第十五話 白恋大社 四

 戌の刻には、あまりにも早い。

――しかし、仕事を受けることもできぬ。

 いまいましく手にした紙を握りしめ、晃志郎は、ぶらぶらと通りを歩く。

――たまには、稽古に行くか。

 滅多とおとずれぬ、青坂町の杉山道場へと足を向けた。

 竹刀と、人がぶつかりあう音がしている。相変わらず、たくさんの弟子が通っているらしい。

「晃志郎、久しぶりではないか」

「杉山先生、ご無沙汰しております」

 晃志郎は、師である、杉山与四郎すぎやまよしろうに頭を下げた。杉山は四十になろうとしている。まだまだ、四肢に力がみなぎっているものの、頭には多少、白いものが混じっている。

「今日は、一手、ご指南を頂ければと」

「お主に教えることなど、何もないが、よかろう」

 ニヤリ、と杉山は笑った。


 一刻ほど身体を動かすと、晃志郎は、井戸の傍らで、汗をぬぐった。

「晃志郎さま、父がよろしければ、ともにお茶を、と」

 すらりとした女性が晃志郎に声をかける。杉山の愛娘『美和みわ』である。

 年は、沙夜と同じ十八。女性にしてはやや眉が太く、目は大きいが吊り目だ。道場の娘に相応しい、気の強さが顔にも表れている。美しい、といえなくもないが、花というよりは、野生動物のような美しさを持った女だ。さっぱりした気性で、度胸もある。剣を取っても、男にひけをとるものではない。杉山は常々、「美和が男であったなら」と、嘆いている。

 杉山には、太一たいちという十五の息子が一人いるが、剣の腕はともかくとして、とにかく気の弱いところがあり、跡取り息子として不安を感じているのであろう。

 晃志郎は、身なりを整え、美和に案内されて奥の座敷へと足を運ぶ。

「おう、来たな」

 杉山は晃志郎の顔を見ると破顔した。

 座敷に座ると、美和が茶と煎餅を差し出した。日がやや傾き始め、畳に落ちる影が長くなり始める。

「随分と久しぶりだが、腕は鈍るどころか、ますます強くなったな」

「恐れ入ります」

 晃志郎は、軽く頭を下げた。

「相変わらず、その日仕事をしているのか?」

 杉山は茶をすすりながら、そう言った。

 晃志郎は、無言でうなずく。

「もったいないことだ。お主なら剣の腕だけでも、仕官が可能だというのに」

 ふうっと杉山はため息をつく。

「お主にならば、道場を譲っても構わんと、わしは思っているのだが」

「滅相もない。太一殿は、天賦の才をお持ちです」

 晃志郎は、首を振る。世辞ではない。

「……しかし、あやつは」

「太一殿は、臆病ではなく、用心深いのです。杉山殿は、太一殿の才を見落としていらっしゃる」

 晃志郎は杉山の目を睨みつける。杉山は門下生の才を伸ばす技も目も十分に持っているが、自分の息子にそれが生かされているようには見えない。

「あと数年もすれば、太一殿は俺より強くなると思います」

 晃志郎はそう言って、茶を口にした。

「恐怖を感じたことのない武芸者は、強くはなれません」

 ふーっと杉山は息をついた。

「お主は、美和が嫌いか?」

「は?」

 杉山は何かをあきらめたような顔をした。そして気を取り直したかのように、晃志郎を見る。

「太一は、それ程に逸材だと思うか?」

「はい。和良比でも名の知れた剣士になると思います」

 晃志郎は頷いた。

 世辞ではない。太一は相手の太刀筋を読むのが上手い。どちらかといえば剛の剣の与四郎とは違う種類の剣だ。

「ならば、道場に顔を出して、もっと稽古をつけてやってくれ」

「……耳が痛いですな」

 晃志郎は苦く笑う。

 剣を極めるのであれば、もっと熱心に稽古をすべきである。封魔の技もしかり。ひとところに仕官をし、職務を真摯に勤めているわけでもない。

 結局のところ、晃志郎は全てにおいて中途半端なのである。

「なにをしたいのでしょうね……俺は」

 晃志郎はそう呟いて、遠い目をした。

 


「晃志郎さま」

 道場を出ようとした時、美和に声をかけられ、晃志郎は立ち止まる。

行平町ゆきひらまちの、伯母様の家まで送って下さらない?」

 杉山の姉は、行平町の商家に嫁いでいる。かなり羽振りの良い呉服商だと聞いている。

「出かけるにはずいぶん遅くはないですか?」

 陽はまだ高いとはいえ、往復すれば当然、帰るころには陽が落ちてしまうだろう。

「今日は、伯母様のお家で、夜桜見物に行くの。お父様と太一は行かないから、私だけね」

 くすくすと美和は笑った。

「夜は、伯母さまのうちに泊めていただくから、晃志郎さまがご心配なさることは何もないですわ」

 晃志郎は頷いた。

 美和は、風呂敷包みを持ち、晃志郎とともに門を出る。

「晃志郎さまは、太一を随分、買っておいでですね」

 面白そうに、美和は晃志郎を見上げ、そう言った。

「太一殿は、太刀筋を読む天才です。先生は、それに気が付いておられない」

「そんなことはないと思うの。でも、それ以上に、父は晃志郎さまの剣に魅了されているのよ」

「どういう意味ですか?」

「……その通りの意味です」

 美和は意味深に微笑んで、晃志郎と肩を並べて歩く。歩幅も娘にしては広い方で、速度も速い。

 美和も武家の娘には違いないが、沙夜のような良家の姫君とはずいぶんと違う。

 行平町は商家が多く、青坂町と藍前町に挟まれた場所で、和良比東西に流れる水路沿いにある町だ。

 水路にそって、広い道が作られ、それに沿うようにして大きな店が立ち並んでいる。どちらかといえば、小売りというよりは問屋が多い。

 夕刻間近になり、人の通りが増えてきた。大店おおだなに勤めている通いの奉公人が、家へと帰る時間である。

 晃志郎は不意に視線の先に、沙夜の姿を見つけ、つい足を止めた。

 通り沿いの茶屋の店先に座って、笑顔を浮かべている。彼女の隣には、身なりの良い美丈夫が座っていた。

「晃志郎さま?」

 美和が、晃志郎の顔を覗きこんだ。

「いえ、なんでもありません」

 晃志郎は、美和に笑いかけた。

 沙夜には、常に護衛が付いている。晃志郎が役に立たなければ、もっと優秀な人材が護衛に立つことぐらい簡単に想像が出来ることだ。

 晃志郎は、胸のざわつきを押さえつける。

 もともと、晃志郎は奉行所の人間に都合が付かなかったがために、呼ばれた護衛であった。ということは、沙夜には、いつも決まった護衛が付いていたのだろう。朗らかな笑顔をむけているところをみれば、かなり親しい間柄に違いない。

 晃志郎は、二人から視線を外し水路に目をやるふりをする。

「赤羽さま?」

 店の前を通り過ぎようとした時、沙夜に声をかけられた。

 晃志郎は、足を止め、今気がついたかのように軽く頭を下げる。

「沙夜さま、お怪我の様子はいかがですか?」

「あら、晃志郎さま、お知り合いなの?」

 そう言って、美和が晃志郎の袖を引いた。沙夜が驚いたように目を見開いている。どうやら、美和の存在に気が付いていなかったのであろう。

「封魔奉行の水内様のご息女の沙夜さまでいらっしゃいます」

「まあ、水内家のお姫さまでしたか」

 美和は目を見張った。晃志郎は、護衛の男に軽く頭を下げる。

「こちらは、杉山道場のお嬢様の美和さまです」

「杉山道場……無弦流の杉山与四郎どの?」

 護衛の男が興味を示したように美和に目を向ける。

「はい。父をご存じで?」

 美和はにっこり微笑んだ。

「ご高名はかねがね。私は光刀流の谷本と申します」

 男は、言葉少なに、名を名乗る。

 笑っていても、目は油断していない。自分にはない護衛という任務への実直さを感じて、晃志郎の胸が痛んだ。

「悪い噂じゃないといいのですけど。よろしければ、いつでも道場にいらして」と、美和は朗らかに笑い、「行きましょう」と、晃志郎の手を引いた。

「それでは、俺はこれで」

 晃志郎が頭を下げると、沙夜は「赤羽さま」と小さく名を呼んだ。

「はい?」

 晃志郎はその声に反応して沙夜に目を向ける。沙夜の顔は青ざめて見えた。

「……もう、怪我は大丈夫ですので、お気遣いなく」

 か細いその声は、いかにも無理をしているのがまるわかりであった。

「沙夜さま……そのように優しい言葉を作らずとも、正直に罵詈雑言を浴びせていただいてかまいません。俺は、それだけのことをしたのだから」

 晃志郎は苦笑する。沙夜が、己を押し殺して、晃志郎に優しい言葉をかける必要はどこにもないのだ。

「え?」

 戸惑いの表情を浮かべる沙夜に一礼して、美和の背を追う。

 もう、沙夜に会うことはないだろうな、と、晃志郎はぼんやりと思った。 



 闇夜だ。

 天に星が瞬き、風が密やかに木の葉をゆらしている。

 白恋大社の境内は、しんと静まり返っていた。

 晃志郎は、ざくり、と玉砂利をふみ、鳥居をくぐる。

「来てくれたのね、晃志郎」

 くすり、と女が笑った。

 晃志郎は肩をすくめた。

「来たくはなかったことだけは、覚えておいてほしい。何の用だ?」

 ふーっと晃志郎は息を吐く。

「あら、つれないじゃない? 三年ぶりだというのに」

 女は面白そうにそう言った。

「……あんたの用事は、ろくなことじゃない。そうだろう?」

「別に、ちょっと、神社のおそうじを手伝ってもらうだけよ。晃志郎がいてよかったわ。応援頼むと、おおごとになっちゃうから」

 くすり、と女は微笑む。

「おそうじね……」

 晃志郎は、眉を寄せ、神社の方へ目を向けた。

「大丈夫よ。ただとは言わない。一両、出すわ」

「……その気前の良さに、俺は、尻込みしたくなるね」

 晃志郎は頭を振った。

「晃志郎は、か弱い姉の頼みは、断れないでしょ?」

「か弱いという定義を、あんたに教えてやりたい気持ちでいっぱいだ」

 晃志郎は深くため息をついた。

「それで?」

 晃志郎は、姉のなつめを睨みつけた。

「ある男が今日、ここへやってくる。おそらく、職人集団の寮に」

 なつめはふっと笑う。

「商談で終われば、それを見守るだけよ。そうでない可能性がある」

「そうでない可能性?」

「口封じの殺りくと星蒼玉の強奪の可能性よ」

 ついて来なさい、となつめは足音を消して神社の私有地へと進んでいった。


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