第8話 楽しいに勝敗はない

 結局、熱くなった二人を止めることはできず、来週の土曜日と日曜日の二日間をかけてデート勝負を行うことになった。

 もっとも、勝敗を決めるのは僕だから上森先輩が勝利することは絶対にない。すでに景先輩の勝利が決まった出来レースだ。

 またしても女装して出掛けるのは苦痛だが、今日の合コンで解決の糸口が見つからなかったからには仕方がない。景先輩に何か良い案があるのかもしれないので、僕はこのデート勝負を承諾した。

 ただし、上森先輩と二人きりになるのは不安なので、一つ条件を出した。

「デ、デートは四人で行きましょう。今度は小乗先輩を誘って、四人で」

 上森先輩は渋い顔をして、苦笑混じりに言う。

「おいおい、ひかるちゃんよ。それはデートと言えるのか? せめてもう一人が女子ならダブルデートが成り立つが、男が二人も付いてきたら雰囲気ぶち壊しだろう?」

 もっともな意見だ。しかし、それを景先輩が制してくれる。

「待った、それは決め付けだよ。デートに付き添いがいてはいけないという規則なんてどこにもないはずだ。ひかるさんが安心して楽しむためにも条件を受け入れるべきじゃないかな?」

「む……」

 もっともな意見に上森先輩は口ごもる。

 哲学者ならではの素晴らしい援護だ。

 僕は、ここぞとばかりに奥の手を使って畳み掛ける。

「先輩、お願いします。わたし、男の人とデートするのは初めてだから不安なんです」

 両手を胸の前で組み、すがり付くように懇願する。以前、小乗先輩に言われて使った必殺技だ。

「ぐ……」

 さすがの上森先輩も、これには怯んでくれた。

「ひかるちゃんがそこまで言うなら仕方ねえな。だが、付き添いの人間にあれこれ口出しされちゃデートにならねえ。付いてくるのはいいが、一歩引いた位置から見守るだけにしてくれ。もちろん、景の番の時は俺もそうする。それでどうだ?」

 よかった。いや、よくはないが、なんとか最低限の条件だけは呑んでもらうことができた。

「そ、それでお願いします」

「俺もそれでいいよ」

 僕に続いて景先輩が承諾する。

 あとは小乗先輩だが、その場で電話して聞いてみたところ、二日間とも来てくれるとのことだ。いきなり巻き込んですみません。でも、僕がこうなった原因の一人ということで納得してください。

 


 さて、ずいぶんと複雑な状況になってしまったので、まずは話を整理してみよう。

 現在、僕は上森先輩から恋愛の攻略対象とされてしまっている。正確には女装した僕であって同性愛とは違うらしいのだが、その辺の事情は未だに理解できない。できても男の人とお付き合いするつもりはない。

 だからといって、キッパリお断りできないのが苦しいところだ。僕が引き付けておかなければ、上森先輩が手当たり次第女の子を口説くチャラ男に戻ってしまう可能性が高いからだ。そうなると、せっかく実現した女子部との交流が再び断絶してしまう。

 上手く立ち回って付かず離れずの均衡を保つことができれば良いのだが、人付き合いの苦手な僕にそんな器用なことはできない。下手をするとズルズル流されて、いつの間にか付き合っていたなんて事態になりかねない。

 そこで熊楠先輩に協力してもらって上森先輩を他の女装男子とくっつける計画を実行したものの、あえなく失敗。

 直後、景先輩がデート勝負を申し込んだわけだが――

『ごめん、あたしバカだった。この勝負、勝っても何の問題解決にもならないわ』

 合コンから帰ってすぐ、謝罪の電話がかかってきた。

 そのことには僕もついさっき気付いた。熊楠先輩を勝たせれば、上森先輩とのお付き合いを断るのと同じになる。そうなれば僕が上森先輩を引き付けておくことができなくなるから、状況が振り出しに戻るだけだ。

 だが、過ぎたことを言っても仕方がない。

「気にしないでください。とりあえず、また時間稼ぎができただけでも良しとしましょう。次の土日まで抜け駆けは一切なしという約束ですから、明日から五日間は平穏に過ごせます。その間に別の解決策を考えましょう」

『そうだね。でも、どうする? また今井ちゃんに相談してみる?』

「いえ、あの人に相談すると、また別の問題が発生するからやめた方がいいと思います」

 今井さんの助言は効果てきめんだったが、僕自らが生け贄になるという代償を負ってしまった。同じ過ちを繰り返すわけにはいかない。

『かといって、本居先輩も小乗もこの件じゃイマイチ頼りにならないし、こうなったらもう惺香に打ち明けて相談するしかないかなぁ。ねえ、どう思う? やっぱり、秘密を知る人が増えるのは不安?』

「そうですね……。でも、水澄さんとのこともありますから、今回が最後ということで」

『つまり次のデート勝負が終わるまでに解決できなかったら惺香に相談していいってこと?』

「はい。その時はお願いします」

 熊楠先輩は軽く息をついてから、静かに言う。

『分かった。じゃあ、当日まで作戦を考えておくから、鹿内君も何か思い付いたらすぐ報告してね』



 翌週。

 デート勝負の日までは安全ということで、上森先輩の待ち伏せ対策は解除。ひとまずは平穏に過ごせる五日間が訪れる。

 部活の時に女装する約束は変わらないものの、セクハラ紛いの行為や告白めいた言動はなく、空気がギスギスすることもなかった。

 出席率もいつもとだいたい同じで、上森先輩は五日中三日出席。熊楠先輩は二日出席して、あとは女子部の方に参加した。

 その間、上森先輩の攻略を諦めさせる且つ元のチャラ男に戻さない方法を、時間の許す限り考えた。上森先輩が部活を欠席の日には、皆で議論もした。本居先輩にも相談して考えてもらった。

 しかし、決定的な方法は見つからないまま、デート勝負の初日を迎えることになる。



 その日は朝から小雨が降っており、空気がじめっとしていた。暑さはそれほどでもないが、寝汗でシャツが湿って気持ち悪い。普段なら乾くまで放っておくか着替えて済ませるところだが、今日は仮にもデートということで、サッとシャワーを浴びて憂鬱な気分と共に汗を洗い流した。

 母が珍しがってあれこれ聞いてくる。

 休日は家で過ごすことが多かった僕が、最近は毎週のように出掛けて行くのだから気になるのも無理はない。うちは親子関係が良好なので、そのくらい鬱陶しいとは思わないが、まさか女装して男の先輩とデートしてくるとは言えない。

 親になんと言って出掛けるか。

 これもまた小さくない悩み事の一つだ。あからさまな嘘は付けないので、部活の先輩たちと会うとは言っているが、それだけでは休みの度に遊びに連れ回されているみたいでイメージが悪い。だから勉強会とか課外活動とか言って、なんとかごまかしているのが現状だ。早く上森先輩の件を解決して、出掛ける頻度を下げなければ。

 今井さんに頼んで洗濯してもらった女の子の服を鞄に詰め込むと、静かに部屋を出て玄関へと向かう。鞄の中身までいちいち詮索されることはないと思うけど、こんな物を手にした状態で親と顔を合わせるのは非常に気まずい。もう高校生なのだから、あらかじめ行き先と帰る時間を言ってあれば黙って出ていっても問題ないだろう。

 まだ小雨が続いていたので、傘を手に徒歩でバス停に向かう。バスでショッピングモールまで行ったら、また例の如く緑地公園の多目的トイレで着替えを済ませ、隣接する駅で小乗先輩・景先輩と合流。その後、先週も行った総合駅で上森先輩と合流し、そこからまた電車で数駅ほどの目的地へ。

 今日は上森先輩がプラネタリウムに連れていってくれるらしい。騒がしいところが苦手な僕の性格や当日の天候、自宅からの距離など考え抜かれた選択だ。プラネタリウムには以前から興味があったので、望まないデートとはいえ、ちょっと楽しみだったりする。

 予約した上映時間は午後からということで、まずはデパートで軽くウィンドウショッピングをした後、イタリアンレストランで昼食をとる。ファミレスほど安っぽくはないが高級レストランというほどでもない、高校生が少し背伸びしたくらいのお店だった。

 混雑を避けるため十一時半に入ったので、落ち着いて食事をすることができた。

いろいろと気遣いが細かい。

 会話もけっこう弾んだ。最初は世間話から入り、それから思い出話や読んでいる漫画の話など、僕が興味を示しそうな話を積極的に振ってくれる。不用意に距離を詰めてきたり、口説き文句のようなことを言ってきたりはしない。普通に気の利く先輩とおとなしい後輩の会話だ。

 おかげで、だんだん気が楽になってきた。

 小乗先輩と景先輩は約束通り付いてくるだけで口出しは一切してこない。レストランの席も別々だった。それでも、ちゃんと近くにいてくれるから安心だ。

 客観的に見れば、もはやデートかどうかも怪しいところだろうが、それを言うなら楽しくないデートだってデートとは言えない。世間一般の基準がどうであれ、僕にはこれくらい緩いのがちょうどいい。

 きっと上森先輩にもそれが分かっているのだ。

 後輩の僕が言うのも変だけど、すごい進歩だ。この短期間で僕の性格をどんどん把握し、僕に合わせた行動をするようになっている。ほんの数週間前まで自分本位な人だと思っていたのに。これが本気になった上森先輩の人間力ということか。

 さて、次は本日のメインイベントであるプラネタリウムだ。



 駅を出てすぐのところに、直径二○メートルはあろうかという巨大な銀色の半球が地面に埋め込まれていた。まるで、そこだけSF世界と入れ替わっているかのような未来的な外観だ。

 中はどうなっているのだろう?

 テレビやポスターで建物自体は何度も目にしていたが、入場するのは初めてだ。建物が近づくにつれて気分が高揚してくる。

 雨が降ったり止んだりの天候とはいえ、休日だけあってチケット売り場にはちょっとした行列ができていた。見たところ若いカップルが一番多い。次に子連れの夫婦や友達同士といった感じか。一人で来るには勇気がいりそうな雰囲気だ。

 上森先輩が四人分のチケットをあらかじめ購入しておいてくれたおかげで、列の並ぶことなくすんなり施設に入場。入場口で注意事項が書かれたパンフレットを渡されたので、まずは目を通す。

 どうやら、マナーが悪いと退席させられるらしい。具体的には『飲食すること』『声を出すこと』『光や音を発すること』が禁止されている。特別な理由なしに途中退場はできないようなので、なるべく着席の前にお手洗いを済ませておくよう書いてある。

 上森先輩と小乗先輩はそれに従ってお手洗いに行くが、僕と景先輩はそういうわけにもいかない。女装姿で男性側に入るのはまずいし、女性側に入るのはもっとまずい。男装の場合も同じ。基本どちらにも入れない。

 もちろん、上森先輩がそれに気付かないはずもなく、男女共用のお手洗いがある場所を調べておいてくれた。よって僕は入場前に済ませてある。また、水分摂取を控えたり身体を冷やさないようにするなど、自分なりの対策もしている。

 景先輩もこっそり男女共用を使うなどして、どうにか凌いでいた。

 それはともかくとして、いよいよ上映時間が迫ってきたのでプラネタリウムのドーム内に入る。

 中は薄暗く、映画館のような雰囲気だ。ただし、天井がスクリーンになっていることと、すべての座席が中央を向いている点が違う。さらには、座席が隣とくっついておらず、一席ずつ独立していた。隣とは手を伸ばしても届かないくらいの距離がある。

 これなら肘掛けを取り合うこともないし、カップルがこれ見よがしにイチャついたりすることもない。そしてなにより、暗闇でさりげなく手を触られたりすることがないから安心だ。

 座席はすべて指定席となっており、僕の隣に上森先輩、その向こうが小乗先輩と景先輩だ。場内は満席だがスペースにゆとりがあるため、あまり混雑しているようには感じない。ソファの座り心地も快適だ。天井のスクリーンが見やすいよう、背もたれが深く倒れるようになっている。それから、座席が左右に九〇度回転することで、天井全体が概ね見渡せるようになっていた。

 しばらくすると、薄暗かった場内がさらに暗くなり、スクリーンにポツポツと光点が現れる。同時に、周囲のざわめきが小さくなり、携帯電話の光も消えていく。

 上映開始時間になったようだ。

 東の空に太陽が沈むところから解説が始まる。

 録音された音声ではなく、係員がマイクで話していた。まるで課外授業だ。

 闇がいっそう深まり、天井に浮かぶ光の粒の他は何も見えなくなる。自分の手さえほとんど見えない。

 目に映る世界がいよいよ現実味のないものに変わっていく。

 天井を埋め尽くしてしまいそうなほど無数に散りばめられた大小の光点。街中では決して見ることのできない幻想的な光景。人工的な光が少ない田舎のような場所で夜空を見上げたことのない僕にとっては、逆に臨場感がない。

 綺麗な星空どころではなかった。まるで宇宙空間に投げ出されたようで、不気味とさえ思った。

 それなのに、なぜか目が離せない。怖いもの見たさとでも言うのか、不思議な感覚が僕を捕らえて離さなかった。

 解説は太陽系惑星の話から始まり、北極星や北斗七星、天の川といった遥か彼方に煌めく神話へとワープする。

 七夕の時期が近いからか織姫と彦星の話が出てきたが、改めて聞くと残酷な話だ。

 っていうか、一年に一回しか会ってはいけないと決めた天帝とやらは、いったい何様?

 仕事をさぼった織姫と彦星に非はあるにしても、やりすぎじゃないの? 

 これって現代で言うところのパワハラだよね?

 そんな感想を抱いているうちに、徐々に周囲が明るくなってくる。

 最後は西の空から太陽が昇って終了。五〇分が、あっという間だった。

 デート中であることも女装していることも、忘れるくらいに。



 僕たち四人はドームから出た後、施設内にあるミュージアムショップに立ち寄った。天体や宇宙にちなんだグッズが揃うユニークなお店だ。地球儀柄のビーチボールや星座が描かれた食器、宇宙食なんて物まであった。

 中でも宇宙食が気になったので、商品を手にとってじっくり見ていると、上森先輩が「お土産に二、三個買ってやるよ」と言ってくれた。

 熟考の結果、たこ焼きとアイスクリームを選んだ。どちらも袋の外から触った感じがスナック菓子のように固い。アイスクリームは冷たくない。いったいどうなっているのだろう? 帰ってからのお楽しみだ。

 外に出ると、雨が止んで空が所々青く染まっていた。天気予報では午後から回復とあったので、もう傘は必要なさそうだ。

「ひかるちゃん、今日は楽しかったかい?」

「え? あ、はい」

 まだ午後三時前だというのに、締め括りのような聞き方をされて戸惑う。

「そうかい。そりゃあ良かった」

 爽やかな微笑みの奥に、なぜか一抹の寂しさを感じる。

「他に行きたいところとか、やり残したことはある?」

「いえ、別に」

 ああ、やっぱりそうなんだ。

 上森先輩は、それまで空気扱いだった小乗先輩と景先輩の方を向き、正面に歩み寄った。

「これで俺のターンは終わりだ。なんか、約束とはいえ無視してるみたいで悪かったな」

 バツの悪そうな表情。

 ごめんなさい、僕のせいで。でも、その条件だけはどうしても外せなかったんです。

「気にするな。私は私で楽しませてもらった。こんな機会でもなければプラネタリウムに来ることはなかっただろうからな。良い経験をした」

 どうやら小乗先輩もプラネタリウムは初めてだったようだ。

 それから、景先輩が拍子抜けしたような様子で尋ねる。

「ずいぶんさっぱりしてるね。夕方くらいまでは付き合うつもりだったけど、もういいのか?」

「ああ、あんまり長いこと連れ回しちゃ、ひかるちゃんが疲れちまうからな。まだ明日もあるんだ。これくらいにしとかねえとな」

「明日のことまで考えてるとは余裕だね。手加減のつもりかな?」

「なに言ってんだ。相手の体力を考えるのはデートの基本だぜ? お前のことはどうでもいいが、ひかるちゃんの予定を考慮するなら当然の判断だ」

「それはそうだ」

 景先輩を苦笑して肩をすくめた。

 上森先輩は少し顔をしかめて言う。

「で、明日はお前の番だが、どうするんだ?」

 実は僕もまだ予定を聞いていなかった。

 今日の上森先輩は驚くほどハイレベルなもてなしをしてくれたわけだが、景先輩はどうなのだろう。

 その予定が、軽快な口調で発せられる。

「山に登るよ。総合駅からローカル線を乗り継いで一時間くらいのところにある、標高六○○メートルくらいの山だね」

 そうきたか。

 確か前に、登山に目覚めたとは言っていたが、ここで持ってくるとは。

「おいおい、この暑さで登山って、なに考えてんだ? そもそも、山なんてデートで行くとこか?」

 上森先輩が抗議するように言うが、景先輩の緩んだ表情は変わらない。

「それは俺とひかるさんが決めることだよ。互いの了承さえあれば、どこでだってデートできる。どこそこへ行ってはいけないなんて規則はどこにもないんだ。そうだろ?」

 デートとは何か?

 気になって調べてはみたものの、ハッキリとした定義はどこにも書かれていなかった。ならば、本人たちがデートと言い張れば、他者の目にどう映ろうとそれはデートなのだ。

 しばしの沈黙。

 上森先輩が答えられないと見て、景先輩は話を続ける。

「登山といっても、そう高い山ではないから、気楽に散歩の延長だと思えばいいよ。頂上まで二時間かからないし、熊や猪が出る山でもない。猿はいるけど」

 いるのか。

「それから、山上公園には水道もお手洗いもある。携帯の電波も届く。俺が何度も往復したことのあるコースを使うから迷ったりもしない。それでも、初めての人には少々キツいかもしれないけどね。でも、頂上に付けば疲れなんかすぐに吹き飛ぶことは俺が保証するよ」

 登山は初めてだから不安がないわけではないが、あえて断る理由もない。

「わ、分かりました。じゃあ、案内よろしくお願いします」

 僕が軽くお辞儀をすると、上森先輩も渋々納得する。

「ひかるちゃんがいいって言うなら俺が口出しすることじゃねえな。龍ちゃんはどうだ?」

「無論、同行させてもらおう。その山なら私も何度か修行をしに行ったことのある場所だ。景君の言うとおり安全面は問題ない。ただ、今日の雨で足元がぬかるんでいるところもあるだろうから、そこだけは要注意だな」

 修行って……。なにやってるの、この人。山伏? 

 それも哲学と関係あるのかな? あるんだろうな、きっと。

 ともかく、明日の予定は登山で全会一致した。

「決まりだな。実は簡単なしおりを作ってきたんだ。みんな受け取って」

 景先輩はショルダーバッグから文庫本サイズの小冊子を取り出した。まるで修学旅行だ。

 受け取って軽く内容を確認してみる。集合場所と時間、周辺の地図、持ち物、服装、山でのマナーが記されていた。後でよく読んでおこう。



 翌日。

 昨日と同じ手順を経て、四人が総合駅に集合する。時間も昨日よりも早い、午前八時だ。

 目的地が山とあって、皆昨日とは服装が違う。本格的な登山でないとはいえ、街に出掛けるのと同じというわけにはいかない。しおりに記してあったとおり、靴は歩きやすいもの、鞄は背負えるもの、服装は肌の露出が少ないものを、全員がセレクトしている。

 今日の僕の服装は、いわゆる山ガールファッションだ。上は長袖シャツにベスト、下はショートパンツにサポートタイツという組み合わせ。

 また、晴天で日差しが強いので紫外線対策も必須だ。

 小乗先輩と景先輩はつば付きの帽子、上森先輩は薄いブラウン系レンズのサングラスをつけている。僕はミニリボンの付いた可愛らしい麦わら帽子を貸してもらった。貸主が誰なのかは言うまでもない。あの人はいったいどれだけ衣装を持っているのだろう?

 持ち物は、水筒、弁当、タオル、おやつなど。

 鞄は小さめのリュックだ。

 ちなみに、身長をごまかすためのシークレットインソールを仕込んだ状態で登山をして大丈夫か景先輩に尋ねたところ、登山靴の靴底が厚い分、インソールは薄くて済むので問題ないそうだ。

 さて、全員が集合したといっても今日は景先輩とのデートなので、小乗先輩と上森先輩は少し距離を置いて静かにしている。端から見れば別グループか同じグループか微妙なところだろう。

 約束を守る二人の方を見ながら、景先輩は少し困ったように言う。

「どうも、こういう距離感は苦手なんだよね。ひかるさんもそう思わないか?」

「そ、そうですね。できたら、普通に接してくれた方が……」

「だね。ひかるさんもそう思ってるなら、もう解禁にしよう」

 僕はコクリと頷く。打ち合わせ通りだ。

「二人とも聞いてくれる? 実はひかるさんからの要望でね、今日は付いてくるだけじゃなく、普通に接してほしいんだ」

 軽やかな態度で提示された案に、上森先輩が目を開いて驚く。

「おいおい、いいのか? それじゃあ完全にデートじゃなくなるぞ」

「ひかるさんがそう言うんだから問題ない。俺もその方がいいしね」

「けどよ……」

 上森先輩は納得できない様子だ。

 敵に塩を送られているようで気が引けるのだろう。

 しかし、景先輩は譲らない。

「一番大事なのは、ひかるさんが楽しめるかどうかだろ? デートという形にこだわって楽しめないんじゃ本末転倒だ。小乗もそう思わないか?」

「私は立会人にすぎないから、当事者同士が納得したことに反対するつもりはない。だが、上森君の気持ちも分かる。よって、ここは間を取って控えめに接するというのはどうだろう?」

 当然、小乗先輩には話を通してあるので、この流れも予定調和だ。

 上森先輩を説得するためには、デートという枠組みは外してしまった方が好都合だ。かといって彼にもプライドがあるはずだから、あらかじめ妥協点は用意しておいた。

「……分かったよ。ひかるちゃんがそう言うならそうしよう。あくまでも、ひかるちゃんのためだからな。そこんとこ勘違いすんなよ?」

 


 総合駅からローカル線を乗り継ぎ、一時間ほどで麓の駅に到着する。

 自販機が一つあるだけの小さな駅だ。

 僕たちの他に降りた乗客は数人。見るからに登山者という出で立ちの人もいた。

 駅員さんに直接切符を渡して改札を出る。自動でないところを通るのは初めてだ。あんなに次々と切符を受け取って、ちゃんと確認できたのかな?

 などと余計な心配をしながら駅を出た途端、視界の半分が深緑色に奪われた。

 わ、山だ。

 遠くからしか見たことのなかった山が、目の前にそびえ立っている。景先輩は小さな山だと言っていたがとんでもない。都会のビル群なんて比較にならないほど重厚で迫力のある景色だ。例えるなら、日本で一番高いタワーが数十倍、いや数百倍の厚みを持ったような圧倒的質量感。

 その大質量を濃淡様々な緑がまんべんなく覆い、あたかも山そのものが生きているかのように感じさせる。

 都会派の上森先輩にとってもこの景色は珍しいのか、「おおー」と驚嘆の声を漏らしていた。

 そんな山の麓を四人で歩き出す。

 最初に目指すのは登山道の入口だそうだ。山が目の前にあるとはいえ、どこからでも登れるわけではないので、そこまでは舗装された道を歩く。

 道沿いには幅五メートルくらいの川が流れており、水面が太陽の光をキラキラと反射させていた。驚くことに、土手の上からでも川底が見えるくらい水が透き通っている。都市部では決して見ることのない清らかな流れだ。

 川の向こうには古風な日本家屋が並んでいる。住宅地というより集落といった感じだ。それ以外にあるのは畑と竹藪と神社くらい。車道はあるが、車があまり通らないので空気が澄んでいる。大げさかもしれないが、ちょっとした遺跡の中を歩いている気分だ。

 一五分ほど歩いたところで、道端にある登山道の入口に到着する。入口と言っても、入場門やチケット売り場があるわけではなく、注意していなければ見過ごしてしまいそうな薄汚れた木の看板があるだけだ。

 景先輩が全員に向かって言う。

「さて、ここから先は平地とは勝手が違うからゆっくり行こう。俺が先頭を行くから、ひかるさんはその後ろに付いてきてね。小乗と上森はその後ろで。……あ、小乗は何度か来たことあるんだったね。一番後ろを頼んでいいかな?」

「承知した」

 渋い返事だ。

 上森先輩も「ん」と小さく頷く。

 いよいよ登山開始だ。

 四人が縦一列となり、舗装されていないデコボコな斜面に足を踏み入れる。山道は幅が狭く、横に並んで歩くことはできない。山を降りてくる人がいたら、すれ違うのに苦労しそうだ。

 また、地面から大小様々な石が突き出ていて歩きにくい。耐えず足元に注意していなければ躓いてしまいそうだ。

 そして何より、思っていた以上に勾配がキツい。坂道を歩くというより、斜面をよじ登る感覚に近いのだ。時々、手を使わなければ登れないところもある。木々のおかげで直射日光が当たらないのがせめてもの救いか。

 けっこうキツい。どう考えても散歩の延長どころではない。三分も経たないうちに息が上がってきた。

 こんなんで付いていけるのかな?

 そう思ったところで、景先輩がチラリとこちらを見て言う。

「んー、ちょっと速いかな。ペースを落とそうか」

 歩く速度が緩み、少し楽になる。

 その後も景先輩はチラチラとこちらの様子を観察し、徐々にペースを落としていく。おかげで息は上がらなくなったが、まるで石橋を叩いて渡るようにゆっくりなペースになってしまった。

 そのうち、後から来た登山者が追い付いてくる。最後尾の小乗先輩にその知らせを受けた僕たちは、一旦立ち止まって道を譲った。

「こんちには。ありがとう」

 追い抜き様にあいさつをしてきたのは、五十過ぎくらいの夫婦らしき二人組だ。

 もちろん、こちらもあいさつを返す。

 山では知らない人であっても必ずあいさつをすること。

 景先輩からもらったしおりに書いてあった、登山のマナーだ。

 それから、しばらく進むうちに、背後から声が飛ぶ。

「なあ、景。いくらなんでもゆっくりすぎじゃねえか?」

 上森先輩がそう言いたくなるのも無理はない。僕ですらそう思っているくらいだ。

 景先輩はペースを維持したまま軽快に言葉を返す。

「大丈夫だよ。このペースなら昼頃には頂上に着く。ゆっくりすぎて焦れてくる気持ちは分かるけど、これが登山のペースなんだ」

「マジか……。いや、俺も初心者だから疑うわけじゃねえけどな。ただ高校生の俺らが中高年に追い抜かれるってのもな」

「気にすることはないさ。山には山の歩き方がある。見た感じ、さっきの二人はかなり慣れてる様子だった。若さだけで熟練者に付いていけるほど山は甘くないよ。もっとも、このペースはひかるさんのペースだから、上森には若干遅く感じるかもしれないけどね」

 そっか、僕に合わせて――いや、グループで一番遅い人に合わせているのか。後ろから人が追い付いてきた時の対応といい、この並び順にも意味があるんだ。



 景先輩のペース配分のおかげで息はそれほど苦しくなくなり、ゆっくりではあるが着実に先へと進む。

 周囲が木で囲まれているため頂上はおろか二〇メートル先も見えないが、一合目、二合目、三合目と看板の数字が増えていくことで、それが実感できる。

 とにかく暑いので、こまめに立ち止まっては水分補給をして汗を拭く。十五分歩いて二、三分休むようなペースだ。

 四合目の看板を見かける頃には会話がめっきり減り、ひたすら作業に徹するだけの状態になってくる。服の中が汗でベタベタして気持ち悪い。なにより、虫が寄ってくるのが鬱陶しい。追い払っても追い払っても付きまとってくる。

 五合目に到達。

 山道から数メートル外れたところに岩場があったので、みんなで手頃な場所に腰かけて一息つく。

「どうだいひかるさん、初めて山に登った感想は? まだ半分だけど」

 やはり慣れているからか、景先輩は涼しい顔をしている。

「思ったより疲れますね。平地を歩くのとは全然違います」

「だな」

 サングラスを外した上森先輩が、顔の汗を拭きながら同意する。

「てっきり、坂道をてくてく歩いていくもんだとばかり思ってたのに、こりゃあ階段登るよりキツいぜ」

「上森が想像するようなコースもあるけどね。でも、勾配が緩やかだと歩く距離も長くなるから、一概に楽とは言えないぞ?」

「そりゃそうだ」

 笑い合う二人。上森先輩は少し皮肉混じりな感じだが、本気で不満に思っているわけではなさそうだ。前向きだな。

 一○分ほど休憩して再び出発。

 六合目を過ぎた辺りから、さらなる試練が迎え撃ってきた。コースに下りが混じってきたのだ。せっかく高度を稼いできたというのに、途中で強制的に減らされるという理不尽な行程。

 当然、下りた分また登らなければならない。二歩進んで一歩下がるような状況だ。

 七合目を過ぎると下っている時間がさらに長くなり、もはや登っているのか下っているのか分からなくなってくる。下りは、心臓は楽だが精神的にかなりくるものがある。

 ……おかしいな。これ一応デートだよね? 僕たちは、なぜこんな苦行みたいなことをしているのだろう? 景先輩はこれが楽しいのかな? だとしてもデートは一人で楽しむものではないでしょう? いくら勝敗を決めるのが僕でも、あまりに差があると勝ちにできないよ?  

 いや、勝敗はどうでもいいと言ってたっけ? じゃあ、なんのために? この苦行の先に何があると言うのだろう?

 モヤモヤの中を進み、八合目の看板を見かける。

 ようやくここまで来たか。もう少しの我慢だ。なにがなんだかよく分からないけど、とにかくもう少しだ。

 そう言い聞かせたところで、ふと肌寒さを感じた。

 風が――

 つい先ほどまでなかった冷気を含んでいる。

 あれ? そういえば、さっきから虫がいない? なんで?

 ……あ、そうか! 高度のせいだ。

 確か千メートルで六度下がるはずだから、標高六○○メートルの八合目だと――三度くらい下がってるのか。

 景先輩が立ち止まって言う。

「ひかるさん、少し冷えてきたから汗をしっかり拭いておこうか」

「は、はい」

 気が付けば、すっかり心のモヤが晴れていた。

 顔を上げると、不思議と空が近くなったように感じる。なんだか周囲が明るい。いや、周囲を見る余裕が出てきたのか。今までずっと地面ばかり見ていたから暗く感じていたのだ。

 気持ちが切り替わったせいか、あっという間に九合目に到達する。

 そこから少しだけ下ったところで唐突に木々が途切れ、パッと視界が開けた。

 大きな芝生広場だ。石でできたベンチやテーブル、滑り台などの遊具もある。そして、人の姿も。

 ここが山上公園か。

 てっきり頂上にあるかと思っていたが、山の中にある盆地に作られた公園のようだ。

「おお、いいところじゃねえか。これぞ自然公園って感じだな。ここで飯にするのか?」

 上森先輩が景先輩に聞く。

「ああ。だけど、もし腹が減って仕方がないってわけじゃないなら、先に頂上まで行こう。ここからなら五分かからず行ける」

「おう、それでいいぜ。ってか、疲れてるからあんま食欲ないしな」

 少し自嘲気味の笑みを浮かべる上森先輩。

「ひかるさんもそれでいい?」

「はい、大丈夫です。僕もそんなに食欲ありませんから」

「それじゃあ、もうひと踏ん張りいこうか。といっても、ここから先は楽な道だけどね」



 景先輩の言うとおり、山上公園から先は道幅が広く、平らに近い砂利道だったので歩きやすかった。さらには、斜面が丸太階段となっており、ほとんど普通の道を歩くような感覚だ。いろいろあったけど、最後はこれか。

 丸太階段の先に青い空が見えた。

 つまり、あれより先に視界を遮るものはないということだ。

 歩を進めるごとに、だんだんと空が広がっていく。

 そして、頭上が空だけになった。

 いや、頭上だけではない。前方にも空。左右にも空。背後にも空。視界の上半分が空だ。

 これが、頂上。

 思ったより広い。ちょっとした公園のようだ。

 僕たちの他に数人の登山者が、写真を撮ったりレジャーシートを敷いて寛いだりしている。

「おっしゃあ、ついに頂上だ。おい、三角点はどこだ?」

 上森先輩が興奮した様子で首を振る。そして目当てのものを見つけると、一目散に駆けていく。

 最初は乗り気でなかったというのに、ずいぶんなはしゃぎようだ。あれはもう勝負のこと完全に忘れているな。

「ひかるさん、せっかくだし三角点で一緒に記念写真でも撮らない?」

「は、はい」

 景先輩の提案に、僕は少し戸惑いながらも快く返事をした。

 だって、嬉しい。修学旅行以外で学校の仲間と記念写真だなんて初めてだ。

 この山で最も高い地点である三角点には、高さ五〇センチくらいの石柱が立てられていた。

 側面に山の名称と標高が刻まれている。それだけと言えばそれだけだが、僕にはその石柱が御神体のように神聖な物に見えた。

「この三角点を中心に撮ってもらおうか。それから、顔が影になるから帽子はとっておこう。上森、ちょっとこれ預かっててくれないか?」

 そう言って帽子をとる景先輩に、上森先輩は不審な表情を向ける。

「おいおい、ちょっと待て。俺は記念写真なんて撮ってねえぞ」

「だったら、後で上森も一緒に撮ってもらったらどうかな?」

「ん? いいのか?」

 先輩二人が僕の顔を伺ってくる。

 景先輩との撮影は了承しておいて上森先輩はダメというわけにはいかないが、やはり二人きりの写真は気が引けるので、思い切って個人的な希望を言ってみる。

「ええと、どうせならみんなで撮った方がいいと思いませんか? 撮影は他のどなたかに頼むことになりますが……」

 頂上には途中であいさつを交わした登山者もいる。普段なら知らない人に声をかけるなんて無理だけど、今ならなんとかいける気がする。

 僕の発言に対し、上森先輩が大げさなくらい目を丸くする。

「え、ほんとにいいのか? いいなら、俺がその辺の人に頼んでみるけど……」

 めずらしく消極的だ。どうしたんだろう? せっかくここまで来たのだから写真の一枚や二枚は――

 と、そこで小乗先輩が冷静に告げてくる。

「ひかるさん、もしかして自分の姿を忘れてはいないか?」

「え? あ……」

 そうだった。女装してたんだ。

 ずっと夢中だったから忘れてた。

 近くの人に撮影を頼みに行こうとする上森先輩を、全力で止めにいく。

「ま、待ってください! やっぱり写真はダメです! 僕の勘違いです!」

「お、おう」

 幸いにも上森先輩はすぐに引き下がってくれた。

 景先輩は苦笑しながら肩をすくめていた。

 あ、あれは確信犯だな。まったく油断も隙もない。危うく騙されるところだったよ。

 ムッと口を尖らせると、景先輩が近付いてきて軽い調子で謝る。

「ごめんごめん。ひかるさんとの記念写真がほしかったから、つい」

「ぅぅ……。この姿じゃ記念になんかなりませんよ。僕が好きでこの格好してるわけじゃないの知ってるでしょう?」

「だからごめんって。でもさ、ある日突然その姿が見られなくなることもあるって思うと、どうしても自分の分だけは取っておきたくてね」

 少し寂しそうな表情。

 ある日突然って、どういうことだろう?

 それを聞こうとしたところで、上森先輩の声が割り込んでくる。

「おい景、あっち行ってみねえか?」

 指された方角には、空と頂上の境界に木の柵があった。

「展望台だね。ひかるさん、いよいよ今日のメインイベントだ」

 そう言って目配せをしてきた景先輩の横顔からは、さっきまでの寂寥感がすっかり消え失せていた。

 高鳴る鼓動を抑えつつ、歩を進める。

 この先に、いったい何が――

 柵の向こうにあるのは空。

 十メートルほど手前まで来ても、まだ空。

 五メートルほど手前まで来て、ようやく空以外のものがうっすらと見え始める。

 もう少しで柵に手が届くところまで来て、ハッキリ向こう側の世界が見えた。

「わ……!」

 目と口が自然と大きく開いた。

 いつだったか、高層ビルの最上階から街を一望したことがあったが、ここからの景色はそれよりも遥かにスケールの大きなものだった。

 胸の高さくらいの柵に手をかけ、眼前に広がる景色をよく見る。

 山の麓には住宅地や川があり、そこから少し離れたところには濃淡様々な田んぼが整然と並んでいる。

 あちこちの道路で車が絶え間なく動いている。

 少し目線を上げると、そこには細々(こまごま)とした街がある。大小様々な建物が、これでもかというくらい敷き詰められている。

 さらに目線を上げると、建物の群れからいくつもの高層ビルが突き出ているのが見える。あれは総合駅の辺りだ。昨日のプラネタリウムは見えないが、あのビル群のどこかにあるはずだ。

 そして、その向こう、空と地上の境界には山がある。左の方にもずっと山が続いている。右の方は遠いからハッキリとは見えないが海だ。

「すごい……」

 初めてみる壮大な景色に圧倒される。

 同時に、その圧倒的な空間に向かって飛び出したい衝動に駆られる。

 鳥のように自分の翼で――

 いや、さすがにそれは寒いか。それに目立つのも嫌だな。

 飛行機がいいな。それも自分で操縦できる小型の飛行機が。

 最初はゆっくり。それから徐々に速度を上げて、最後はフルスロットル。超音速で、あの山の向こうまで飛んでいきたい。

 しばらく、そんな思いに耽っていると、ポンと背後から左肩に手を置かれた。

 景先輩だ。

「ひかるさんは、この景色を見て何を感じる?」

「想像以上にすごい景色で驚いてます。がんばってここまで登ってきた甲斐がありました」

「そっか。ひかるさんは素直で可愛いな」

 ほんの少しだけ哀愁を含む微笑み。

 気になるので、僕も同じことを聞いてみる。

「景先輩は、この景色をどう思ったですか?」

「そうだな……。俺も初めて見た時は感動したけど、今はそうでもないんだ」

「何度も来て見慣れたからですか?」

「それもある。でも、景色以外のものまで気にするようになったことが大きいかな。ここからは、いろんなものが同時に見える。雄大な自然も、歪に削り取られた森林も、のどかな農村も、雑然とした街も。だから、どう思うかと問われれば、複雑な気分かな」

 目の前の景色に顔を戻した景先輩につられて、僕もそちらを見る。

 そう言われてみると、壮大だと思っていた景色も違って見えてくる。あの中には良いところも悪いところもある。それを想像すると、一概に綺麗とは言えない。

 それまで淡々と語っていた景先輩の表情が、徐々に明るくなる。

「でも、こうして大きな視点から地上を眺めることで気付くこともある。だから、毎回来て良かったと思ってるよ。ひかるさんはどう? またここに来たいと思う?」

「う~ん、難しい質問ですね。今日来て良かったとは思いますけど、また来るとなると……」

「ハハッ、そうだね。でも時間が経てば、また気が向くかもしれない。その時は声をかけてほしいな」

「はい」

 気が向けばという条件付きなら返事を渋る理由はない。気が向いても、いざ登り始めたら後悔するかもしれないが。

 景先輩は僕の右隣にいる人物に視線を移す。

「小乗はどう? この景色を見て、どう思った」

「ふむ……」

 小乗先輩は一瞬だけこちらに目を向けた後、儚げな表情で下界を見て語る。

「私の場合、最初にこの景色を見た時は吐き気を催したよ。人間というたった一種の生物が、よくもここまで地球を変貌させたものだとな。だが今となっては、それも小さなことと思える。人間が変貌させてしまった部分など、所詮は地上の一部に過ぎないのだからな。人体でいうなら、薄皮一枚削られた程度のことだ。それも人間が滅びて数千年もすれば元通りになる。数十億と言われる地球の寿命からすれば、ほんの一瞬のことだ。地球は途方もなく強い。人間の力では、表面にちょっとした火傷を負わせる程度が精一杯なのだ。こうして高所から地上を見下ろしていると、つくづくそう思うよ」

 ……うん、難しい話だ。

 でも、小乗先輩の話が地球規模に飛ぶのはよくあることなので、今さら驚いたりはしない。

 左隣にいる景先輩も苦笑している。

 その向こうにいる上森先輩も、笑ってはいるが、完全に呆れ顔だ。

「おいおい、景も龍ちゃんも真面目すぎだろ。登山に来てそこまで思い詰める高校生なんてどこにもいねえぞ」

「そうかもしれんな」

 小乗先輩はフッと小さく笑う。

 一方、景先輩は苦笑したまま問い返す。

「そう言う上森は、この景色を見てどう思ったのかな?」

「俺は素直にすげえと思ったよ。景色がすげえのはもちろん、これだけの街を作った人間もすげえ。けどな……」

 上森先輩は一度言葉を止めると、顔だけでなく身体ごと真っ直ぐ景先輩の方を向く。

「お前や龍ちゃんとは違う領域の話だが、考えさせられる部分はあった。さっきまで山はデートで来るところじゃねえと思ってたが、この景色を見るためならありかもしれねえってな。正直、侮ってた」

 そう言って、また柵の向こう側を見る上森先輩。

「やっぱ本物はすげえな。本物が必ずしも作り物に劣るってわけじゃねえけどさ、この景色は別格だわ。これなら、ここまで来るのに苦労した分も帳消しかもな」

 心なしか、その横顔は憑き物が落ちたかのようにスッキリとしているように見えた。

 あ、もしかして、仕掛けるならこのタイミングじゃ――

 僕がそう思うのとほぼ同時に、景先輩が景色を見たまま静かに言う。

「なあ上森、今回のデート勝負、無効にしないか?」

 やっぱりきた。

 上森先輩は落ち着いた声と共に、首の向きをわずかに変える。

「どうした? 俺に負けそうだからってわけじゃなさそうだが?」

「どうしたも何も、上森だってとっくに気付いてるだろ? ひかるさんに勝ち負けの判定なんかできないって」

「まあな……」

 え、分かってたの? じゃあ、どうして?

 当然の疑問に対する答えを待つが、二人とも景色を見たまま黙ってしまったので、恐る恐る声を上げる。

「あ、あの、だったら、どうしてデート勝負なんかしたんですか?」

 二人ともこちらに目は向けたものの、バツの悪そうな顔をしてなかなか答えてくれない。

 長い沈黙の後、小さく口を開いたのは上森先輩だった。

「……そりゃあ、ひかるちゃんとデートしたかったからに決まってるだろ」

 続いて、景先輩も控えめな声で言う。

「俺も同じかな。勝負を申し出た後、焦りすぎだって気付いたんだけどね。でも、みんなで行くなら勝敗なんて関係なく楽しめると思って取り消さなかったんだ。実際、上森も山を楽しんでたみたいだし、俺もプラネタリウムは楽しかった。ひかるさんはどう? この二日間、楽しかった?」

「は、はい、楽しかったです」

「二日間とも?」

「はい。どちらも、同じくらい」

「そっか」

 景先輩は改めて上森先輩の方を向く。

「じゃあ、ひかるさんもこう言ってることだし、今回は勝負なしということでいいかな?」

「ああ。そもそも楽しいに勝敗なんかねえ。今さらだが、それに気付かされたよ」

 なにげに名言で締める上森先輩。

 納得できない部分もあるが、これで勝負は無効となった。

 でも、それだけでは根本的解決になっていない。上森先輩に攻略を諦めさせるところまで持っていかなければ。

 再び訪れた長い沈黙の後、景先輩がポツリと言う。

「なあ上森、今回だけじゃなくてさ、当分は抜け駆け禁止ってことにしないか?」

「当分っていつまでだ?」

「それはまだ考えてないけど、今は焦って恋愛するより、仲間内で楽しむ方を優先したいと思ってね」

「そうかい。でも、いいのか? 長丁場になれば、三年生のお前の方が不利になるんだぞ?」

「分かってる。それでも、今は男子哲学部で過ごす時間を大切にしたいんだ」

 景先輩、どうしたんだろう?

 ハッキリ言って、この流れは良くない。これでは、また時間稼ぎをするだけになってしまう。

それとも、ここからの逆転を可能にする秘策があるのだろうか?

 上森先輩は質問には答えず、僕の顔を見てきた。

「ひかるちゃんはどうなんだ? 今はまだ、誰かと付き合ったりとかは考えられないか?」

 誰かというより、同性と付き合う気は一生ないのですが……。

 それを言うと完全にフッってしまうことになるので、

「は、はい。まだ、そういうことは……」

 と、最低限の答えを返しておく。

 すると、上森先輩は困ったような表情で大きくため息をつき、木の柵に深くもたれかかった。

「そうか……。ひかるちゃんがそう言うなら、こっちも地道にいくしかなさそうだな。けどな、正直言って、ひかるちゃんが可愛いすぎて完全に自分を抑える自身がねえ。こんなこと頼むのはおかしいかもしれねえが、また俺が暴走しそうになったら、みんなして止めてくれ」

 いや、それが分かってるなら自分で止めましょうよ。

 いやいや、それ以前に――

「あ、あの、もういっそのこと、女装をやめる方向で検討した方が良いのでは?」

 思いきって最高の解決策を述べてみた。そして、言ってみてから気付く。

 そうだ。それが一番じゃないか。女装は上森先輩との約束なのだから、彼がひとこと「もういいよ」と言ってくれれば万事解決なのだ。

 ところが――

「それはダメだ」

 一瞬の迷いもなく、ピシャリと否定された。

 えー、絶妙のタイミングだと思ったんだけどなぁ……。

「俺も断固反対だな。部活の楽しみが半減しちゃうよ」

 景先輩まで。

 そこまで大事なの、これ?

 小乗先輩が冷静に意見を述べる。

「上森君の暴走の件については、またみんなで議論をして対策を立てよう。基本的には私か景君のどちらかがいれば問題ないだろうから、慌てるほどのことではないな」

 いつもどおり部全体のことを考えた中立の立場だ。

 はぁ……。

 ガックリと肩から力が抜けてしまう。

 いや、まだだ。まだ景先輩が秘策を隠し持っているはずだ。

「それじゃあ、そろそろ山上公園に戻って昼ごはんにしようか」

 あれ?

「おう、そういやクールダウンしたせいか腹減ってきたな」

 景先輩に続き、上森先輩も展望台の景色に背を向ける。

 え、ちょっと待って。これで終わり?

 まだ何も解決してないよ?

「どうした? 早く行こうぜ」

 まるで何事もなかったかのように声をかけてくる上森先輩。

 立ちすくむ僕の左肩に、背後からそっと手のひらが置かれる。

 小乗先輩だ。

「そう焦るな。ひとまず話は落ち着いたのだ。解決のことはゆっくり考えればいい。あまり焦ると、すぐに息があがってしまうぞ。登山と同じでな」

 それから、しばらくしてピンときた。

 もしかして今日ここに来たのは、上森先輩を説得するためではなく、僕に気付かせるため?

 つまり、僕が一番焦ってたのか……。



 下界よりも幾分涼しい風を浴びながら山上公園に戻り、木陰に設置されたベンチで昼食をとる。

 登山ではリュックの中がかなり揺れるので、おにぎりやパンなど固形の物を潰れないよう工夫して持ってくるようにと、例のしおりに書いてあった。この場合、弁当箱におにぎり又はパンを入れて、暑さで傷まないよう保冷剤を添えるのが鉄板だ。

 食事の後、たっぷり三〇分ほど休んでから山を下る。

 登りほどではないが、下りもかなりゆっくりなペースだ。

なにせ危ない。下手に踏み外すと、転げ落ちて岩や木に激突してしまう恐れがある。

 ましてや、ここは階段のようにしっかりとした足場ではなく、土と石でできた斜面だ。息が楽だからといって迂闊にペースを上げれば、たちまち足を滑らせるだろう。また、下りは重力によって勢いが付くため関節に掛かる負担が大きく、捻挫もしやすい。

 山の下りは登りより難しいから気を抜かないように。

 しおりの最後の方に、大きな字で書いてあったことだ。

 もはや考え事をする余裕などなく、ひたすら足元に注意しながら景先輩の背中に付いていく。 

 そうして、無事一合目まで下りてきて、あと一息で下山というところで、景先輩が少し寄り道をしたいと言い出した。

 ここから歩いて数分で川遊びができる場所に行けるらしい。

 まだ時間には余裕があるし、この暑さだ。水場に行くという提案に本能が惹かれたのか、一同が快諾する。

 一合目には分岐点があり、通常の登山道とは別の脇道があった。看板にも標されているので怪しい道というわけでもなく、比較的平坦で歩きやすいくらいだ。

 しばらく進むうちに、遠くから川のせせらぎが聞こえてくる。

 涼しげで、優しい音色。

 昨日は小雨だったおかげか、流れは穏やかなようだ。

 音色が鮮明になるにつれて、木々の間からキラキラと光の反射が見えるようになってくる。

 遠目からでも水が澄んでいることが分かる。

 やがて、山道を少し下ったところに幅五メートル程の川が見えてきた。

 そうか、ここは山の麓を流れていた、あの川の上流だ。

「さあ着いたぞ」

 山道から川原へと下る景先輩に、僕たちも続く。

 ちょっとしたキャンプができるくらい開けた場所だ。川沿いは岩場となっているため木々がなく、この辺りだけ太陽の光が差し込んでいる。

 故に暑い。

 暑いので、すぐにでも水に触りたくなる。

「足を滑らせないようにね」

 景先輩の忠告に従い、慎重に水際まで近付いて腰を屈める。

 ハッキリと底が見えるくらい透き通った川の水に、そっと手を入れてみる。

 わ、冷たい! まるで氷水みたいだ。

 隣では、サングラスを外した上森先輩が興奮した様子で水を掬い上げ、豪快に顔を洗う。

「おお、こりゃたまんねえぜ!」

 小乗先輩も眼鏡を胸のポケットに入れて顔を洗っている。

 あれ? もしかして眼鏡外したところ見たの初めてだったかな?

 思い出しているうちに、タオルで顔が隠れてしまい、顔を拭いた後もすぐに眼鏡をかけてしまったので一瞬しか見られなかった。

 ……まあ、いいや。あまりじろじろ見るのも失礼だしね。

 景先輩はというと、リュックをそばに置いてから川辺に腰を降ろし、靴と靴下を脱ぎ始めた。

 それから、ズボンの裾を膝上くらいまで捲ると、水の中にそっと足を浸けた。

 そして、一息。

「ふう、これ気持ちいいな。ひかるさんもどうだい?」

 確かに、気持ち良さそうだ。

 でも、靴と靴下を目の前で脱がれるのは心臓に悪い。座ってさえいれば身長を誤魔化していることはバレないと思うけど、大胆だなぁ……。

 不安そうな顔をしているとかえって怪しまれそうなので、勧められるままに川辺に腰を降ろして裸足になり、インナースパッツを捲り上げて水に足を浸ける。

 うう、やっぱり冷たい。

 頭にまでキーンときそうだ。

 でも、慣れてくると気持ちいい。水に触れているのは足だけなのに、身体全体が涼しく感じる。

「どう? 気持ちいいだろ?」

 景先輩は得意気な顔を向けてくる。

「そ、そうですね」

「じゃあ、また山に来たくなった?」

「え、うん……でも、夏はちょっと……」 

 さっき頂上で同じ質問をされた時よりも、ほんの少しだけ前向きな答え。

 その程度では不満なのか、景先輩は一瞬ムッとした後、悪戯っぽい笑みを浮かべて言う。

「それじゃあ、また来たくなるように、もっと気持ち良くしてあげるよ」

 え、どういうこと――

 尋ねようと瞬間、宙に水滴が舞った。

「わ……!」

 驚いて、とっさの身をすくめる。

 景先輩が両手で川の水を掬って、宙に撒いたのだ。

 輝く水滴がシャワーのように降り掛かる。

 肌や服や帽子にポツポツと冷たいものが吸着する。

「フフッ、最高だろ?」

 派手なことをしておきながら、小さく僕にだけ聞こえるように囁く景先輩。

 確かに気持ち良かったけど、素直にそう言うのはなんだか悔しいので、ちょっとだけ拗ねてみせる。

「急になにするんですか……! 服が濡れちゃうじゃないですか」

「そんなのすぐ乾くよ。それより、ひかるさんもやってごらん。涼しくて気持ちいいから」

 悪気なんて微塵もなく、ただ純粋に楽しむ笑顔が僕には眩しすぎる。

 僕もこんな風に心の底から楽しめたらな。

 こんなことで人生観が変わるとは思えないけれど、あえて一度だけ試してみよう。

「そ、それ!」

 掛け声と共に、小さな飛沫が舞い上がる。

 僕だけでなく、すぐ隣にいる景先輩にもそれは降り掛かる。

 満面の笑顔。

 たったこれだけの動作でも、仲間と一緒なら楽しいのかな?

 まだ分からない。でも、分かったこともある。

 さっき曖昧にしか答えられなかったことを、今度はハッキリ言う。

「景先輩、また頂上まで行くのはちょっとキツいですけど、この場所にならまた来たくなりました」

 顔に透明の粒を滴らせた先輩は一瞬呆けたような表情をした後、堪えきれなくなったように笑い出した。

「アハハ、そっかそっか。一合目までならいいってことだね。まあ確かに、登山に来たからといって必ずしも頂上を目指さなきゃいけないわけじゃないもんね。そういうのもありか」

 なんだかよく分からないが、景先輩の中で新たな発見があったようだ。

 考えてみれば、今日はいろんな発見があった。

 景先輩が言っていたとおり、山はすごい。部屋で議論をするだけは決して届かない真理がある。それが分かっただけでも、今日は大収穫なのかもしれないな。

 ふと、上森先輩が呆けたような顔でこちらをジッと見ていることに気付く。

 僕が気付いたことで景先輩も気付いた。

「ん、どうしたの?」

 尋ねられて、上森先輩はハッとする。

 それから、誤魔化すように笑いながら言う。

「いや、景って前髪下ろすと、なかなか中性的な感じだなぁと思って。実は、案外女装とかいけるんじゃね?」

 そう言われて初めて気付く。

 水に濡れたせいか、オールバック風に固めた景先輩の髪が元に戻りかけていたのだ。

 まずいまずい、下手するとバレちゃう!

 あたふたする僕と違い、景先輩はサッと髪を整えながら肩を揺すって笑い飛ばす。

「やめてくれよ。俺なんかが女装してもひかるさんの前じゃ霞んじゃうよ」

 いや、女装もなにもあなたは本物の女性なんですけどね。

「ハハッ、そりゃそうだ」

 上森先輩、本物の女性に対してそれは失礼ですよ。

 まあ、そんな言葉が出てくるということは正体がバレたわけではなさそうだから良かったけど……。

 もう、水を浴びるよりヒヤヒヤしたよ。

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