第十六話 白恋大社 五

 なつめの後を追い、境内を歩いていく。今は誰もいない社務所の前で、晃志郎の脳裏に、沙夜の青ざめた顔が浮かぶ。

 二度と会うことはない……そう思えば思うほど、胸が苦しい。

――何を考えているのだ。俺は。

 意中の人がいるのかと問うたとき、沙夜は頬を染めた。そして、谷本という男に向けていた朗らかな笑顔。もとより、晃志郎の入り込む余地などない相手なのだ。兄である龍之介との友情が深まっていくにつれ、沙夜との関係も近しくなったような錯覚を抱いていた自分がおかしい。晃志郎はお守り袋を夢見るように選んでいた花のような沙夜のかんばせを振り払った。

「見て」

 先を行くなつめが身を隠しながら、神社の敷地の奥にある神人たちの寮を指した。

 二つの建物が渡り廊下でつながっている。片側は、工房で、もう一方は職人集団たちが寝泊まりしている建物だ。戌の時(※午後八時くらい)を過ぎたというのに、工房にはまだ灯りがともっている。

 やがて。その工房側の出入り口に、いかにも身分を隠しているという感じの籠が入ってきた。

 闇夜だというのに、駕籠かきたちは必要最低限の灯しか手にしていない。しかし、「お忍び」のわりに随行している人数がやや多いように思われる。しかも全員、そろって黒づくめだ。

 籠から降りたのは、ひょろ長い影だ。どうやら、男のようだった。

 そいつは、ゆっくりと建物の中に消えていく。 

 とものものと思われる者たちは、その場で気配を消すかのように動きを止めている。

 なつめは、その者たちの視線を避けるように木々を抜け、入り口から死角となる位置の壁際に身体を張り付け、晃志郎を手招きした。

 晃志郎は自らの気配を消しながら、壁際に身を寄せた。頭の上の障子窓から明かりが漏れてきている。

 部屋の中で、かなり多くの人間が話をしている。残念ながら、会話は聞き取れない。

「話が違うッ!」

 不意に、怒号のような叫びが聞こえてきた。

 次の瞬間、たくさんの人間が部屋になだれ込んだ気配がした。

「晃志郎!」

 なつめの声に弾かれたように、晃志郎は閉められていた手近な雨戸を蹴り倒すように開いた。

 広い工房に、血臭が広がっていた。

 外に控えていたと思われる黒づくめの者たちが刃を抜いて職人たちを取り囲んでいる。ひょろりとした男の抜身の刃に、血が滴っており、顔に残忍な笑みが浮かんでいる。

 肩口から大量の出血をしている男が職人たちに守られるように膝をついていた。

「そこまでよ、粟村源蔵あわむらげんぞう

 なつめはそう言って、晃志郎の脇でクナイを構えた。

「なつめどの、二人だけとは、拙者も舐められましたな」

 にやりと男は嗤い、掌にふっと息を吹きかける。

「殺せ」

 一言、命じる。

 男の言葉に合わせ、黒い靄がむくむくと湧き、四足の獣の姿となった。狼にも似たそれは、咆哮をあげ、牙をむく。

「晃志郎は、職人を」なつめは言いながら、クナイを頭上へ振り上げると、キラリと煌めく朱雀がなつめの肩に舞い降りた。

「術で私に対抗しようなんて、百年早いわっ」

 なつめが腕を振りおろすと、朱雀はぐるりと回転して、獣へと突進した。

 


 いきなり粟村に肩口を切られ、死を覚悟した慶次けいじであったが、逃げるのも忘れて、自分の目の前の戦いに目を奪われていた。

 突然に現れた女が繰り出したのは、見たこともないくらい見事な瑞獣『朱雀』。そして、自分たちを殺そうとしていた黒ずくめの賊を、文字通り蹴散らしていく、凄腕の剣豪。

 特に、男の剣は圧倒的だ。相手の足の腱を切り、場合によっては蹴り倒す。命こそとらないものの、確実に相手を倒す実践的なものだ。剣術そのものも優れているが、体術の心得もあるらしい。

 二十人はいたはずの黒ずくめの賊は、あっという間に床に沈んでいった。

 肩で息をしてはいるものの、傷一つ受けた様子もない。

 男は、粟村に剣を向けた。

 粟村は刃に残った血糊に砂のようなものを振りかけた。

 ザワリ、と肌を刺す感覚とともに、グワンと、空気が揺らめいた。

「ぐっ」

 慶次は、自らの身体が締め付けられるような衝撃を受けた。慶次の生気が血を通じて吸われているのだ。

 息苦しさを感じ、膝をつく。粟村の刀身に残った血糊は黒い大きな塊となりぐんぐん膨れ上がっていく。

 粘着質を思わせる黒い塊が男に向かって降りかかった。

「朱雀!」

 男の叫びに応え、先ほどとは別の美しい朱雀が現れ、朱金に輝いた。

 瞬間、慶次の身体を締め付けた戒めがすぅっと消えた。

 そして、男を取り込もうとしていた塊は、光の中に溶けるように消えていく。

「ぐわっ」

 突然、粟村が顔を歪め叫んだ。

「しまった! 不知火かっ」

 男が叫ぶと同時に、突然、粟村がゴフッと音を立て吐血した。そして、吐血した血から黒い蠢く霧が生まれ、ずぶずぶと粟村の身体を溶かし始める。

「なっ!」

 粟村の顔が恐怖に歪み、絶叫をあげた。

「青龍・白虎・朱雀・玄武・勾陳・帝台・文王・三台・玉女」

 男の九字が完成した時には、粟村は床に倒れ伏していた。


 晃志郎は、肩で息をしながら、剣を納めた。

「おつかれさま」

 なつめはそう言って、晃志郎の肩を叩き、職人たちを見回した。

「寺社奉行与力のなつめです。素直に指示に従って頂ければ、悪いようにはしません」

「な!」

 職人たちが騒めく。寺社奉行というのは文字通り寺社を総括する、お上の機関である。寺社はそれぞれ流派があるが、それを越えて、統括しているのが寺社奉行であり、寺社につとめる者ならば、逆らうことは許されぬ機関だ。

「まず、こいつらを縛り上げている間に、傷の手当てを。それから、神主を呼んできなさい」

 なつめの視線を受け、晃志郎は、賊をしばりあげていく。

「……俺じゃなくて、配下の同心を連れて来ればいいじゃないか」

「何か言った?」

「いや」

 晃志郎は首を振った。

「心配しなくても、そろそろ人手がやってくるわ」

 ニヤリ、となつめは笑う。

「説明くらいしてもらおうか。不知火が噛んでいるなら、最初から言ってほしい」

「あら? さっきの不知火だった?」

 わざとらしく驚いた表情を作るなつめに、晃志郎はため息をついた。

「私が知っていたのは、職人衆が寺社奉行の届け出にない人間に、星蒼玉で作った術具を卸していたということと、粟村源蔵というのが寺社の元与力ということね」

 なつめはそう言って、職人衆に目をやった。

「星蒼玉の術具を横流しするというのは、どこの寺社でも多少はあることだけれど、ここは目をつぶるには大きくやりすぎだし、流した術具の九割は、封魔士じゃなくて闇に流れていっていたから、遅かれ早かれ、手入れの予定だったのだけども」

 辛うじて虫の息のある粟村の身体をなつめは調べ上げる。

「それが、どこかから洩れたみたいで」

「ふうん。それで、口封じにやってきたというわけか」

 晃志郎はふうっと息をついた。手入れの情報が洩れたということもあって、なつめは配下の者を使うことをやめて、晃志郎に加勢を頼んだのであろう。もっとも、晃志郎がいなくても、なつめにはいくらでもアテはあることは間違いないのだが。

 急に外が騒がしくなった。馬蹄の音と、たくさんの人間が玉砂利を踏んでいる音がする。

「俺は……これで退散する」

「あら、このまま、お寺社に仕官してもいいのよ?」

 露骨に顔をしかめた晃志郎に、なつめは笑いながら、たもとから懐紙に包んだものを晃志郎に手渡した。

「しばらくは、『かめや』にいるから、食べにいらっしゃい。安くしてあげるわ」

「……考えておく」

 晃志郎は、手にしたものを懐にしまい、肩をすくめた。

「今、どこに住んでいるの?」

藪裏町やぶうらまち

 晃志郎は顔についた返り血を袂でぬぐう。

「兄貴には、言うな」

「約束は守るわ」

 なつめに片手を上げ、晃志郎は工房を後にした。寺社奉行所の同心たちがわらわらと大挙してやってくる足音が闇夜に響き渡っていた。



 血糊のついた着物は、夜中のうちに井戸端で洗った。

 血のべったりついたような着物を善良な女房たちの前で洗うことは躊躇われた。

 春の夜の水は冷たかったが、晃志郎は着物を何枚も持っているわけではない。汚れた着物を放置する訳にも、捨てるわけにもいかないからやむを得ない。

 闇夜に、極点の星が瞬いている。

 なつめのくれた懐紙には、一両小判と、金平糖が包まれていた。

 なつめと晃志郎は五つ離れていて、病気がちの母に代わり、よく晃志郎の面倒をみてくれた。晃志郎が泣くと、なつめはいつも金平糖をくれた。

――いつまでたっても、お子様扱いだな。

 晃志郎は独りごちて、金平糖をひとつ、口に放り込む。

 疲れた体に、しみるような甘さだった。



 翌日、昼過ぎまで寝ていると、長屋に龍之介が訪ねてきた。

「昨日の夜、白恋大社に寺社の手入れが入った」

 知っている、とは思ったが、晃志郎は煎餅布団をたたむと、お茶を入れた。

「文乃の件とは別件のようだ。どうやら、あの神社、たるみにたるんでいたようだ」

 呆れたように、首を振り、龍之介は刀を置いて、茶をすする。

「文乃が流していたのは、冷黄堂という骨董屋でな。昔から闇の商売をしているという噂のある店だ」

 龍之介は渋い顔をした。

「噂はあるが、証拠がなくて手をだしにくい。親父が手を焼いている難物さ」

 ふうっと龍之介はそう言って首を振り、手にしてきた風呂敷包みを晃志郎に押しやった。

「なんですか?」

「まず、開けろ」

 言われて、晃志郎が茜色の風呂敷包みを解くと、朱塗りの重箱が入っていた。

 怪訝な顔で龍之介を見ると、さらに開けろと、目で促された。

 上等な漆のその蓋を開くと、握り飯や、漬物、煮物がびっしりと詰められている。

「これは?」

 思わず、腹が鳴る。そういえば、昨日の夜は、金平糖を一つ口にしただけであった。

「この前の護衛代だ。随分と安くなってしまうが、お主は絶対に金は受け取らぬであろう?」

 にやり、と、龍之介は笑った。

「し、しかし」

「沙夜が食事も喉にとおらぬほど、気鬱になって、手が付けられぬ」

「それは、傷が痛んでいるのでは?」

「おぬし、女心を解さぬ男だな。痛んでいるのは腕の傷ではない」

 呆れたように龍之介は息をついた。

「とりあえず、護衛代は渡した。食うも食わぬも、晃志郎の好きにしろ」

 龍之介は、そういって腰を上げた。

「あ、弁当箱は、俺の家に返しに来い。では、俺はこれで失礼する」

 龍之介はそれだけ言うと、引き戸をピシャリと閉めて帰っていった。

 晃志郎は戸惑いながらも、重箱の中身をみつめる。

 弁当のおかずのなかで、一番、分量を占めていたのは煮豆であった。

『赤羽様は、煮豆がお好きなのですか?』

 不意に、沙夜と再会した時のことが思い出された。

――沙夜さまは、怒ってはおられないのだろうか?

 晃志郎は昨日の青ざめた沙夜の顔を思い浮かべる。

――おなごはわからぬ。

 ぐうと再び腹が鳴り、晃志郎は、首を振ると、無心で握り飯にかじりついた。

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