第十八話 天女 弍
右近の屋敷に戻った晃志郎は、ひとり、屋敷の中を歩き回った。
土屋は、結界用の札を作成中だ。
――客用の座敷から、厠まで。それから、井戸……あとは、絵だな。
歩くだけで、背中がピリピリと痛い。『鳩屋』の時と違って、『本気』を感じさせる。
標的になっているのは、娘の藤であるが、屋敷にいる全員が術の影響を受けていると思って間違いない。
右近が封魔奉行所に相談せず、封魔士を探し求めた心理も実は術の影響かもしれない。
晃志郎は、場所にあたりをつけると、土屋のいる部屋に戻った。
屋敷の人間は、日暮れ前までは自由にして良いと伝えてある。ただし、『飲食』は禁止。井戸に強い星蒼玉の気配を感じるからだ。
「赤羽殿、結界を張るのは、この部屋でよろしかったですか?」
土屋が、札を書く手を止めて、部屋に入ってきた晃志郎に聞いた。
「はい。この部屋がこの屋敷で一番広く、封魔がやりやすそうですから。なにしろ、屋敷の人間五人まとめてせねばなりませんからね」
「五人まとめてというのは、いかにも骨が折れそうですねえ」
土屋はふうと息を吐いた。
「そこまで、派手な封魔の仕事は、私はあまり経験がないです」
「俺も……あまりないですね」
封魔というのは、たいてい、対象者はひとりである。
今回の場合も、普通に考えれば、娘の『藤』ひとりなのだが、井戸の水が汚染されていることを考えれば、屋敷の人間の誰が影響を受けても不思議はないのだ。
「払うだけなら、なんとかなるでしょう。問題はそのあとです」
この右近の屋敷の状況から見て、この事件は大きな組織が絡んでいる。単独犯ではありえない。
呪術を返した後のことは、晃志郎の手に余る。
「払うだけならなんとかなる、という言葉が出てくるだけ、赤羽殿はお強い」
土屋はふっと苦笑した。
「私は、正直、怖気づいております」
晃志郎は、苦笑した。
「ただの強がりですよ」
封魔士は、依頼人を安心させねばならない。自分の術が絶対であるかのように振る舞う『ハッタリ』も商売上、必要な技術である。
調度品の少ない広めの座敷は八畳。部屋の片隅に、たらいや、柊の枝、そして、酒、手桶の水などが、晃志郎の指示通りに丁寧に用意されている。狭い部屋ではないが、五人もの人間をまとめて封魔をする、となると少々狭い。
本来なら、道場くらいの広さが欲しいが、そうも言ってはいられない。
そして床の間の一段高い位置に、くるりと巻き上げられた掛け軸が一軸、置かれている。右近に確認したところ、間違いなく、『
日が傾き始め、部屋が薄暗くなってきたので、右近の家の使用人松吉が行燈に火をともしていった。
「水内様がお見えになってから、はじめますか?」
土屋が、晃志郎に確認する。
陽が落ちる前に始めたい……それは、晃志郎も同じ気持ちだ。
しかし、龍之介が来る前に術を始めては、奉行所の牢にいる勘助がどうなるかわからない。
「すぐに出来るように、準備だけはすませておきましょう」
晃志郎は、ふうっと溜息をついた。
夕日が沈み始めた。
――マズイな。
晃志郎は、空を見上げた。
天が朱に染まりはじめている。
「あの……赤羽どの、どうしたらよいでしょう?」
右近新之助が、心配そうに晃志郎にたずねた。
「まずは、ご息女をこちらへお願いします」
晃志郎は、そう言いながら迷う。さすがに、夜歩きをされてからでは遅い。かといって、身内のまえで、若い娘の身を拘束するのも躊躇われた。
連れて来られた藤は、やや頬がこけて、疲れがにじみ、少女のはつらつさはどこにもなかった。
暮れていく夕日の影をみつめながら、少女の肩は震えている。
晃志郎は、藤を部屋の中央に座らせた。そうして、「
「土屋さま、筆をお借りできますか?」
「ああ」
晃志郎は、土屋から筆を受け取ると、懐紙を取り出し、『右近 藤』と記入した。そしてその上に彼女の髪の毛を載せ、笄を抜いた。
「青龍・白虎・朱雀・玄武・勾陳・帝台・文王・三台・玉女」
晃志郎の九字が完成すると、懐紙はクルクルと紙を巻き込んで、僅かに燐光を放つ、
「四半刻くらいであれば、これでしのげます」
晃志郎がそう言うと、土屋が頷いた。
「変わり身ですね……では、このご息女はとりあえず、護符を持たせましょう」
土屋は丁寧に書いた呪符を藤に渡した。
陽が落ちる。闇の帳が降りてくるのと同じように、大気の温度がさがりはじめた。
先ほどの人形が、かさり、と音を立て、小刻みに震えはじめた。
「ひっ」
藤が、怯えた目で、人形を見る。
「大丈夫です。これは、あなたを守っているのですよ」
土屋が柔らかい微笑みを浮かべながら、藤にそう告げると、少女は、土屋に渡された呪符を胸におしい抱き、コクリと頷いた。
ぞわりとする冷気が畳を這うように漂い始める。
「あの……お連れ様とおっしゃる方がお見えになりました」
松吉であろう。年を取った男が晃志郎に声をかけた。
「遅くなってすまなかったな」
ニヤリと笑った龍之介を確認し、晃志郎は、ホッとして息をついた。
家人の全てを座敷に集め、四方に結界を張り巡らせる。
そして、結界を土屋一人に任せて、晃志郎と龍之介は、提灯を手に外に出た。
「しかし、ひどいな」
龍之介は眉を寄せた。
「井戸と庭の石か。井戸は厄介だな」
「まず、井戸からはじめましょうか」
晃志郎は、そういって、井戸の前に立ち黒い笄を抜いた。
「照魔」
小さく晃志郎が呟くと、井戸の水面が赤い光を放った。
「粉末だな」
龍之介は顔をしかめる。固形のものと違い、回収が難しい。
「浄化と回収をいっぺんにやるしかないな……」
晃志郎は呟きながら、ため息をついた。
「井戸に降りるか……」
焔流は、根本的に火の属性の霊波を使用するから水に弱い。それでも、水面が近ければ晃志郎の霊力を持ってすれば、苦もないことではある。しかし、井戸の場合、水面までの距離がかなりあった。
「俺がやろう」
龍之介がニヤリと笑い、数珠を手にした。
「井戸は、俺の方が向いている」
晃志郎は頷いて、おとなしく後ろに去がる。
「蛟よ」
龍之介の言葉が発せられると同時に、青い鱗をまとった大蛇が淡い光を放ちながら井戸の水へと飛び込んでいった。
「青龍・白虎・朱雀・玄武・勾陳・帝台・文王・三台・玉女」
龍之介の九字が完成すると、ざーっと井戸の水が沸騰したように泡立ち、青白い光を放った。
「清めよ」
すーっと光が淡くなり、闇に溶けるように消えた。
ふわりと、燐光を放った蛟が龍之介の手に、透明な星蒼玉を吐き出す。
「お見事です」
晃志郎の賛辞に龍之介は苦笑を浮かべた。
「たまには、仕事をしないと、四門の名が泣く」
「誰も、龍之介さまが仕事をしていないなどと、思っていませんよ」
晃志郎は言いながら、庭の石を拾い上げた。
「一、二、三……。これで全部ですね」
黒い穢れた星蒼玉を、懐紙に包む。
「……相変わらず、手際がいいな」
どうやら、龍之介が井戸と格闘している間に、晃志郎は庭の石に紛れた星蒼玉を拾っていたらしい。
加勢が必要となるような事態を全く想定していない、その晃志郎の自分に対する信頼に、龍之介はむずがゆさを感じた。
「さて、と。土屋さまがご苦労していらっしゃるようなので、片をつけることにいたしましょう」
晃志郎は、険しい目で屋敷を見た。
闇が押し寄せるように屋敷を圧迫しているようだった。
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