無味

 目を覚ますと午後十二時六分だった。小生は布団に潜り込み、暫の間微睡んだ。その後なんとなく体が痒くなってきたので寝転がったまま服を脱いだ。脱ぐ必要性を感じなかった下履だけになると、なんとも言えない気分になった。

 まだ覚醒には至らなかったので、音楽を聴くことにした。ベッドの向こうに置いてあるヘッドフォンに手を伸ばし、CDをかける。小生が特に好んでいるブレイクコアが流れ始めた。曲を聴きながら天井を見上げる。天蓋のハニカム構造に焦点が合った。焦点を天井に変える。そしてハニカム構造に戻す。幾度かそれを繰り返すと、だんだんと覚醒してきた。

 4曲ほど聞いた後ゆっくりと体を起こす。なぜか風呂に入りたくなった。脱いだ服を持って風呂場に向かう。勿論浴槽に湯など入っていないのでシャワーにかかる。窓枠の上から滴り落ちようとする結露が透明な茸のようだった。

 風呂から上がって気づいた。替えの下着を持ってきていないことに。仕方がないので裸のまま服を取りに行く。寒い。そして先ほどまで着ていたパジャマを着る。ふと髪を乾かしたくなった。普段は面倒なのでそのようなことはしないのだが、今日は気分がすこぶる良いのだ。

 小生の髪は一般的な男性より長いので、乾かすのにだいぶ手間がかかる。なんとか乾かし終えて鏡を見る。前髪が長くなったな。

 ここまでの執筆を終えた後、ピアノの練習をする。指先から生み出される音は雑音でしかなく、紡がれるメロディーは土気色。弾けば弾くほど劣等感に苛まれる。吐き気がしてきたところで小生は弾くのをやめた。

 座椅子に座って父の官能小説を捲ることにする。やはり人物描写に力を入れた方がいいのか。セリフの入れ方も重要になってきそうだ。

 小生はバナナをかじりながら本を読み続ける。実に20時間ぶりの食事である。食べていると胃のあたりから音がする。慌てて仕事をし始めたのだろう。

 また眠くなってきた。だが今眠ってしまうと夜眠れないだろうと思いつつ CD をかけて目を閉じた。目を開けるともう2時間弱経っていた。小さな窓から見える夕焼けは半分ほど夜の色に犯されていてまるで二色のゼリーのようだった。体中の傷が痒い。一つあくびが出た。ちゃんと夜も眠れそうだ。

 夕ご飯は食べないと父が怒るので食べないといけない。食べるとなると食べ過ぎてしまう癖があるので直したいところだ。夕ご飯を食べる前に風呂に入った。身体中の傷に少し滲みたがさっぱりした。体中に薬を塗った。食事は美味しかった。食後のプリンまで食べて大満足だ。母は本当に嫌なら変えてもいいとあのことを語った。

 弟が月を見に行きたいと言った。外はずいぶん寒かった。だが、彼はもう一度外に出たいと言った。母は怒った。小生の部屋から月が見えるので、弟を抱きかかえて部屋に行った。月を見せても弟は癇癪を起こしたままだった。弟は妖精の国の住人なのだ。しばし待とうと思って小生はドアの前に座り込んでニコニコと笑っていることにした。すると弟が近づいてくる。回らない舌で弟は外に行きたいと言う。小生は何も言わずニコニコと笑っていた。そして弟はドアを開けようとするのではなく小生に暴力をふるい始めた。

 まず1つの手で顔の中心を握られた。痛かったがニコニコ笑っていた。そうするともう一度同じことをされた。まだ小生はニコニコ笑っていた。そうすると次に両手で口の端から頰を掴まれた。目を見開いて歯ぎしりをしていた。とても痛かった。そして再び顔の中心を1人で掴まれた。指が目頭に入って痛かった。その後両手で顔を叩かれた。彼の顔は怖かった。小生はニコニコ笑っていた。とても痛かった。目から涙がこぼれた。何度も顔を叩かれた。痛かった。また両手で顔を握られた。歯ぎしりが聞こえた。涙で前が見えなかったが小生はまだ笑おうとしていた。また顔を叩かれた。顔がヒリヒリした。また顔をつかもうとした時、ドアが開いた。弟があれを経験してからもう一月も経っていると言うのに。弟の力はとても弱い。それでも全力でやってくるのでとても痛い。加減を知らないのだ。彼は齢八つにしてまだ妖精の国にいる。

 静寂は饒舌だ。小生に様々な言葉を流し込んでくれる。まあ、言葉の森に採取に行ったり、文字の海に釣りに行ったりはしなければならないが。収穫が増えるということだ。しかし痛いな。冷やしに行くか。鏡を見ると目が小さかった。そんな事はどうでもいい。電子機器の電源をつける。通知が何件も来ていた。おお、現世が見える見える。小生はそのまま電源を切った。しかし暇だな。脳内にでも出かけるか。小生はよく脳内に遊びに行っている。映画や劇なんかがやっている時もあってなかなかに面白い。たまに戦争があったり爆発が起こったり危険な場所ではあるが楽しいところである。今日の案内人は広辞苑と言う年老いた紳士だ。

 さてどこに行こうか。パン屋がある。どれどれ……「のねずみパン」お友達のねずみを食べちゃいそうな猫さんにおすすめ。「ショゴスサンド」不定形にうごめく玉虫色の何かのサンドイッチ。ラブクラフト氏に敬意を込めて。「バカバッド・ギーター風トースト」極めて哲学的で科学的なトースト。食べると徳が高くなるかも。なんて素敵なパン屋なんだろう。……ええ?もう帰らなきゃいけない?随分と早くないかい?小生が他のひとに浮気していたのが悪いって?仕方ないじゃないか。彼女らはあまりにも魅力的だ。小生は広辞苑氏に手を振って、脳内から出た。九時二十八分。そろそろ寝るか。

 母と談笑した後、ベッドに横たわる。ブレイクコアを静かに流す。小生はうとうとしながら、安らかな幸福感と、明日への不安感に包まれた。その日の記憶はここで終わっている。

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