世界がおわる前に、きみと辿りたい幾つかの場所
成井露丸
第二話 きよらかな水
二人を囲む樹々は
秋の涼やかな風が、車を停めてドアを開けたクロハの頬を柔らかく打つ。黒いグローブをはめた左手を車のドアの窓枠に添えて、クロハは車中から右足を伸ばした。茶色のブーツに包まれたその足が、灰色の砂利が撒かれた地面でグリッと音を鳴らす。
振り返るとシラユツが「よいしょ、よいしょ」と助手席からお尻を引きずりながら降りようとしているのが見えた。「相変わらずドンくさいなぁ」と、クロハは少し頬を緩めながらその様子を眺める。終わりそうな世界の前だけど、二人の時間はまだ沢山あるのだ。クロハは車の外に立ち、砂利の上に散った茶色の枯れ葉を踏みしめながら、一つ伸びをした。
左前方に目を遣ると、瓦葺きの屋根を前後左右に広げた方形の建物が建っていた。見るからに伝統的な宗教的建築物だ。その一部は大きく損傷し、補修されていない様子から見ても、それが先の戦争以前からの遺構であることが分かった。建築様式も、その建物が戦争の時代よりも、さらに古い。瓦葺きの荘厳な二階建てである。
「もぉ〜! クロハが『この辺りにはピュアな水がたくさんあるらしいぜっ!』て言うから、頑張って昔の地図と今の地図を見比べながらここまで来たのにさ〜。アテが外れて、がっかりだヨォ〜」
「悪かったって言ってるじゃないか。……いつまでも引きずるなよ、シラツユ」
クロハはバツが悪そうに首の後ろを人差し指で掻く。
地図から行く先を割り出すのはシラツユの仕事で、『きよらかな水が流れる場所』に辿り着くことをシラツユも楽しみにしていたのだ。でも、残念ながら、そんな場所なんて無かった。ちょっと見当違いだったのだ。今となっては、クロハ自身「どうしてあんな初歩的な思い違いをしてしまったのだろう?」と本気で不思議に思ってしまう。
水は貴重な資源である。
世界を旅するクロハとシラツユにとっては車の水も飲み水も欠かせない資源だ。車の水は少し汚い水でも大丈夫ではあるのだけれど、綺麗な水の方が車もやっぱり喜ぶ。
その昔、車を石油で動かしていた時代には、ハイオクと呼ばれる上質な燃料があったそうな。今回探しに来たのは、言うなれば水のハイオク。それにお目にかかろうと、クロハとシラツユはこんな場所まで
「『
「……うーん、それは、そうなんだけどさ」
車のボンネットに左手を突いて目の前の建物を眺めながら話すクロハに、両手をお尻の上辺りで握りながらシラツユは恨めしそうに唇を尖らせた。
実際のところ、シラツユも、クロハのことを強くは責められない。だって、シラツユ自身も喜んでそのアイデアに乗っかっていたのだから。クロハ以上に瞳を輝かせて。
今回の旅の始まりはクロハが偶然その紙媒体の地図を手に入れたことに遡る。紙媒体の地図である。もはや古文書と呼んだ方がいいだろう。あの戦争よりずっと前から、紙媒体で本を残すなんて風習は無くなっていた。偶然手に入れた古文書。だから二人とってそれは『宝の地図』のような存在だった。
ただ、その地図の記述には、全てこの地方の古い書き文字が使われていた。クロハにもシラツユにも、その解読は困難だった。それでも、頑張ってパッチワークのように様々な情報を繋ぎ合わせることで、その一部の意味を解き明かすことは出来たのだ。
古文書の中にクロハが見つけたのが『
――ちょっとはマシな水を自分の車に与えてやりたい!
そんな話で盛り上がっていたクロハとシラツユの目は輝いた。「お宝発見!」とでも言わんばかりに。この場所には特別に綺麗な水があるはずだ。そんな風に、二人が意気込んでしまったのも無理からぬことだったろう。
それがこの旅の始まりだった。残念ながら、そんな水は何処にも無かったのだけれど……。結局、お寺の名前はお寺の名前でしか無い。二人共ガッカリしたけれど、仕方ない。
クロハは目の前の建物を見上げる。目的のものでは無かったけれど、『きよらかな水のお寺』の遺跡の近くで、二人はその二階建ての建物を見つけた。シラツユの持っている戦後に作られた地図に、それは載っていない。シラツユは首を傾げながら、クロハが手元で広げる紙媒体の古文書を覗き込んだ。
「それで、これは何ていう建物なの、クロハ? 私の地図には載っていなくて……」
シラツユの問いかけに、クロハは古文書から目を上げた。そして、その二階建ての建物を見上げると、呟いた。
「『五重の塔』だね」
「え? 五重? なんで? 二階建てなのに? 何が五重なの?」
シラツユは意味が良く分からないと言いたげに、首を傾げた。
クロハは「ほらここ」とその一部を指差しながら、シラツユの前に古文書を広げる。そこには写真が掲載されており、目の前のものとよく似た雰囲気の建物が、五つの屋根を悠然と広げながら、天に向かって立つ姿が写されていた。
在りし日の姿、確かにそれは『五重の塔』だった。
シラツユはその写真と、目の前の建造物を何度も何度も見比べる。古文書の写真は薄汚れていて鮮明さに欠けたが、それでも、見比べている内に目の前のものが写真に写った「五重の塔」の下二段であることが徐々に理解できた。
つまり、これは、今や二重となってしまった、五重の塔ということだろう。
「上三段が、戦争か何かで吹き飛ばされちゃったんだろうね」
クロハは二重になった五重の塔を眺めながらポツリと呟いた。「なるほど」とシラツユは納得する。よく分からないが器用な破壊のされ方である。
先の戦争でこの地域は激戦の地であったことが知られている。多くの文化遺産を抱えたこの地域は、そのほぼ全てが灰燼に帰すほどの爆撃を受け、その住人の圧倒的多数が死に至った。僅かに残った、お寺やお城、その他の文化遺産についても修復の目処が立たぬまま、百年以上放置され続けてきたという訳だ。
伝統的な建築物を修復するには、そのための特別な技術が必要となる。人口の大半を戦争で失ったこの世界で、そんな技術を持った職人達が生き残っているとは思えない。宗教的な建造物を復旧しようとすれば、それに意味を見出す宗教団体が、その活動を牽引する必要がある。でも、そんな組織ももう存在しない。宗教を支える信者集団だって、もう居ないのだ。宗教の教えも、それが蓄えてきた文化も、この世から、もう消えて無くなっている。
二重の塔になった五重の塔は、
クロハはその二階建て木造建築を眺めながら思う。その姿が未だに美しくても、宗教的、文化的意味を理解してくれる人々を失ったそれは、もはや、ただの二階建ての木造建築に過ぎないのではないかと。
五重の塔の、一段目、二段目がどういう意味を持っていて、失われた三段にどんな意味があったのか。それを理解してくれる理解者を、彼はもう失ってしまったのだ。彼にとってのこの世界は、きっともう終わっているのだ。
「中に入ってみない?」
シラツユが、クロハの左腕に右腕を絡ませてきた。
少女の赤いパーカー越しに、クロハは押し当てられたシラツユの胸の柔らかさを敏感に感じとる。突然の接触にクロハの頬は赤く染まった。でも、その紅潮した両頬に気付かれないように、クロハは「まぁ、いいけどさ」とわざとぶっきらぼうな返事をした。数枚の紅葉が、風に空を舞っていた。
二人はコツコツと足音を鳴らして、塔に至る石段を上がる。建物の入り口は開け放たれていて、中には難なく入ることが出来た。木の柱に、石の床。戦前の遺構であることが、内部の様子からも分かるものだ。
建物の中は、木片や、外部から吹き込んだ落ち葉が積もり、荒れていた。クロハは足元に気を配りながらも、キリリキリリと一歩一歩建物の中を歩く。荒れてはいるものの、どこか落ち着いた佇まいも、確かにある。信仰心の無いクロハも、その建物の持つ不思議な空気をどこか感じずにはいられなかった。
「あ、見て見てっ! あそこに光のスポットがあるよ!」
そう言ってシラツユが急にはしゃぎだす。
シラツユが指差す方向に目を遣ると、塔の中央には円形に光を受けて明るく輝いた空間があった。見上げると、三階より上を失った五重の塔の天井に、ポッカリと大きな穴があいていた。そこから太陽の光が差し込んでいるのだ。まっすぐと差す光の中で空に浮かぶ塵がキラキラと光る。地の上、水の空で、光が舞っていた。
シラツユは悪戯っぽい笑顔を浮かべて、藍色のブーツで石床を蹴って小走りにその空間へと向かっていった。「足元、気をつけろよ」とクロハが声をかけると、シラツユは少しだけ振り向いて右手の親指だけを立てて見せた。
クロハは「まったく、仕方ないやつだな」と両手を腰に当てる。笑顔の上で溜め息をつきながら、少女の赤いパーカーが踊りながら遠ざかるのを目で追っていた。
世界はもうすぐ終わる。
――でも、世界ってなんだろう?
クロハは右手で掴んだままの薄汚れた古文書に目を落とした。この塔にとっての世界はとっくの昔に終わってしまっているのかもしれない。三階より上を吹き飛ばされた時、自分の意味を知っていてくれる人々を失った時、紅に燃える樹々の中でたった一人になった時に。
――僕にとっての世界は、でも、きっとまだ終わっていないんだ。
こうやってシラツユと車に乗って世界を旅している間は、少なくとも世界は僕の周りに広がっている。人の数だけ世界がある。想いの数だけ世界がある。シラツユが居れば世界はある。
そして、クロハは二人をこの場所に導いた古文書をもう一度開いた。
『
まぁ、間違いはしたし、「きよらかな水」は見つけられなかったけれど、僕達はお陰でまた面白い場所に辿り着けた。人生は旅、間違うことも悪くはない、とクロハは思う。
開けたページの上、その大きな丸印の横の空白に、何かのメモが書きが添えられているのにクロハは気付いた。自分が書き留めておいたものだ。「何だったっけな? これ?」と首を捻る。しばらくして思い出し、クロハはポンっと手を打った。
古文書を解読しようと、この地方の古い書き文字を調べている間に、偶然、気になる文字列を見つけた。それをメモ書きしていたのだった。それは、シラツユの名前をこの地方の古い書き言葉で表した文字列だった。面白いことに、その二文字には「シラツユ」という音の響きを表すだけではなくて、それ以上の意味が与えられていた。
「シラツユ」を表すその二文字が意味していたのは、草花に宿る朝露、自然の葉の上で転がる、純粋で清らかな水だった。
クロハは視線を手元の書籍から上げて塔の中央へと動かす。その場所で、天空から降る光を浴びながら、シラツユは空を見上げて立っていた。まるで、地の上で水の空を見上げる精霊のように。
その姿を、クロハは眩しそうに、ただ見つめていた。
車の水でも飲み水でも無いけれど、この旅を通して自分が見つけたかったものは、ちゃんと見つけられたのかもしれないな、とクロハは思う。助手席に乗っていた君が、もう、僕にとってのこの旅の目的だったんだね。
――きよらかな水
クロハはそう考えると何だか可笑しくなってクックックと笑ってしまった。
その様子を、振り返ったシラツユが首を傾げて不思議そうに眺めていた。
世界がおわる前に、きみと辿りたい幾つかの場所 成井露丸 @tsuyumaru_n
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