陸上と哲学書



 ――月曜の昼休み。

 気づくと僕は、職員室へと足を運んでいた。

 涼の提案をそのまま飲んだようで、少々気に食わないけれど……。

 この際気にすまい。


「失礼します、3年1組の白谷 正人です。

 小林先生に用があってきました、失礼します」


 定型文を唱えて扉を開くと、案の定教師たちがそこで昼食をとっていた。

 談笑しながら、仕事をしながら、記事を読みながら、黙々と…….

 色々なことをしつつも、各々が好きなものを口に運んでいた。

 比較的穏やかな雰囲気で、授業をしている時とは違った顔つきも多く見受けられる。

 僕はそんな穏やかな雰囲気を壊さぬよう、そそくさと目的の先生がいる場所へと向かった。

 小林先生の机は職員室の隅っこの方にあるらしく、かなり見つけやすかった。

 でも言い換えれば、明らかに孤立していたのだった。


「……。」


 先生の机に来て、さて僕は何を言おうか。

 どう語りかけようかを、ずっと悩んでいた。

 けれど、机に突っ伏した姿勢を見せつけられた途端、それまで色々考えていた自分があほらしく思えてならなかった。

 なんだろう……この裏切られたような感覚は。


「……小林先生、少しお時間よろしいですか?」


 寝ているのだろうけれど、かまうまい。

 僕はそう語りかけた。


「……。」


 ――返事はない。


「あの……小林先生?」


 ――そして、返事はない。


「お忙しいところ申し訳ないのですけれど……」


 ――ついでに、返事はない。


 というか明らかに暇だ。


 これでは……、どうしようもない。

 こんなに語りかけて返事がないというのも、おかしな話だ。

 本当に寝ているのだろうか?

 ならよっぽど眠りが深いことになる。


「……あの」


「……。」


 もう一度語りかけるも、やはり返事はなかった。


 ――仕方ない、また来よう……。


 そう思って、踵を返して小林先生に背を向けた――その時。


 何故か、手をつかまれた。


「……えっ?」


 思わず、そんな間抜けな声が漏れる。


「……。」


 しかし、振り返っても先生は突っ伏したまま。

 まるで先生の腕が自らの意思を持って動いたような、そんな具合だ。


「先生、あの……」


 なにがなんだかわからない、そんな状態のまま1時間が過ぎた。

 ……実際は一分ほどだけど。


「――っ!」


 目下、先生は姿勢をガバッとおこした。

 そう思えば僕の両肩に両手をおき、開口一番。


「――君、早すぎるよ」


 などという、訳のわからないことを口にした。


「は、はぁ……?」


 そういって、僕は先生をまじまじと見た。

 先生は青いラインの入った、紺のジャージを身にまとっていた。

 黒漆で丁寧に塗ったような艶のある長めの髪に、細くもしっかりとした輪郭の眉。

 瞳は黒玉をそのままはめ込んだような呂色で、その奥は深淵をのぞいているような感覚に陥る。

 深淵に覗かれたような感覚とも言うかもしれない。

 その顔は、中性的な美しさといえばいいのだろうか?

 僕の想像していた、ムキムキマッチョなイケメンではなかった。


「……なんだい、その鉛玉を喰らった熊みたいな反応は?

 もっと他にないのかい?」


 熊でも死ぬと思った。


「……えっと。

 すいません……でした?」


 なんで僕は謝っているんだろう?

 何か悪いことをしたのだろうか?


「謝るときは、何が悪かったか具体的にいってみようか」


「あ、その…….

 先生のお昼寝を邪魔してしまって?」


 ……昼寝してて早すぎるってどういうことなのだろう?

 訳がわからない。


「ちがうな、そうじゃないよ。

 そこは、『先生の占いより2分早く来てしまい、申し訳ありませんでした』といって深く謝罪すべきところだよ」


「……いや、知りませんよそんなの」


 思わずいってしまった。

 もっと抑えようと思ったけれど、結果無理だった。

 でもこのくらい強気でもいいのかもしれない。

 なんせ僕が言おうとしているのは、『先生は人間を単純に捉えすぎなのではありませんか?』という抗議のようなもの。

 ここで慇懃な態度をとったところで、自分の意見がいいにくくなるだけだ。


「おっとっとっと? 知らなかったのかい?」


「あたりまえじゃないですか……。 そもそも僕は先生と初対面なんです」


「……ふむ、そうだね。この学校にきて、私もはじめて君を見たような気がするね。

 なら知らないのも、無理はないといえるのかもしれないね」


 言ってることが、完全に支離滅裂だ。

 話を切り出すタイミングがつかめない。


「いや、たいしたことじゃないんだ。ただ最近、占いなるものに興味が沸いてね。沸いてしまったといったほうがいいかな? まぁ、そんなところなのさ。

 そこで、書店で占いの本を買ってみたんだよ――これだね」


 と、聞いてもいないことを先生はぺらぺらと語りだした。

 ……本当に、話を切り出すタイミングを逃してしまったように思う。

 先生は一度かがんで、床においてあった黒いカバンから分厚い本を取り出した。

 見れば、『命卜相霊めいぼくそうれいの科学』と書かれていた。


「ところがこれ、占いを疑う類の本だったんだ。

 やはり本は、中身をみて選ぶべきだね。表紙がそれっぽかったから買ってしまったんだが、失敗だったよ」


 確かにそれっぽさはあふれてるけれど……これがいわゆるジャケット買いというやつだろうか?

 でもこんなジャンルのジャケット買いははじめて見た、と言うか聞いた。


「えっと……じゃあなんで、二分早いだなんて言ったんですか? 

 それは占いの本じゃなかったんでしょう?」


「そうだったんだよ、もう本当に残念だよ。

 だから、ただの気まぐれさ。 

 気の起こしたまぐれさ。

 他意はないよ。

 だから、私としては寛恕かんじょしてほしいところなんだけれど……」


「……適当ですね」


 僕は搾り出すように言った。

 これはどうやってもフォローが効かない。

 しかし、先生は笑って答えた。


「適当だよ、人間はそもそも適当さ。適当以外に表現の仕様が無いよ」


 ……これだ。

 僕が疑問に思ってること。

 一言で、人間という存在を括ってしまうところだ。


「人間は……適当ですか?」


「適当だよ。

 もし適当でないと言い張るなら、そいつは無駄な時間を一切合財捨ててから言うべきさ。

 もちろん、娯楽も待ち時間も何かの作業時間も。

 そして食べるにも、エネルギー効率のよいもののみを口にするべきだね。

 そうでもしなければ、適当じゃないなんて言い張る資格はないよ」


「極論というか暴論というか……いずれにしても、荒々しいですね」


「そう思うかもしれないね。でも考えてみてごらんよ。

 適当でない。つまり不適当というのは、適当でいる時間が存在しないということだ。

 適当でない時間というのは、空白がない。無駄な時間がないことと捉えていい。

 では無駄な時間とはなんだい? 簡単さ。 やっても意味の得られ無い時間ということだ。要するに、今みたいな時間だね」


 つらつらと、文字でも読み上げるみたいに。

 自問自答するように、先生は語り続けた。

 よくわからないけれど、その語りは川の流れのように自然と頭へと流れ込んでくる。

 そして滝つぼに落ちるみたいに、ストンと腑に落ちた。

 わかりやすいとは、まさにこういう感覚を言うのかもしれない。


「なら、やっても意味の無い時間は淘汰すべきだ。破壊するべきだ。殲滅するべきだ。

 そうだろう? だってそこまでしなければ、空白の時間ができてしまう。

 そんな時間がある人間を、果たして適当でない人物といえるのかな?」


「……かなり極端なのかもしれませんが。

 無駄な時間のある人間を、適当でないとはいえないかもしれませんね」


「だろう? 

 そうなんだよ、無駄を切り裂いて散らしてから適当な人間でないと、そういうべきだとおもうんだ。

 ……まぁ実は、そうまでしても適当な人間を脱却することは不可能なんだけれどね」


「そうなのですか?」


「あぁ。この、無駄を必死に無くしている人生が、死への遠回り。

 つまり無駄なんだからね。

 生きてる時点で無駄――適当なんだから、適当でないなんてありえないのさ」


 先生はそういうと、「ふふっ」と口を押さえて笑った。

 それは、とてもたのしそうな表情だった。

 僕が男じゃなかったら、惚れてしまうかもしれないほど魅力的な笑み。

 たしかに、顔もいいと言うのがよくわかる。


「でもまぁ、もっとも。

 そんな風に適当と言う言葉を捉える人間は、なかなかいないけどね。

 普通、適当な人間というのはロクデナシに使う言葉だ。

 こんなことをつらつら語ったところで、普通は理解してもらえないんだよ。残念ながらね。

 ……久しぶりだよ、君のような人間は。

 もしかすると君も、なのかもしれないね」


 こっち側の――人間。

 そう聞いたとき、僕の頭にはあの言葉が浮かんだ。


「こっち側というのは……つまり、新しい人間ニュータイプということでしょうか?」


 おそるおそる、僕はたずねる。

 先生は少しだけ悩むような表情を作って、一回うなずいた。


「そうだね、それは私が作った言葉だから、私の基準に依存してしまうのだけど……うん。

 君は素質はあると思うかな」


「素質……ですか」


「そうだね、あくまで素質。そこからどうなるかは、未来の君次第……とでもいっておこうか」


 先生は言うと、満足げな表情を僕に見せてくれた。

 ……もしかしたら、今が疑問を口にするチャンスなのかもしれない。


「あの、先生」


「ん、どうかしたのかい?」


「唐突な意見というか、疑問なんですけれど。

 ……先生は、ご自身のことを新しい人間ニュータイプだとおっしゃっていますよね?」


「うん。私は新しい人間ニュータイプだと、そう自負しているけれど。

 それがどうかしたのかい?」


「僕、人間はもっとこう……複雑で難解な存在だと思ってるんです。

 だから先生の話を聞いたとき、どうして人間のことをこうも一言で括れるのか。

 どうして自分を、そんな風に簡潔に言い表せるのかが疑問なんです」


「……なるほど。人間こそ複雑で難解で、度し難い数式のようなパズルであると。そうおもっているのかな?」


「そう……かもしれません。 先生は僕の言うことが手に取るようにわかるのかもしれませんが、僕には先生の言うことが抽象的にしか掴めていないので断言はできないんですけど……」


 理解できないわけじゃない。

 それこそ、解説はとてもよくわかりやすいと思った。

 でも、それだけじゃ足りない。

 僕が先生の意見に共感するには、まだ足りなかった。


「まぁ、そうだね。手に取るまではいかなくとも、触れる程度には把握しているつもりだからね」


 いって、先生は考えるような動作を取った。

 考えるような、あくまで『動作』。

 先生の唱える論を聞くに、まったく迷いというものが見当たらなかった。

 そうなると、本当にこれは悩んでいるのか怪しく思えてならない。


「――結論から言えば、私は単純だと思うけどね」


「そうですか?」


「あぁ。まぁ、私の考察にすぎないけれど。

 少し思い出してほしいのだけど、そうだな……小学二年生。そう、そのころの自分を思い返してみてほしんだ」


「小二……」


 記憶のアルバムを、試しにめくってみた。

 ――その頃の記憶はどうもハッキリしない。

 モノクロで、モザイクがかかっていた。

 休み時間でも教室に引きこもってばかりだったということくらいしか、浮かび上がってこない。

 友達も、友達といっていいのかよくわからないくらい薄いつながりで、何をして過ごしていたのかも見当がつかない。

 中学校にあがって初めて、友達という友達ができた。

 そう、涼だ。

 そこから僕のアルバムは、色づいている。

 だからそれ以前の僕はほとんど空っぽだったわけで、特に覚えていることなど無かった。


「……すいません。小学校のことは、ほとんど覚えていないんです」


 しかし先生は、「あぁ、そんなに難しく考えなくていいんだよ」と朗らかな表情で言った。


「九九を覚えたときのことを、思い出してみてくれ。

 当時、君はこの数式をみてどうおもったかな?」


 あぁ、なんだ。

 そういうことなら覚えている。

 覚えていなくとも、僕の考えることだ。

 それに幼いころの話となれば、なおさら想像するのは容易かった。


暗澹あんたんたる思い……といえばいいんですかね?

 足し算と引き算が、ようやくまともに解けるようになったと思うやいなや。

 今度は『何かを何回足した数』で、覚えなればならなくなったわけですからね。

 こんな複雑なものを81個も覚えるのは面倒だなって、あの頃はそう思いました」


 いうと先生は、少し驚いたような顔をして。

 そして、失笑――笑った。

 

「ぷっ……ふふふっ。暗澹たる思いって君……ふふふ」


 どうもつぼに入ってしまったらしく、面白そうに先生は口を押さえた。

 一通り笑い終えてから、僕のほうに向き直って言う。


「はぁ……ふふ。 小学二年生。

 悩みの無い、それこそ純粋無垢な少年が、さ。

 そんな現実リアルを口にするとはね、いやはや一本取られたよ」


 一本取るも何も、僕は本当のことを口にしたまでなのだけれど……。


 ……でもまぁ確かに。


 今思えば、そのころの僕は無愛想でかわいげのない小僧だったのかもしれない。

 思い当たる節が幾ばくか……いやかなりある。

 ここで先生は「さてと、閑話休題だね」といって、話の続きを話しはじめた。


「えーっとたしか……あぁ、九九の話だったね。

 そうだろうね、大半の子が九九を覚えるのは面倒だと思うはずさ。

 同時に、複雑だと思うだろうね。

 でも結局、それはイメージに過ぎないよ。

 九九の構造は結局、足し算なんだ。

 足し算が纏まって、複雑そうに見えていただけなんだよ」


「は、はぁ……。

 でもそれが、人間とどう関係あるんです?」


「つまり、だ」そういって先生は、僕の額に人差し指の先を当てて。


「今の君は、小学二年生ってことさ」


 といって、意地悪そうに笑った。


「僕が、小学二年生……?」


 なんだか少し、小馬鹿にされたような気がする。


「あぁ。君は人間の構造を覗くより早く、人間が複雑で難解で、度し難い数式のようなパズルだと。そう思い込んでるだけなのさ。

 私は君より少し人間を知っているから、人間は掛け算であるとわかる。

 掛け算である、と纏めることができるってわけ。

 だから君は人間を複雑に『思っている』けれど、私は道具のように扱えるほど単純なものだと『わかっている』。

 ……結局そういうことだよ。ただ君が知らないだけで、私は知っている。

 実際、人間の感情は喜怒哀楽の四つしかない。

 ゆえに、人間は単純。一言で括れてしまうほどに、簡単な存在ってわけさ」


 ……なんとなく、だけど大体話は理解した。

 そして同時に、先生の考えている片鱗くらいは齧ることが出来た――そんな気がする。

 そう。

 先生は――『わかっている』

 僕は――『思っている』

 それが、新しい人間か、ただの凡人かの違いなんじゃないだろうか?

 世にあるほとんどのことを、この先生は分かっているというわけだ。

 でも分かっているだけであり、それを必ず改善できるわけではない。

 理解するだけでは、何かを変えることはできない。

 だから先生は、完璧と名乗らない――と、そういうことなんだろう。


「……なんか、ずるいです。

 それってつまり、全部ですよね?

 全部『分かっている』……そういうことでしょう?

 そんなの、贅沢すぎますよ」


 僕が言うと、先生は悪そうな笑みを作った。


「そこは素直に嫉妬しました、というべきだよ。

 それに私は、これでも生粋の守銭奴でね。

 タダで自分のものにできるのなら、何もかもすべて手に入れなければ気がすまないのさ。

 知識はいくら持っても、タダだからね」


「それは守銭奴というより、強欲なだけだと思いますけれど……」


「ふふ、そうともいうかもしれないね」


 そもそも守銭奴が、分厚くて高そうな占いの本を買うとはとても思えない。

 と、そんな会話を交えたところで、先生は足を組んで僕に訊ねた。


「ところで君、


 その問いにハッとすると同時に、僕はギョッとした。

 確かに、もともと陸上の話をメインに先生と話すつもりだった。

 けれど、僕はその話のことを一言も口にしていない。


「ど、どうしてそのことを? いくら先生がさまざまなことを『分かっている』としても、何の脈絡も無い話があることがなぜ分かったんですか?」


「いや、別に難しいことじゃないよ」と、先生。


「君は人間がどうであるという前に、何かを解決したくて私のところに来たはずだろう?

 謎は解決しただろうけれど、謎は謎のままで困ることはない。しいて言うなら気になるくらいだ。でも違うだろう? 君は何か困っていることがあるから、わざわざ昼休みを使ってまで私のところに来たんじゃないかい?」


「……そのとおりです」


 こんなに鋭い洞察力を見せられると、もう恐ろしいとさえ思う。

 ここで、実は私は人の心が読めるんだ。とでも言ってくれたりしないだろうか?

 そっちの方が、むしろ安心するくらいだ。


「僕は陸上部に所属しているんですけれど、専門でやっている5000の伸びが悪くて……。まぁ、練習メニューは特別きついという訳でもないんですけど。

 それでも高校で一緒に陸上をはじめた友達に、追いつけないんです。

 その時、先生が中学時代16分の記録を持っていると聞いて……。

 どうにかしてそいつに勝ちたいんですけど、有効な練習方法とか教えていただけませんか?」


 ふむふむと、先生は深く二回頷いた。


「……なるほど、ね。

 負けず嫌いなんだな、君は。

 はははっ、ますます高校時代の私を見ているようだよ」


 楽しげに、先生は微笑のまま言った。


「それなら、君にいいことを教えてあげよう。

 知ることに損はないし、これでタイムが伸びないなんていうこともないはずだ」


「……本当ですか?」


 あまりにあっさりと言うものだから、少し疑るような口調で先生の表情を覗き込んだ。

 けれど、先生の表情に変化は無い。


「おいおいなんだい?

 せっかく人が教えてあげようって言うのに、そんな懐疑心を爆発させたような表情をするなよ少年」


「懐疑心が無いとはいいませんけど、爆発はしてないですよ」


 そもそも懐疑心が爆発するって、いったい何がどういう状態を言うんだ……?


「懐疑心が無いわけじゃないんだね……先生悲しいな、泣いちゃうよ」


「僕が幼稚園児にでも見えてるんですか?」


「いいや? 異性への興味が尽きない、健全な男子高校生にみえるね」


「ここにきて何を言い出すんですか……」


 ふふ、冗談だよ。 と笑う。

 そんな風に揶揄を唱えつつ、腕は机上の資料や本、ファイルを漁っていた。

 どうやら何かを探しているようだった。


「えーっと……、そうそうこれだこれだ」


 いって、先生は手に取ったものを僕に差し出した。


「ほら、これを読みたまえ少年」


「これは……なんです?」


 本だ。

 文庫ほどの大きさの、文庫ほどの厚さの本。

 そう、これは本だ。

 誰がどう見たって、本で間違いない。

 たとえば涼が見ても、先生が見ても。

 隣人の久那田くなださんが見ても、隣の席の紅黒之こうこくのさんが見ても。

 どう見ても、本である。

 まごうことなく本……なのだけれど――。



 さも当然のように、先生は言う。

 コンポタとサイダーの組み合わせがあったと思ったら、今度は哲学と陸上の組み合わせとでもいうのだろうか……?


「あの先生……」


「なんだい?」


「……先生って、コーンポタージュとサイダーの組み合わせ。

 どう思いますか?」


「なかなかいい組み合わせだね、ためしに飲んでみたいけれど……、急になんだい?」


 分かった。

 たぶんあの禍々しい飲料は、先生のような人間が作り出したものに違いない。

 確信した。 

 一方で、先生はただ訝しげな表情をしていた。


「どうかしたのかい?

 ゴキブリを噛んだような顔をしているけれど……。

 私、おかしなことでも言ったかい?」


 十分におかしかった。


「むしろ噛んだことあるんですか……?」


「ん? 人間は一生で、寝ている間に平均三匹のゴキブリを食」


「すいません、冗談です」


 なんだかとてつもなく嫌なことを聞いてしまったような気がする……最悪だ。


「ゴキブリを食べた食べないはともかく、冗談だよ。

 ゴキブリを噛んだことは無いさ」


「食べる話の方こそ、冗談といってほしかったんですけどね……。

 まぁ、いいです」


 これ以上話を掘り下げると、もっと聞きたくないことを聞かされそうだったから、ここで話を戻す。


「どうして哲学書なんです?

 陸上と哲学、何の関連性もなさそうですけれど……」


 たずねると先生は「ないね」と答えた。


「ないって……」


「うん。直接的な繋がりはない、けれど『それ自体』にはつながりがある……。

 まぁ、いいからいいから。

 ためしにひらいてごらんよ」


 言われるままに、僕はその哲学書を開いた。

 アイロニー、レゾンデートル、レトリック、生得観念せいとくかんねん、ルサンチマンその他諸々。

 うん、わけが分からない。

 三頁足らずで本を閉じた。

 まったくもって、わけが分からない。


「……意味が分からないですね」


「面白かったかい?」


「いいえ、まったく」


 はっきり言った。

 だけど、先生は僕のその反応を面白そうに眺めて


「そう、それだよ少年」


 と、いっては僕のことを指差した。


「……なにがです?」


 残念ながら、こんなつまらない反応しかできなかった。

 僕は役者向きな人間じゃなさそうだ。

 しかしそんな事などどうでも言いというように、先生は続けた。


「今の君は、私に『強制的に』読まされたんだ。

 だから、つまらない。

 しかしどうだい? 自分から読みたいと思ってこの本に手を伸ばしたとすれば、きっと君はこの本を読み終えるまではいかなくても、三頁以上は読もうと思うはずだ。

 興味関心――これほど成長に必要な調味料はないだろうね」


「えっと……つまりどういうことです?」


 それがどうした。

 辛辣な言い方に聞こえるけれど、それが僕の感想だった。

「つまりね」と、先生は笑った。

 今日一番の、とても面白そうな。

 眩しいくらいの無邪気な笑顔で。


「君は、友達に勝ちたいと思うあまり。

 己の興味関心を殺している、ということさ。

 勝ちたいという欲求に、『強制的に』走らされているに過ぎない。

 聞くけれど――今の君は、陸上を楽しいとおもってるかい?」


「……。」


 僕は答えられなかった。

 言われてみれば……そうだ。

 涼をライバル視するあまり、自分の走りたいという欲求をひたすらに殺し続けた。

 練習は、勝つためにある。

 確かに勝つための練習であることに変わりない。

 けれど、それがただの作業に成り下がっていた。

 やっていても、楽しくない。

 そう。

 本来なら、楽しくないと思った時点でやる意味など無い。

 誰かに勝つ、負ける。

 それは『楽しい』という枠組みの、たった一つの要素に過ぎなかったはずだ。

 しかし僕は、それを完全に見誤っていた。


「楽しくないだろうね、まったく。

 ただただ、つらい。

 それだけだ。

 今の君にあるのは」


 ――困惑。


 自分を見つめなおしてみれば、あるのは確かに――つらいという事実。

 押し殺した本音だった。

 それ以外、僕には無い――空っぽだった


「……そう、ですね。

 今の僕には、それしかない……。

 なら……なら、僕はどうしたらいいんですか?

 このままやめろ、と。

 そう、おっしゃるんですか?」


 声が上ずる。

 しかし、対する先生の声は穏やかだった。


「そんなことはない。

 むしろ諦めることこそ、愚かしい行為だと思いたまえ。

 ……それに、楽しめばいいじゃないか。

 楽しくないなら、楽しいと思えばいい。

 とどのつまり、楽しいと思うには楽しいと思うしかないさ」


「……そう簡単に、思えるでしょうか?」


 ――無理だ。

 先生はそういうけれど、楽しくないことを楽しいと思うなんて――かんがえただけでも気持ち悪い。


「無理だね。それを簡単だと思う人間なんているものか」


「じゃあ、どうしろと?」


 荒んだ心情を、そのままぶつける。

 けれど、それでも先生は穏やかだった。

 熱くなることなく、平静を保っている。


「出来ないことじゃないのさ。

 簡単じゃないけれど、やろうと思えばできることなんだよ」


「……すいません。思わず熱くなっちゃいました。

 でも……。

 でも、どうしても自信というものが無くて……」


「いいさ、若いうちは熱いくらいがちょうどいい。

 それに、自信だって? そんなものいらないよ。

 世の中は、すべて瞬間瞬間でできてるんだ。

 目の前のことを悩んで、悩んで、悩んで悩んで選択するだけでいいんだ。

 そんなもの、あったって気休めでしかない」


 どちらにせよ、

 そう言われている気がした。

 おもわず、世の中の無情を恨みそうになる。

 でもすぐに、それは見当違いだと気づいた。

 世の中は――掛け算。

 偶然なんてない、そうなるだけの数があったからそうなった。

 そうなるだけの数を掛け合わせたから、そうなった。

 世界はただ従順に、正直に或るだけなのだ。

 それを恨むというのは、ただの八つ当たり以外の何物でもない。

 逆恨みするくらいなら違う数を探すべきだと、そう思った。


 ――思うことができた。


「大丈夫だ、君ならやれる。

 なんせ君は、なんだからね」


 妙に落ち着く、そんな表情がそこにはあった。

 ……そこまで言われてしまったら、動かないわけにはいかない。

 それになんだか、肩に入った無駄な力がスッと削げ落ちたような気分だった。


「分かりました。悩むだけ悩んで、やるだけやってみます」


 いうと、「その意気込みだ」という言葉と微笑みが返ってきた。

 ちょうど、休み時間の終わりを告げるチャイムが校内に響く。

 同時に、職員室が忙しい雰囲気に包まれた。


「さて、そろそろ授業だ。

 君も急いだほうがいいだろうね」


「そうですね。

 あの、ありがとうございました。

 先生に相談してよかったです」


「あぁ。別にかまわないさ」


 言って、満足そうに冷めたコーヒーを飲み干す先生。

 そして付け足す様に、言った。


「……どうせ君は、この先悩まなければならないよ。

 もう悩んで悩んで悩んでも足りないくらい、悩まなければならない。

 ならいっそ、楽しんで悩んだ方がいいだろう? 

 苦しんで悩むより、楽しく悩んだほうが遥かにいい。

 苦悩より楽悩だよ、少年」


「楽悩――面白い言葉ですね、参考にさせてもらいます。

 じゃあ、また」


「あぁ、次の授業もがんばれよ」


 そんな言葉を受け取って、僕は教室へ向かった。

 階段を踏む足が、妙に軽く感じる。

 なんとか階段を上り終えて、教室へ入ろうとした時。

 ふと、手にしていたものに気づいた。


「……あ」


 哲学書。

 そういえば、返し忘れていた。


「ま、いいか。

 あとで返しにいけばいいし」


 なぜか、どうしてだか分からないけれど。

 後で返しに行くことがたまらなく楽しみに感じられた。

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