい。あ、こちらでお待ちを。谷本様はこちらへ」
茂助は谷本を優先させることにして、晃志郎を玄関で待たせて、谷本を家の中へと案内する。
さすがにまだ出仕の時間には早く、龍之介を呼び出すのも失礼だったかもしれない。
茂助が奥へ消えて、しばらくすると龍之介がふらりと玄関へと現れた。
「早いなあ、晃志郎」
苦笑する龍之介に晃志郎は慌てて頭を下げた。
「すみません。もう一度、出直しましょうか?」
「何か用か?」
龍之介の言葉に、晃志郎は首を傾けた。
「大した用事ではございませんが、四門の詰所では少し話しにくいことで」
晃志郎がそういうと、「あがれ」と龍之介はそういった。
「悪いが、板場でもいいか?」
龍之介はそう言って、台所の方へと晃志郎を連れていく。座敷の方には、奉行と谷本がいる。おそらく奉行所では話しにくいような内密の話があってのことであろう。
「飯は食ったか?」
龍之介の言葉に、晃志郎は「一応は」と答えた。
応えたが、味噌汁の香が鼻孔をくすぐると、晃志郎の腹がぐうと音を立てる。
いまいましいほどのいやしさだ、と晃志郎はため息をついた。
「沙夜、晃志郎に何か食わせてやってくれ」
龍之介は板場に晃志郎を連れていくと、母しおりと、使用人である茂助の妻おたけとともに台所に立っていった沙夜に声をかけた。
「あ、いえ、俺は……」断りかけた晃志郎だったが、「はい」とにこやかな沙夜の微笑みとぶつかり、言葉が止まってしまう。
龍之介は薄い座布団を二枚持ってきて、板場の隅に並べておいた。
「少し落ち着かないが、まあ許せ」
龍之介がそう言って腰を下ろしたので、晃志郎もそれに倣う。
「それで?」
龍之介に促され、晃志郎は声を低くした。
「白恋大社で寺社の手入れがあったのはご存知ですよね」
白恋大社、という言葉に沙夜の肩がぴくんと揺れたが、晃志郎は気が付かなかった。
「俺……現場におりました」
「え?」
晃志郎の言葉に、龍之介の目が見開く。
「知人に助太刀を頼まれましてね」
晃志郎は曖昧に説明する。なつめのことを隠す必要はないのだが、何しろ、なつめは謎の任務中のようである。たかが弟に会うだけでも、変装する念の入れようである。晃志郎としてもうかつなことはできない。
「簡単に申し上げると、星蒼玉横流しに加担していた元寺社奉行与力が証拠を抹殺しようとしたところを寺社の手入れが入ったわけですが、捕り物の最中、元与力は現場で呪殺されかけました」
晃志郎はふうっと息をついた。
「呪殺者と対峙したのは、俺です。相手は、不知火でした」
「なんだって?」
龍之介はぐっと拳に力を入れた。
「詳細はわからないですが、その元与力が絡んだ組織の中で、不知火は殺しを担当しているらしいです。そして、それは、お上の中枢にからむ組織かもしれぬと」
「厄介な」
龍之介が呻く。
「まあ、まだ、お寺社も何かつかんでいるわけではないようですがね」
晃志郎はそう言って、ふと顔を上げた。
握り飯と味噌汁を運んできた沙夜に微笑まれ、晃志郎は胸がドキリとした。
「沙夜さまは、本当に天女のようです」
「あら、そんなにお腹がすいていたんですか?」
びっくりしたように目を丸くした沙夜を見ながら、「本当に、無意識で口説き文句をいう男だな」と、小さく龍之介が呟いた。
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