第二十二話 天女 六
うららかな春の日差しが、葉の出始めた桜を包んでいる。
「どうしたの? 何かあったの?」
琴の稽古が終わり、いつものとおり座敷では師匠からお茶と茶菓子が振る舞われていた。
開け放たれた引き戸の向こうに、それほど大きくはない中庭に植えられた桜の花が青空に映える。
「何も……」
ない、と言いたいのに、舞い散る桜の花びらに思わず目を奪われた。花びらの向こうに、仲睦まじく女性と歩く晃志郎の姿が浮かぶ。
――優しい言葉を作らずとも、正直に罵詈雑言を浴びせていただいてかまいません。
伝えたい言葉はたくさんある。でも、それは決して、晃志郎が言うような『罵詈雑言』ではない。
兄に促され、祈る思いで弁当を作った。しかし、一日たっても、まだその弁当箱は返ってこない。
「沙夜が、お稽古の時、師匠に叱られることなんて初めてよね?」
「そんなこと――」
沙夜は首を振った。
ひと月に二度しかない琴の稽古であるのに、集中力に欠けていたのは事実だ。
武家の娘たちは、花嫁修業の一環で、『琴』や『花』、『裁縫』などの手習いをする。『魂鎮め』のように必須ではないのだが、家にこもりがちな良家の娘たちにとって、息抜きをかねた社交場となっている。
鳥飼由紀は勘定組頭の娘で、沙夜と最も仲が良い。
「ひょっとして、恋わずらい?」
くすくすと由紀は笑う。
「今日の沙夜の護衛の谷本さん、素敵よね?」
からかいを込めた由紀の言葉に、沙夜はキョトンとした。
「あのひと、封魔奉行所でも出世頭だってきいたわよ? 沙夜の護衛にお奉行がお付けになったということは、そういうことじゃないの?」
「そういうこと?」
なんのことだかわからずに、沙夜は首を傾げる。
「お婿候補ってコト」
「まさか」
沙夜は由紀の言葉を否定する。
「でも、沙夜はともかく、谷本さんはその気かもしれないわよ」
由紀は面白そうに沙夜をのぞきこんだ。
「そんなことないと思うけど。谷本さんのご実家はかなりの名門らしいし」
「あら。それならなお、封魔奉行の後ろ盾がほしいかもしれないわよ」
「そうかしら」
沙夜の素っ気ない反応に、由紀は肩をすくめた。
「あれだけ素敵な男性に守ってもらっていて、心が動かないなんて、信じられないなあ」
「仕事だから守って下さっているのよ。私を守りたいからではないわ」
沙夜は苦笑した。
――恋のお守りなど、買わなければ良かった。
苦い想いがよみがえる。腕の傷など心についた傷に比べたら些細なものだ。白恋大社に行かなければ、沙夜の護衛をしているのは、きっと、晃志郎のままだったはずだ。
「ねえ、本当に、どうしたの?」
由紀が心配そうに沙夜を見上げる。
「桜……もう、終わりね」
舞い散る桜の花を見ながら、沙夜は小さく呟いた。
『やばね』を出た晃志郎と龍之介は、四門の詰所に戻った。
甚八の話の報告を終えると、次は封魔奉行所へと赴くことになった。土屋も一緒だ。
昼が近いので、昼食を途中でとっていこうということになる。
「知り合いの店に行ってもよろしいですか?」
晃志郎は、ふたりに確認すると、「かめや」に案内した。四門に一時なりとも身を置く覚悟をした以上、晃志郎としても使える駒はつかうべきで、なつめとつなぎを取る必要があった。
少なくとも先日、寺社奉行が追っていた事件に、不知火が噛んでいた。無関係とは言い切れない。
「いらっしゃい。あら、晃志郎のだんな」
にこやかに、なつめが店に入った三人を招き入れた。
「二階のお座敷を使っていただいてもよろしいですよ」
晃志郎の連れが『役人』であることに気が付いたのか、なつめはそう言って、二階の階段を指さした。
「では、遠慮なく」
晃志郎はそう言って、草履を預けるついでに、誰にもわからぬようになつめに小さな紙切れを渡す。
詳しくは聞いていないが、なつめはこの店で働きながら、何かを探っているようだから、姉弟の関係は隠しておいた方が良い。
「ずいぶん……美人の知り合いがいるのだな」
二階の小部屋に座り込むと、龍之介が面白そうに晃志郎を見た。
晃志郎は答えず、肩をすくめた。
「勘助の担当は誰だった?」
なつめではない別の女中が注文を聞いて下がっていくと、龍之介は顔を引き締めて、土屋を見た。
龍之介は、昨日、勘助を市井奉行所から封魔奉行所まで護送して、すぐに右近の屋敷に向かったから、実際に封魔奉行所でどのような取り調べが行われたのかは知らない。
「封魔衆の谷本茂綱どのでした」
封魔衆とは、封魔奉行所の中でも、精鋭だ。たいていは封魔の技と剣術双方に覚えのある人間で、主に対呪術者の取り締まりを専門にしている。
「谷本か……」
龍之介は一瞬だけ眉を寄せた。
「沙夜さまの護衛の谷本さまで?」
晃志郎の言葉に、龍之介は軽く頷く。
「……腕は立つが、任務と規則に忠実すぎる男だ。しかも手段を選ばん」
その言葉に、土屋は無言で頷く。どうやら、土屋も龍之介と同意見らしい、と、晃志郎は思った。
「しかし――沙夜さまの護衛をなさっているということは、お奉行のご信頼は厚いのでしょう?」
「まあ、仕事はできる。ただ、俺と合わぬ」
勘助は、取り調べの為に呪術攻撃をみせつけられたらしい。非常に効果的ではあったが、確かに、龍之介ならば絶対に取らない手段であろう。
「奴が担当というのは、いろいろ厄介だな」
龍之介は頭を掻いた。
「お食事をお持ちいたしました」
襖の向こうから声がして、なつめを含めた三人の女中が食事を運んできた。
高い食材ではないが、丁寧につくられた煮物や、汁物。焼き立ての油揚げの上に香ばしい醤油の香りが食欲をそそる。
なつめは自然に晃志郎の配膳を受け持ち、「ごゆっくりどうぞ」と声をかけて、他の女たちと一緒に退席をした。
「それにしても、勘助にいったいどんな価値があるのでしょう?」
晃志郎は、龍之介と土屋が箸に手をやるのを見ながら、自分の前に置かれた紙で折られた箸置きを、さりげなく袂に放り込んだ。なつめと晃志郎の関係をこの二人に隠す必要はないが、今、話すことではない。
「そうだな」龍之介は、晃志郎の仕草に気が付いたふうもなく、首を傾げた。
「おそらくお蝶が持っていた『何か』を、勘助は手に入れているのではないかな。彼奴等はできればそれを手に入れたい。ただ、そのことで自分たちの足が付くようなら、あきらめが付く、その程度の微妙なものだろう」
龍之介の言葉に、土屋は頷いた。
「そうですね。しかも、勘助を殺すことで、足が付く可能性もあるというのに仕掛けるというのは、ひょっとしてその品をお上に探させる気なのかもしれない」
奉行所の牢にいる人間に、人を殺すほどの『力』を使えば、お上としても放置するわけがない。普通に考えれば、ケチなスリが、呪殺の対象になるわけがなく、『勘助が何かを知っている』と、お上に宣伝するようなものだ。勘助の取り調べが厳しく行われれば、奴らの欲しい『何か』をお上が捜してくれる可能性がある。お上の内部に内通者がいれば、そこで手に入れられると考えているのかもしれないのだ。
「……いずれにしろ、会ってみるしかあるまい」
龍之介はふうっと息を吐いた。
封魔奉行所は藍前町で、緑坂町の境界に近い。周りは武家屋敷が多く、人通りはたいして多くはない。
水内家は、奉行所からそれほど遠くない位置にある。
「谷本さまも、本来のお仕事がおありでしょうから、ここでよろしいですよ」
沙夜は風呂敷包みをかかえて、奉行所が見える辻で、頭を下げた。
「いけません。屋敷にお送りするまでが私の役目です。お奉行に怒られます」
そう言って、谷本は子供をあやすように微笑む。
――微笑んでいても、この人の目は、いつも笑っていないように思うのはなぜなのかしら。
沙夜はそう感じた。
職務に忠実なのですよ、と、晃志郎なら言うだろうな、と沙夜はなんとなく思う。
「沙夜じゃないか」
不意に声をかけられ、びっくりして振り返ると、兄の龍之介と、兄の同僚である土屋宗一、赤羽晃志郎がこちらに向かって歩いてきた。
晃志郎は気まずそうに俯いて、沙夜から視線を外している。
「龍之介殿」
谷本は龍之介の姿を認めると深く頭を下げた。
「ちょうどよかった。朧の勘助の担当は、谷本殿らしいな」
「はい」
頷く谷本に、「なら、早速話がしたい」と、龍之介は話を切り出す。
「では、先に奉行所の方へどうぞ。私は沙夜さまをお屋敷に送り届けてまいりますから」
「時間が惜しい」
龍之介はそう言って、沙夜にだけ見える角度でニヤリと微笑んだ。
「晃志郎、沙夜を送ってやってくれ。奉行所には俺と土屋だけで行く」
「え?」
晃志郎の目が見開く。
「話を聞いたら、俺たちも一度、家に寄るから、沙夜を送ったらそのままそこにいてくれ」
「りゅ、龍之介さま?」
戸惑う晃志郎を無視して龍之介は沙夜に向きなおる。
「沙夜、悪いが、谷本殿と俺は仕事の話がある。晃志郎に送ってもらえ」
「はい」
間髪を入れずに頷いた沙夜に、晃志郎は目を丸くした。
「しかし――」
「例の女の絵が、おぬしの予想通りなら、それもおぬしの仕事だ」
龍之介の理屈に、晃志郎は言葉を失う。
「よろしいな、谷本殿」
「……承知いたしました」
自分の意志と関係ないところで、強引に話が進み、谷本は肩をすくめた。
役職的には、四門の封魔士と封魔奉行所の封魔衆は、ほぼ同格だが、なんといっても龍之介は奉行の息子である。谷本としても否とは言いにくい相手だ。
龍之介と土屋は、谷本と連れだって、奉行所の方へと歩いていく。それを見送る晃志郎を沙夜はおそるおそる見上げた。
いつもと変わらない強い意志を感じさせる瞳が、ぐるりと油断なく辺りを見回したのがわかった。
「龍之介さまのお考えは、よくわかりませんね」
そう言って、晃志郎は同意を求めるかのように沙夜に目を向けた。
先ほどとは違う、優しい目だ。
「あの……」
何か話さなくては、と思って口を開きかけた沙夜を、晃志郎は柔らかい微笑みで制した。
胸がドキリと音を立て、沙夜は思わず頬が赤らむのを意識する。
「弁当、ありがとうございました。とても美味しかったです」
沙夜に歩くように促しながら、晃志郎はそう言った。幾分、頬が赤い。
「……よかったです」
沙夜の胸がじんわりと暖かくなる。
「本当は、昨日の夕刻にでもお邪魔しようかと思っていたのですが……その、仕事が入りまして」
晃志郎は言いにくそうにそう言ってから、照れくさそうに笑った。
「いえ……正直に申し上げますと、どんな顔でお伺いしたらよいかわからなくて」
「私も、です」
お互いに顔を見合わせて、ホッとしたように笑みを浮かべる。
「傷は、痛みますか?」
晃志郎の言葉に、「いいえ」、と、沙夜は首を振った。
「赤羽さまは、なぜ、兄と一緒に?」
沙夜は晃志郎の半歩後ろを歩きながら、遠慮がちに問いかけた。
「しばらく、四門の仕事を手伝うことになりまして」
晃志郎は、頭を掻いた。
「それは、おめでとうございます」
沙夜は頭を下げる。
「えっと。いえ、でも、正式に仕官が認められるかどうか、まだわかりません」
晃志郎は慌ててそう言った。
封魔四門は、役所のなかでも審査が厳しいことで有名である。
「赤羽さまなら、きっと大丈夫です」
沙夜は、そう言いきって微笑む。
その顔をじっと見つめた晃志郎の目がほんの少し険しくなった。
「……やっぱり、沙夜さまで間違いなさそうだ」
「え?」
聞き返した沙夜に、晃志郎は「なんでもありません」と、呟くように答えた。
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