16分のきっかけ
「――ってお前、そっちは160円じゃねぇか」
「そうだけど?」
「いつもは100円の、やっすい500の缶だろ?
何で今日に限って60円も高い、ペットボトルのサイダーなんだよ」
「なら値段の設定までしっかりしとくんだったな、愚か者め」
「……ちっくしょう、少しは遠慮というものを知れ」
並木と道草の茂る歩道に、ポツリと設置された自動販売機前。
微かな風に揺れる木漏れ日の下で、僕はすこしだけ勝ったような気分に浸っていた。
「僕の辞書に、そんな言葉はないんだなそれが」
使いまわされたそんなフレーズを唱えながら、避暑するべく近くにあった公園の東屋に逃げ込んだ。
「なら辞書で引いとけ、語彙力皆無か」
いいつつ、自販機から取り出したペットボトルを放ってくる涼。
緩やかな弧を描いて飛んでくるそれを、僕はうまい具合にキャッチする。
「皆無なんだろ、じゃあ」
適当にそう返してから東屋のベンチに腰掛けると、蓋をひねった。
プシュッ! と小気味のいい音がして、水泡がペットボトルの壁にいくつも浮かぶ。
「――んで、そっちは何買ったんだ?」
口をつける前、視線と質問を一緒に涼へ投げかける。
「ん、これか? 『夏を乗り切れ! ひんやりコーンポタージュソーダ!』だとよ」
とんでもねぇもんに口をつけようとしていた。
「い、いやまてそれ。
おかしいだろ……、なんでコーンポタージュとソーダ掛け合わせちゃったんだよ。
というかお前もなんでそんなもん買ってんだよ……魔でも差したか?」
ほほが引きつるのが自分でも解る。
しかし涼はにやりと口の端をつりあげて、楽しそうに答えた。
「探究心。 これ、何か食ったり飲んだりする時の最っ高のスパイスだと思うんだわ俺。
カップラーメンも場所と器を変えれば、おいしく感じるみたいな?
だからこれも、そういう原理でうまく感じるんじゃね的な名推理」
……こいつの中ではそういうことになってるらしい。
僕には全く持って理解不能だが……。
というか名推理の意味こそ辞書で引けよ。
「別にどうでもいいけどさ……。
それより、なんでそんなもん作ろうと思ったんだろ?
どんな思考回路してたら、コンポタとソーダを掛け合わすって結論に至るんだ?」
「さぁーな、少なくとも俺のしったことじゃねぇのはたしかだけど。
……んでも、ま。
俺らとは根底にあるもんが違うんだろ、こういうこと考える人間ってのは」
「わかんねぇな……。
おんなじ種族だろ?
一応僕たち皆、平和平等同等のホモ・サピエンスなんだぜ?
なのに発想がこうも違うと、根底云々の話じゃ纏まらないと思うけどな」
そういうと、口をつけようとしていたおぞましい飲料の縁から顔を離し、涼は笑みを浮かべた。
「それあれじゃん。
「
首をかしげて見せると、涼は眉間に皺を寄せて顔をしかめた。
「あれだあれ、えーっとほら。
新しくきた教育実習生の……俺らの学年で噂になってるだろ?」
「もしかして小林先生のことか?」
「そう! 小林だ小林!」
先生をつけろよ、といいながら僕は思い出した。
最近うちの学校へ来た、教育実習生だ。
なんでも、すべて完璧にこなす人らしい。
数学に国語、英語。
科学と物理、そして地理日本史世界史……。
その他もろもろ、何を解説させても解りやすいという話だ。
おかげでうちの教師達は、小林先生にはどうとも言えないらしい。
「何でもできるんだっけか、その小林先生は?」
涼はうなずく。
「あぁ。何でもできる万能人間。
運動もできるし、高校時代はバスケでインターハイだとよ。
顔もいいらしいぜ?
全く、羨ましい話だよな」
「んー、その噂ならそこそこ耳にしてるけどさ。
その……新しい人間、と小林先生がどう関係あるんだ?
小林先生みたいな人を、新しい人間だっていうのかよ?
ならそれ。
新しいというより、完璧な人間といった方があってるんじゃないか?」
しかし涼は「そうなんだけどな……」といってから、首を左右に振った。
「その新しい人間ってのは、本人が言ってることなんだよ」
「小林先生が?」
「そ。教室に入って開口一番。
『私は
ほぼ完璧であって、完璧じゃないとかなんとか。
んなこまけぇこと、どうでもいいと思うけどな。
本人は完璧じゃなくて、新しい人間だって言ってるんだとよ」
……かなり変な人だった。
「それ、ただの変人じゃねぇか……」
「だから文字通り、裏で変人呼ばわりされてるんだよ。
おまえ、それは知らないんだな」
言って、涼はくつくつと笑った。
馬鹿にされた気分だ。
「うるせぇな、別に興味なかっただけだっての。
でも……
「ま、別に知ったこっちゃねぇんだがな」
僕は、ここにきて初めてサイダーに口をつけた。
冷たく甘い液体が、口内で泡とともにはじけて心地よい。
やはりいつもの安い缶とは違って、ベタな甘さとは一線を画していた。
純粋においしいと感じる。
「……うまいなこれ、やっぱ60円ってすごいな」
「何語ってんだよ。
60円の味の違いを語る男子高校生って、かなりシュールな絵面だぜ?」
「そうかもしれねぇな」
そういって、僕と涼は笑った。
その後なんだかんだで30分くらい話していたような気がする。
いづれにしても、他愛の無い。
意味も理由も無い。
生産性も無い、全く持ってくだらない話だったけれど、僕はそれがすごく楽しかった。
やがて天道は真上を少し通り過ぎ、腹の虫の機嫌もだんだんと傾く午前一時頃。
飲み干したペットボトルを手に、立ち上がった。
「――それじゃあ、そろそろいこうか?」
「そーだな。……もう絶対買わねぇこれ」
僕の提案に賛同しつつ、涼は苦い顔をして恨めしそうにコンポタソーダを指差した。
やっぱり、世界にバグは無いらしい。
「んじゃほら、ペットボトルよこせよ。
もう空だろ、それ? 捨てとく」
「ん、じゃあ頼む」
ペットボトルを渡すと、涼はニッと白い歯を見せて笑った。
「んじゃ、先に準備しててくれ」
「おう」
短く答えて、自転車の鍵をポケットから取り出す。
そして鍵穴に挿し込んで、鍵を開けた。
「それにしても……か」
自転車にまたがりつつ、小林先生の話を僕は思い返していた。
――
涼と話した小林先生の話が、妙に自分の中で引っかかっていた。
いったい何を根拠に、先生は自分が何であるかを言い切れるのだろう?
人間というのは、もっとこう……複雑なものだと僕は思う。
さまざまで、多種多様に、雑駁した判然としない何か。
混濁させた多色のペンキを、白いカンバスにぶちまけてできる模様のように複雑で、偶発的で、突発的な存在。
それを、新しい人間という言葉一つにまとめていいのだろうか?
自分というものが、一言で括れてしまっていいのだろうか?
そんな疑問が、いくつもいくつも脳裏に煌く。
「待たせたーぁぁあ、ってどうした? すげー難しそうな顔してるぞ?」
帰ってきた涼は、自転車にまたがる僕の顔を覗き込むなりそういった。
「あ。んー、まぁ……なんていうか、さ」
「なんだよ、まどろっこしいやつだな。はっきりしろって」
「……じゃあ、涼。
お前、人間って何だと思う?」
唐突な問いに、涼は驚いたような表情を顔に貼り付けた。
「に、人間?」
「そう、人間。
小林先生は、自分のことを新しい人間っていってるんだろ?
でも人間って、本当にそんな単純な生き物なのかなって。
もっと複雑で、難解な存在なんじゃないかと思うんだよ――お前はこれ、どう思う?」
そうたづねると、涼は「うーん」と顎に手を当てて考えるしぐさをとった。
そして一言。
「知らん」
と、きっぱりと切り捨てるように答えた。
「いや、しらん……ってお前さ」
「しらねぇもんはしらねぇよ。
人間がなんであるかって、そりゃ人間だろうが。
それ以上も以下も未満もねぇよ。
人間って言葉が、その全て内包してんだから。
何でせっかく括ったもんをいちいち紐解こうとするのかね、俺はさっぱりだ」
「むぅ……」
大雑把だが、たしかに芯の通った意見だと思った。
複雑で難解だから、人間という『言葉』を人間という『存在』に与える。
そう考えれば、一言で括ることもたしかに容易い。
「でもそれって、ある種の造語だよな?
勝手に名前をつけたって言うのと何ら変わらないと思うんだけど?」
「そーかもな、俺はどーでもいいけど。
……そうだ。不服ってんなら、聞けばいいじゃねぇか」
「……は? 誰に何を聞くんだ?」
涼は少しあきれたような表情を作った。
「んなもん、決まってんだろ」
「……?」
無言で首をかしげると、今度こそ大きなため息をついて涼はいった。
「新しい人間だよ。
本人の小林に聞くのが、一番手っ取り早いだろ?
それに陸上も中学時代やってたって噂だぜ。
今のお前に、ちょうどいい相談相手なんじゃねぇか」
「は、はぁっ?」
思わず英語のWhat? のような発音になってしまった。
たしかに文脈から考えても、新しい人間である小林先生しか聞く相手などいない。
けれどさきの僕には、先生と会話するという選択自体がなかったのだ。
驚かない方が、むしろ変だと思う。
「いや、無理無理。
話すどころか、面識すらねぇんだぞ?
なのに突然、『先生は、人間をどう思いますか?』なんて聞けるわけないだろ。
それこそ変人の類じゃねぇか」
しかし、涼は調子を崩すことなく言った。
「んなことは百も承知だ。
確かに面識のない人間に、そんな哲学めいたことをたずねるのは変人か奇人か変態のどれかだろうよ」
……それって遠まわしに、僕を変人か奇人か変態のどれかだって言ってないか?
「でもよ。
小林は人間であると同時に、教師として俺らの学校に来てるわけだろ?
生徒の疑問に答えない教師なんて、教師であって教師じゃねぇよ」
「そ、そりゃそうだけど……。
でももしそうだったとしても、先生は中学時代に陸上をやってたんだろ?
そして僕は今、高校生だ。
なのに、中学時代の経験しかない先生から得られるものなんてあるか?」
「その点なら心配いらねぇ」
そういって涼は、いたづらをした子供のような顔をした。
「なんせ中学時代。
小林の5000のタイムは16分。
今高三の俺らより、ぜんぜん速ぇんだよこれが」
――16分。
思えば、その言葉だった。
僕が先生と話したいと、そう思ったきっかけは。
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