陸上と哲学書

チョコレートマカロン

赤い地面と青いスクイズボトル

 

「68……69……70……71……」


 遠くの方――20m前方から、数字を読む声がする。

 耳元をかすめる風の中でも、声の輪郭だけはハッキリしていた。

 集中しているから……だろうか?

 いまいちよく分からない。

 どんどん迫るゴールラインを間近に、力を振り絞る。

 鉛のようなふくらはぎと太ももを無理やりひきつけ、地面を捉える。

 そのたびに身体は重くなるが、構わない。構っていられない。

 重力が倍になったような錯覚を得ながらも、腕を振った。

 食いしばった歯の隙間から呼吸するのは苦しくて、辛い。

 それでもひたすらに、僕は赤い地面を踏みしめる。


「くっ……、はぁっ……はぁっ……」


 見ているものの輪郭がずれて、視界がはっきりしない。朦朧とする。

 酸素が足りなくて、頭の雑念が消える。何も考えられなくなる。

 ただただ機械的に、無意識に。

 僕は足を繰り出し続けた。

 

――そして。


「……72……73……74……75」


 やけに長かった、赤いラスト20mを駆け抜けた。

 緊張が解けるのと同時に、崩れるように倒れ込む。

 タータントラックの凹凸に入り込んだ砂が、汗で湿った肌にびっしりと張り付いた。


「はぁっ、はぁっ――く、そ……」


 思わず、握った拳で地面を叩いた。


 ――75秒。


 400mのインターバル走、10本目のタイム。

 確かに前半はペースをあげていたけれど……。

 だとしても、そうだったとしても――遅すぎる。


「――ちく……しょう」


 悔しさのような、惨めさのような……。

 そんないろいろなものが混じり合った苦い何かを噛みしめては、仰向けに寝っ転がる。

 目下、眩しい日差しが瞳孔に刺さって、思わず目を細めた。

 空は透き通った海のように、ひたすらに蒼い。

 そんな天空を漂う雲は、泳ぎ回る魚を連想させる。

 ……いや。

 あんなに太った海水魚は見たことないから、さしずめ水槽の金魚と言ったところだろうか?

 そう思うと、一気に貧乏臭くなる。

 もっとも、普通金魚は白くないんだけれども……。

 そんなくだらないことを考えながら、僕は右腕で両目を覆った。


「――おーい、生きてるかー?

 それとも、死んでるかー?」


 視界が腕で遮られて間もなく、ゆったりとした足音と共にそんな声が耳に入った。

 深呼吸してから、僕は答える。


「……生きてる、勝手に殺すな」


「おー、そりゃ良かった良かった」


「……何も良くねぇよ

 それより、さっきの。

 何秒だったんだ?」


「安心しろ、65だ」


 チッ――舌打ち。


 ……違う、僕じゃない。

 口が勝手に、だ。


「くたばれ」


 ……これも口が勝手に動いただけで、僕が言ったんじゃない。


「お褒めに預かり光栄です、ってな」


 しかし薄闇の中の相手は、そんな皮肉にも笑って答える。

 僕は言った。


「……なぁ、涼。

 お前家帰ってから、どんだけ自主練してんの?」


 僕のそんな問いに、薄闇の中の相手――涼は答える。


「いや、走ってないぞ?

 家に帰ったら、飯と風呂とトイレ以外はベットの上だ」


「はぁ? そんなわけないだろ。

 俺とお前。

 高校入ってから陸上始めて、はじめこそ同じタイムだったのに。

 どーしてこんな差が生まれるんだよ、おかしいだろうが」


「って言われてもなぁ……。

 気合、根性、ど根性――てな感じで、残念ながら根性論しか唱えられん」


「……お前、熱血系だったっけ?」


「いや、怠惰系」


 そんなの聞いたことねぇよ。


「まぁ、とにかくだ。

 さっさと飲めよ、水。

 このままだと、本当に死ぬぞー」


「あーくそ。わーったよ、もう……って冷た!」


 ガバッと起き上がって、冷感を覚えた腹に視線を落とす。

 ぺったりと肌に張りつく、ビシャビシャに濡れたランニングシャツがそこにはあった。

 急いで涼の方を見ると、水色のスクイズボトルが手元に収まっている。

 きっと、あれで水を掛けたに違いない。

 あのにやけ面が、何よりの証拠である。


「おーまーえーなー!」


「そう怒んなよ、水分補給を手伝ってやろうとしただけだって」


 笑いながら言う涼。

 これは報復制裁を行うべき、最も正当な理由が出来たと歓喜すべきだろう。

 胸のうちでほくそ笑んで、僕はとっさにヤツのスクイズボトルを奪った。

 そして蓋を外し、ヤツの足りない頭にぶっかける。


 ――そんなふうにできればよかったのだけれど、残念ながら走った疲労のせいでそうもいかない。


「……腹から水分補給ができるわけねぇだろ」


 しかたなく、そう返した。

 くそぅ。二重で負けたみたいで、むかっ腹が立つ。

 涼は一通り笑ってから、「ほら」といってスクイズボトルを差し出した。

 それを奪い取るようにして、僕は気持ち悪い口腔へと水を注ぎ込む。


「だから睨むなって、あとでジュース買ってやっからよ。許せ相棒」


「わかった」


「……。」


「……なんだよ?」


「……いや、そういうところは素直だなって。お前」


 当たり前だ。

 部活帰り、ただで飲める炭酸飲料。

 これより美味いものがあってたまるか。

 と、涼はまぁいいやといってから立ちあがり、こちらに背を向けた。


「んじゃ、先に着替えてるからな。

 早く来いよー?

 遅かったらダウン、おいてくからなー」


「あー、あいよ」


 遠のく涼の背に、そんなだらしない返事をぶつけた。


「――余裕そうだよな……あいつ」


 なんとなくそう呟いて、僕はトラックの方に視線を走らせた。

 土曜というだけあって、競技場に来ている中学校や高校は多い。

 中には小学校と思しき人影もチラホラと見受けられた。

 そんな光景を眺めていると、僕はこの中で何番目なのだろうか? という疑問がふと浮かぶ。

 何番目に足が速いのだろうか……と。

 こんな狭い中で自分の順位を考える、そんなの意味のないことのように思う。

 当たり前だが、大会はもっと人が多い。

 次に控えた大会の5000mは、一発決勝。

 人数は40人ほどのときもあって、そんなときのスタートラインは隣の選手と肩がつきそうなほど隣接している。

 雷管が鳴った途端に足を踏まれて転ぶなんてザラだし、走っている最中でも激しい場所取り合戦だ。

 そんな人数の中で闘うのだから、この狭い枠の中で自分の順位を気にしても何にだってならない。

 そうわかってる、理解している。

 ……それでも、知りたいと思ってしまう。

 そしてその理由だって、僕はとっくに導き出していた。


 僕には――自信というものがない。


 自分の走りというものが、難解なパズルのように複雑に見える。

 もちろん。やっていることは、「走る」という作業にすぎない。

 バスケやサッカー、野球やテニス。

 それらのスポーツに比べれば何のひねりも無いし、テクニックだってあまり必要とはいえない。

 選択や抜け道のない、ただ一本の道――迷うことなんてありえない。

 本当に純粋な、体力勝負だ。

 でもそのシンプルさが、反って難解に僕の目には映っていた。

 一本道のはずなのに、全く違う目的地へとつながっているように感じ、どうしようもない無力感だけが波のように押し寄せる。

 そのせいか、最近はずっと最下位にならないことばかり考えていた。

 どう考えようがどう思おうが、結局たどり着くのは走り続けられるだけの体力があるかどうかという、単純な回答。

 そう思えば、次の大会で最下位になるなど杞憂でしかないと解っている。

 解っているのだ。

 なのに、暗闇に抱くような根拠の無い恐怖が。

 僕の中で、不気味に蠢き続けている。


「……まぁ。

 今気にしてもしょうがないんだけど……な」


 しかし今は、急がないと涼に置いて行かれてしまう。

 ネガティヴな人間は動物的に優れているという話を本で読んだことがあったけれど、自分の首を締め上げる事がいいこととは言えないだろう――少し反省した。

 ゆっくり立ち上がると、ある程度の疲労感はあれど暴れていた心臓は落ち着きを取り戻していた。

 更衣室に歩みを向けて、持っていたボトルの水をできるだけ勢いよく口内へ注ぎ込む。


 ――やなことは呑んで忘れる。


 言いながら酒を呷る父親のいうことが、すこしだけわかった気がした。

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