第6話 行動が伴わない哲学は哲学にあらず
落ち着かない。家にいても、自分の部屋にいても落ち着かない。漫画を読んでいても、宿題をしていても落ち着かない。今か今かと、ついそれを気にしてしまう。
高校の入学祝いに買ってもらったそれは、気軽にメッセージのやり取りができる便利な道具である反面、人の心を絶えず束縛し続ける厄介な道具でもあることを実感した。
次の瞬間、上森先輩からメッセージが届くかもしれない。学校では景先輩が一緒にいたおかげで引き下がってくれたが、連絡を取ろうと思えば帰ってからいつでも取れるのだ。受信を拒否するわけにもいかないので、ひたすら気にし続けるしかない。
でもなぜか、いつになっても着信音は鳴らない。わざわざ待ち伏せしてまで伝えたいことがあったのだから、メッセージくらいは来ると思ったのだが……。
僕の勘違いだろうか? 今日の用事は本当に大したことがなくて、メッセージを送るほどのことではなかった?
もやもやした気持ちでお風呂から戻ってきたところ、携帯画面に通話の着信履歴が残っていた。
ビクビクしながら画面を確かめる。発信者は上森先輩ではなく熊楠先輩だった。しかも、メッセージではなく電話。履歴が一つしかないから緊急事態ではないと思うけど……。
ひとまず、電話がきた以上は電話で返すことにする。
コール音が数回続いた後、通話がつながる。
『あ、もしもし。もしかしてご飯食べてた? それともお風呂?』
男装時とはずいぶん違う、溌剌とした女の子の声だ。
「お風呂です」
『そっかぁ、ごめんね。あたし文字のやり取りがどうも苦手でね。直接話したかったんだよね』
「謝ることじゃないですよ。僕もまだ文字の入力には慣れてないから、どちらかというと電話の方がいいです」
そうでなくとも、僕だって男だ。尊敬する先輩女子から直接話をしたいと言われて嬉しくないはずがない。今も少しだけ気分が高揚している。
「それで、用件はなんでしょう?」
『もちろん、上森対策についての話し合いだよ。あれから、上森からメッセージとかあった?』
「いえ、今のところは……。てっきり、帰ったらすぐ連絡があると思って待ち構えてたんですけど、なんともないですね」
『そっか……。困ったな』
電話の向こうから、ため息が聞こえてくる。
「何がですか?」
『あいつ、今までの失敗から学習して、やり方を変えてきてるね。前みたいに所構わず口説いたりはせず、機会を伺って慎重に攻めてくるようになってる。たぶんメッセージが来ないのも戦略のうちだね。控えめにしておいた方が好印象だって悟ったんでしょう』
「確かに、もやもやした気分にはなりますけど、しつこく来られるよりは気が楽ですね。さっき帰りに会った時も、普通の態度でしたし」
『そうやって安心させて、徐々に話を断りにくい状況に持っていくんだよ』
「ぅ……」
鋭い指摘をされて声が詰まる。
『言っとくけど、上森は今まで何人も女子を攻略してきた強者(つわもの)だからね。油断しちゃダメ。あたしたちだって、去年あいつの誘いを断るのに苦労したんだから。危うく乗せられそうになったこともあったくらいだよ』
そんなにか。
「でも、だからといって拒絶するわけにはいきませんし、いったいどうすれば?」
『要所を押さえて封じるしかないでしょうね』
「要所?」
『そ。さしあたって、上森は鹿内君をデートに誘う機会を伺ってるわけでしょ? それも、あんまりしつこいのはダメって分かってるから、一度誘ってから次に誘うまでは時間が空くわけ。だから、今日みたいに二人きりになる機会を潰すことで時間稼ぎをするの。そうして、その間に根本的な解決策を考える。どう?』
熊楠先輩は得意気な口調だが、その方法には致命的な欠点がある。
「携帯メッセージはどうするんですか? 学校でいくら妨害しても、メッセージ機能を使えばいつでも連絡が取れるんですよ?」
『メッセージで攻めて来たら、むしろありがたいくらいだよ』
「どうしてですか?」
『だって、メッセージならすぐに返事しなくてもいいでしょ? みんなで作戦会議してから返信すればいい。しかもメッセージだって一回は一回だから、上手く断ればしばらくは誘ってこなくなるよ』
「あ、そっか」
『もちろん、あいつもそんなことくらい分かってるでしょうから、直接来る可能性が高いと見た方がいいね。メッセージでは、せいぜい遠回しにそれっぽいこと言ってくるくらいでしょ。最近そういうことなかった?』
「そういえば、さりげなくケーキバイキングに誘われたことが……」
『その時は断ったの?』
「はい。少食だからバイキングは無理って言いました」
『で、その後もしつこく誘ってきた?』
「いえ、どんなお菓子が好きか聞かれただけです」
『やっぱり。それ、本気で誘ってるわけじゃないから軽く流していいよ』
「はぁ……」
『それにね、たぶんあの男のポリシーみたいなものなんだろうけど、あいつが本気の時はメッセージ機能に頼らず直接言うんだよ。少なくとも、あたしと惺香と本居先輩の時はそうだった。やっぱり、ここ一番って時は直接言う方が心に響くことが分かってるんだろうね』
「なんかすごいですね。そういうところは男らしくて憧れるかも」
『なに言ってんの。本気になったあいつに捕まったら、そう簡単には逃げられないんだからね! あいつの持つ謎の説得力には本居先輩だって手こずるくらいなんだから。鹿内君みたいに気の小さい子は、ずるずる流されて気が付けばゴールインしちゃってるかもよ?』
「そ、それは困ります!」
『でしょ? だから、とにかく鹿内君が上森と二人きりになる機会を徹底的に潰すの。もちろん、あたしだけじゃ無理だから、小乗と本居先輩と、できれば下倉にも協力してもらう。場合によっては今井ちゃんにも支援を要請する。こうなったらもう、この機会にあいつとの因縁を終わらせよう! 男女問わず哲学部の平穏のためにも鹿内君、協力して!』
「は、はい」
すごい気合いだ。いつの間にか僕の方が協力することになっている。去年は去年でいろいろあったんだろうなぁ。元々少人数の哲学部が分裂したくらいだし、当然か。
『それじゃ、具体的な作戦会議に移ろっか。まずは――』
熊楠先輩との電話会議で、次のような行動指針が決まった。
まず、朝はギリギリ遅刻しないくらいの時間に登校することで上森先輩からの接触を防ぐ。
普段、余裕を持って行動する僕にとっては少々苦しいが致し方ない。
次に昼休み。部室にお弁当を食べに行く時には、必ず小乗先輩が来ることを確かめてから行く。小乗先輩が休みの時には寂しいが教室で食べる。
そして、最も危険な時間帯である部活後は、先輩たちと共に妨害工作を実行することで接触を防ぐ。
僕が着替えている間は部室の付近で待つことは遠慮してもらっているので、出てきたところを待ち伏せされる恐れはない。また、部室から待ち合わせの場所である図書室までの道のりは小乗先輩に見張ってもらうから安心だ。図書室は階段を降りてすぐの位置にあるので、隠れられる場所もない。
図書室で合流したら、一緒に職員室に鍵を返しに行く。
その後、小乗先輩と別れて一人で一年生の自転車置き場に行くここが最も危険。
かといって毎日自転車置き場まで小乗先輩について来てもらうのも不自然だ。
下手をすると、上森先輩と小乗先輩の間に亀裂が走りかねない。
よって、一時的に二年生の自転車置き場を使わせてもらうことで相手の目をくらます。
自転車置き場は全校生徒の人数分用意されており、徒歩やバスで通学する人たちのスペースが余っているから一台くらい増えても問題ない。とはいえ、一年生の自転車が毎日置いてあれば、そのうち報告されてしまうだろう。いや、二日連続でも危険だ。この目くらましを使えるのは一度きりと思った方が良い。
そこで第二の作戦。
部活が早く終わった時は、小乗先輩と図書室で勉強会をして最終下校時刻ぎりぎりまで時間を稼ぐのだ。もちろん、何度も続けては上森先輩に悪感情を抱かせることになるので、この作戦も一度きりとする。
よって、また次の作戦。
先日のように、女子部が休みの時は熊楠先輩が男装したまま行動できるので、おしゃべりに夢中でつい一年生の自転車置き場まで一緒に来てしまったということにして、僕が一人きりになる隙をなくすことができる。当然、新井先輩と水澄さんが学校に残っていないことを念入りに確かめた上で実行しなくてはならない。
ちょっと無理やりっぽくて苦しいので、これも一度きりの作戦だ。
週一回は、放課後に水澄さんと会う約束があると言って回避できる。
そして、週一回は部活を休む。
僕は今まで部活がある日はほとんど休まず出ていたが、これからは週一回だけ休むことにした。もし理由を聞かれたら「勉強をするため」と答えればいい。しかも、これは嘘ではない。一応、大学への進学が僕の目標だから、今のうちから勉強しておいても損はないだろう。
これで来週五日間の上森先輩封じ作戦が完成だ。
しかし、まだ大きな問題がある。
熊楠先輩が女子哲学部に参加できなくなってしまうことだ。一日や二日なら適当に理由を付けて休めばいいが、長丁場になったら新井先輩と水澄さんを誤魔化せなくなる。
そこで、熊楠先輩が男装して男子部に参加する日を絞ることにした。簡単に言うと、上森先輩が部活に出る日は熊楠先輩も男子部に出る。上森先輩が出ない日は普通に女子部に参加する。上森先輩の出席率はだいたい週三、四日なので、女子部に参加できるのは週一日か二日になる。それでは女子部に参加する割合が少ないので、上森先輩が参加する日に僕が休むことで、なんとか日数を調整した。
そんなわけで、明くる日。
関係者各位に協力を要請した上で、作戦を決行する。
作戦目標は上森先輩と二人きりにならないこと。そのためには、二人きりになりそうな機会をあらかじめ封じてしまうこと。
幸い、今の上森先輩はあまり無茶なアプローチはしてこないので、熊楠先輩が言ったとおり要所を押さえれば問題なくやり過ごすことができた。
家に帰ってからもお誘いのメッセージは送られてこない。これも熊楠先輩の予想通りだ。
本当にこの人に相談して良かった。
上森先輩の潔さにつけこんでいる部分もあるので多少心苦しくはあるが、まさか攻略されてしまうわけにはいかないので油断は一切しない。
熊楠先輩の負担が大きいので少し心配だったが、「疲れるけど楽しいからいいよ」と言ってくれた。その前向きなところが羨ましい。
しかし、作戦が上手くいったところで嬉しいわけでもない。これは一時凌ぎにすぎないからだ。今は上手くいっていても、時が経てば経つほど熊楠景に対する疑惑は膨れ上がる。
そうなる前に、一刻も早く上森先輩に攻略を諦めさせる方法を考えなければ。
なんとか平日の五日間を乗り切り、無事に迎えた土曜日。休日。
今後のことを話し合うために、僕と熊楠先輩と本居先輩の三人が集まる。
このメンバーになったのは熊楠先輩の提案だ。小乗先輩は恋愛の話が苦手だし、下倉先輩はお金で解決する話しかしないので、今回は出席を控えてもらったという。
時刻は午前九時。場所は熊楠先輩の家の近くにある商店街の喫茶店。前に水澄さんのお父さんに連れられてきた店である。
こんな言い方をするのは申し訳ないが、ここはお客が少なくて周囲に話を聞かれる心配がないということで選ばせてもらった。
クラシックな雰囲気の店内に入ると、角の席に座る熊楠先輩が手を上げて知らせてくれる。
本居先輩も一緒だ。
「鹿内くん、こっちだよー。おはよー」
熊楠先輩は口調も服装も女子仕様。前にショッピングモールで会った時は男装していたので、普段の私服姿を見るのは初めてだ。
七分丈のシャツとチノパン、足元はスニーカーというボーイッシュな服装ではあるが、髪型と顔の印象が違うので普通に女の子にしか見えない。何より胸が平坦でないのが決定的だ。
「おはよう……」
本居先輩はとても眠たそうな顔をしていた。声にも張りがない。
もしかして朝は弱い人だったのかな?
だとしたらごめんなさい。知らなかったもので……。
でも、さすが身だしなみはピシッとしている。服装はオフィスレディ風とでも言うのか、女性社員が着るスーツのような服に近い。そのまま会社に出勤しても問題なさそうな姿だ。眠たそうなところが残業で疲れているように見えて、かえって大人っぽい。
「おはようございます。休みの日に来てもらってすみません」
軽くお辞儀をした後、熊楠先輩の隣の席に座らせてもらう。本居先輩は斜向かいだ。
すでに先輩二人の前には飲み物があったので、僕だけ追加でアイスコーヒーを注文する。
話の途中で店員さんに来られては困るので、注文が届いてから話し合いを始める。
「それで、上森君をどうにかする良いアイデアは思い付いたの?」
最初に口を開いたのは本居先輩だ。
「いえ、残念ですが、まだ……」
僕はテーブルの上に視線を落とす。
「あたしも全然。ってか、女子部と男子部を行ったり来たりで考える余裕なかったわ」
熊楠先輩は気だるそうに両手で頬杖をついた。
「先輩は何か思い付いたの?」
「そうね……」
本居先輩はゆったりとした動作でコーヒーカップに口を付けた後、覇気のない声で言う。
「哲学部とは別の、外部の誰かに夢中になってくれればいいんだけどね。でも、紹介するツテも義理もないし、どうしようもないのが現状ね」
困ったな。頼みの本居先輩がこんな状態とは。午後からの方が良かったかな?
熊楠先輩がため息をついてからぼやく。
「上森の奴、良くも悪くも変わったからなぁ。あたしたちがなに言っても変わらなかったのに。後輩ポイントが高かったのかな? 実はあいつ年下好き?」
本居先輩も軽くため息。
「そうかもね。あの男のストライクゾーンは広大だけど、同じストライクゾーンでも、ど真ん中とそうでない所はあるでしょう」
「つまり、上森を夢中にさせるにはど真ん中に近い相手を用意しなきゃいけないわけだ。女装した鹿内君に匹敵するくらい可愛い女の子……いや、男の子? 男の子の方がいいのかな?」
眉を寄せて、こちらを見てくる熊楠先輩。
これまたややこしい話だ。
「う~ん、どうでしょう? 下倉先輩の話では可愛いければ性別は関係ないらしいですから、どっちでもいいんじゃないですか?」
「でも……」
本居先輩が「ふぁ」と小さな欠伸を挟んでから反論する。
「単に可愛い女の子なら、どこにだっているでしょう。男の子なのに――っていうギャップみたいなものが重要じゃないの?」
「そ、そうでしょうか? ……いや、そうかも」
そういえば上森先輩は当初、『見た目は派手なのに中身は清楚な女子』という特殊な相手を探していた。本居先輩の意見が的を射ている可能性は充分にある。
ギャップ。
これこそが問題解決の糸口になるかもしれない。
熊楠先輩が胸の前でポンと手を合わせ、明るい口調で言う。
「よし! それじゃあ、鹿内君以外の女装男子を探して、上森とお見合いさせよう! それで上森がその子とくっついてくれれば万事解決じゃん。むしろそれしかなくない?」
「でも、そんなのどうやって探すんですか? 見て分かるようなレベルじゃ上森先輩のお眼鏡には適わないでしょうし、誰か紹介してもらえるツテがないと――」
そこまで口にしたところで僕はハッとした。
いた。
上森先輩のことで困った時は必ず僕らを助けてくれる、コスプレ好きの先輩女子が。
僕が察したことに気付いてか、熊楠先輩はニヤリと不敵な笑みを浮かべる。そして、ハンドバッグから空色のケースに包まれた携帯電話を取り出す。
「じゃあ、さっそく今井ちゃんに頼んで、飛びっきりの女装男子を紹介してもらおうじゃないの。あの子の同類ネットワークは半端じゃないからね。きっとすごい子が出てくるよ!」
熊楠先輩、すっかり元気を取り戻してるな。楽しさで疲れが吹き飛んでるみたいだ。
でも、このアイデアはハイリスクと言わざるを得ない。
「待ってください! これ以上あの人に借りを作るのは危険じゃないですか? 前に部室を貸してもらった分の借りもありますし、迂闊に頼み事をすると何をさせられるか……」
以前、彼女に頼み事をした僕はメイド服で給仕をさせられた。またあんなことがあると思うと、身体が震えそうになる。
そんな僕とは対称的に、熊楠先輩は口元を緩めて愉快そうに笑う。
「あはは、大げさだなぁ、鹿内君は。大丈夫だよ、今井ちゃんは正統派プロデューサーだから法を犯すようなことはしないって」
「確かに、あの人はマナーにはうるさいですけど、違法でなくても恥ずかしいのは困ります。っていうか、プロデューサーってなんですか? コスプレイヤーとは違うんですか?」
「そうそう。あの子コスプレ好きなんだけど、自分自身がコスプレすることはなくてね。部内では監督みたいな立ち位置なんだよ。あと衣装制作とかスカウトもする、いわば裏方のスペシャリストだね」
「それは初めて知りました。でも、人にばっか着せて自分が着ないなんてズルくないですか?」
「う~ん、ズルいというか、趣味の違いじゃないかな? 例えばスポーツ好きの中にも、スポーツするのが好きな人と、観戦するのが好きな人がいるじゃない? その違いだよ」
いや、その理屈は正しいんだけどおかしい。
「ええと、僕はコスプレするのも見るのも好きじゃないんですが……」
「それはあれだよ。興味がなくても才能があればやるべきじゃない? 最初は嫌々でも、そのうち好きになることだってあるんだしさ」
他人事のような言い様に少しカチンときたので、僕は目を細めて率直に返す。
「僕に限っては絶対ないと思います」
すると、熊楠先輩はムキになって口を尖らせる。
「そんな風に決めつけちゃダメだよ。この世に絶対はないんだからね。今は自覚してないだけで、この先、鹿内君が女装に目覚める可能性だってあるんだよ?」
「ありません」
僕は負けじと率直に返す。
熊楠先輩もますますムキになる。
「だから絶対ではないんだってば。一○パーセントくらいはある」
「そんなにありません。仮にゼロではないにしても、0.00000001パーセント以下です」
「えー、そんなに? せめて一パーセントくらいは残しておこうよ」
「数字は別にどうでもいいですけど、絶対といって差し支えないことに違いはありませんからね」
「たとえ億単位のお金が転がり込むとしても?」
また妙な質問を真顔でする。
「どうやったらそんなお金が転がり込むんですか?」
「人気アイドルになるとか? 鹿内君なら可能性あると思うよ」
そんなことをしれっと言う。
でも、僕だって突拍子もない意見には慣れてきているのだ。その程度で平静は失わない。
「下倉先輩と同じこと言わないでください。アイドルなんて一○○億円積まれてもやりませんよ」
ピシャリと言い放つと、熊楠先輩は「うわぁ」と声を出して、座ったまま少しだけ身を引いた。
「なんか小乗に影響されてない? 確かに人生お金の問題じゃない部分はあるけどさ、金額次第では検討くらいした方がいいって。とりあえず現役時代は恥ずかしいの我慢して、引退したら遠い異国の地に移住するって手もあるし。あるいは、整形して改名して別人になりすますとかさ、選択肢は無数にあるんだよ? それを早々に切り捨てちゃっていいの?」
「ぅ……」
その発想はなかった。
確かに、国内ではトップクラスの芸能人でも海外へ行けば無名だなんてザラにある。僕だって海外の芸能人はほとんど知らない。お金があって犯罪歴さえなければ、誰も知らない遠くの国でリセットすることは可能だ。
熊楠先輩は畳み掛けるように続ける。
「それに公務員一本に絞って、もしなれなかったらどうするの? どっかのブラック企業で安い給料で無能な上司にパワハラされる屈辱的な毎日を送ることになるんだよ? スターになって注目されるのと、どっちがいいの?」
熊楠先輩がこちらの席に身を乗り出してくる。
今度は僕が椅子の上で身を引く。
「どっちがの前に、社会に対するイメージ偏りすぎでしょう。熊楠先輩こそ、下倉先輩に影響されてませんか?」
苦々しい表情で急に固まる熊楠先輩。
それから、気持ち悪そうに口元を押さえ「ぅぅ・・・・・・」と声を漏らす。
「言われてみればそうかも……。知らない間に下倉に影響されてたなんて、冗談じゃないわ」
そこまで嫌なのか。
まあ、下倉先輩も妙な人ではあるけど、言ってることには説得力あるからなぁ……。
それに熊楠先輩の場合、いつも帰りの遅い親の影響が大きいかもしれない。
「でもさぁ……」
熊楠先輩は何か言いたそうにしながらも言葉を飲み込み、降参するように手のひらをこちらに向けてきた。
「いや、この話はやめとこっか。いつの間にかメチャメチャ脱線してるし。ていうか、本居先輩?」
そういえば、やけに静かだな。こんな話いつでも止めてくれてもよかったのに。
斜向かいの席を見ると、本居先輩は九割くらい目を閉じて、うつらうつらとしていた。
「あらら、先輩おねむ?」
熊楠先輩が声をかけたことで、ハッと目を覚ます。
僕も心配で声をかける。
「もしかして具合悪いんですか? それなら、今日は無理せず帰った方が……」
「いえ、ごめんなさい」
本居先輩は謝りながら小さくかぶりを振った。
「ただの居眠りだから気にしないで。昨日、寝すぎて眠いの」
え? 今なんて?
なんだか本居先輩らしからぬ理由が聞こえたような。
小首を傾げると、熊楠先輩が丁寧に説明してくれる。
「あ、鹿内君は知らなかったっけ。本居先輩って寝るのが趣味なんだよ。朝二度寝して、昼寝して、夕方もちょっと寝て、あと隙あらばうたた寝するんだよね」
「そ、そうだったんですか……」
そういう趣味がおかしいとは思わないが、いつも真面目で威厳のある本居先輩にしては意外だ。やはり人は見かけによらない。
「ええと、今井さんに協力してもらうってところまでは聞いてたけど、その後はどうなったの?」
申し訳なさそうに尋ねる本居先輩に対し、熊楠先輩は照れ笑いをして返す。
「あ、気にしなくていいよ。ちょうど脱線して話が進んでなかったから。それで、今井ちゃんに女装男子を紹介してもらって上森とくっつけるのが一番の方法だと思うんだけど、どうかな? 他に良い案ある?」
そう問われると反対しづらい。
人の意見に反対する以上、代替案を出すのは議論の基本だ。ただ反対するだけでは議論の妨げにしかならない。これも男子哲学部で教わったことだ。
僕が迷っているうちに、本居先輩が答える。
「今のところ思い付かないわね。とりあえず今井さんに相談してみて、上手くいきそうならそれでいいんじゃない?」
やっぱり、そうなりますよね……。
今井さんの恐ろしさを知らない人にとっては当然の意見だ。実際、有効な手段ではある。
でもね、毒をもって毒を制した後、残った毒で苦しむのは僕なんです。
そこは理解してほしいです。
熊楠先輩が電話で今井さんと話していると、よく通る甲高い声がこちらまで聞こえてきた。
『ちょっと待っててくれる? すぐに当たってみるから』
それから、喫茶店で三○分くらい待っていると、上森先輩と会ってくれるという女装好きの男子が見つかったと報告がきた。しかも二人。
いったいどういうネットワークを駆使したらこんな短時間でそんな奇特な人が二人も見つかるのだろう? ことコスプレに関しては恐るべき有能さだ。
時を置かずして、熊楠先輩の携帯電話にその二人の画像が送られてきた。『本人の許可は得たよ』という一文が添えられている。相変わらずこういうところは真面目だ。
「じゃあ、まずは一人目をっと」
熊楠先輩の指先が添付画像の部分に触れると、モデルのように綺麗なお姉さんが携帯画面に映し出された。
緩くウェーブのかかった茶色いロングヘア。肌の露出が少ない、ゆったりとした服装。まるで聖母のような慈愛に満ちた笑顔。それらが見事に調和し、優しいお姉さんオーラを目一杯醸し出している。
「え、これが男の人ですか!?」
「どう見ても綺麗なお姉さん……だよね?」
「まさか画像の送り間違えじゃないわよね?」
僕も熊楠先輩も本居先輩も、まずは手違いを疑ってしまう。それほどのレベル。
立ち姿に後ろ姿、横顔。それから、街中を歩く姿、コーヒーカップを手にする姿。どれを見ても男性らしさが見つからない。
画像の彼女(彼?)の簡単な紹介文があるので、そちらにも目を通してみる。
名前は如月庵(きさらぎいおり)さん(仮名)。十八歳。大学一年生。趣味はお菓子作りと映画鑑賞。
仮名というのが少々気になるが、これ以上ないくらい女性らしい女性だ。
――いや、女性らしい男性か。ややこしいな。
熊楠先輩は苦々しい表情で唸る。
「う~ん、今井ちゃんの紹介ならきっとハイレベルだろうとは思ってたけど、まさかこれほどとは……。ちょっと悔しいな。どう見てもあたしより可愛いし」
そうかな?
この人と熊楠先輩ではタイプが違うから、悔しがるようなことではないと思うけど。
下手なフォローは危険なので、ここは黙っておく。
「まあいいや、二人目いこっか」
それにこの先輩、切り替え早いしね。
もう一つの添付画像に指先が触れる。
次に現れたのは、目がパッチリとしたショートヘアの女子高生だった。
いや、だから女子高生じゃないって。この人も女装男子のはずだ。でも、高校の女子制服を着ているから女子高生にしか見えない。しかもミニスカート。その目のやり場に困る位置から伸びるほっそりとした足は、男とは思えないしなやさを感じさせる。
背景から推察するに、ずいぶん小柄な人だ。身長一五八センチ体重五○キロの僕と同じくらいだろう。
「うわ、この子も可愛い! 鹿内君といい勝負じゃない?」
熊楠先輩が画像の女装男子と僕を見比べてくる。
張り合うつもりは毛頭ないので「いえ、僕の負けです」とキッパリ告げる。
実際、いつもおどおどしている自分より、弾むような笑顔を向けるこの人の方が何倍も輝いて見えた。
名前は高梨深月(たかなしみつき)さん(仮名)。十六歳。高校二年生。趣味はテニス。もちろん、テニスウェアも女性用だ(プレイ中の画像があった)。
本居先輩が席で姿勢を正し、複雑な表情で言う。
「画像だけでは判断できない部分もあるけど、この子たちなら上森君を夢中にさせてくれるかもしれないわね。でも、本人たちの意思はどうなの? 自分の意思で上森君に会いたいと思ってるの? 最初に提案したわたしが言うのもなんだけど、生け贄にするようなことはちょっと気が引けるのだけど……」
「それもそうだね。ちょっと確認してみよっか」
熊楠先輩が再び今井さんに電話をする。
「――うん。――そう。――うんうん。分かった」
数分で通話が終わり、返ってきた言葉は完全に想定外のものだった。
「なんかね、上森が合コンを企画してるんだって。それで、その合コンにこの女装男子二人が参加するらしいんだけど、あたしと鹿内君にも参加してほしいんだってさ。あ、正確にはあたしじゃなくて、男装した方のあたしね」
あまりの展開に、僕は驚愕の声を上げる。
「ええ!? それじゃ男だらけじゃないですか! そんな合コン聞いたことありませんよ」
合コンに興味はないが、それが男女の出会いの場であることくらいは知っている。男装した熊楠先輩を男と仮定するなら、参加者全員が男ということになる。それでは合コンが成り立っていない。
しかし、熊楠先輩はそれを笑って否定する。
「なに言ってんの、女装男子は女の子側でしょ。だから三対三にするために、もう一人男子を呼ぼうかって言ってたくらいだよ」
……ん? 男子を呼ぶ? 女子じゃなくて?
それって、まさか――
「ちょっと待ってください! ひょっとして僕も女子側ですか?」
「そうみたいだね」
熊楠先輩の返事には笑い声が混じっていた。明らかにこの状況を楽しんでいる。
でも、こっちはそうはいかない。
「ダメですよ。僕は部室以外では女装しない約束ですから。断ってください」
「えー、楽しそうじゃん。せっかくだし行こうよ。あ、費用は男子側が全額負担するって言ってたから、鹿内君は奢ってもらえるよ」
「それでもダメです」
「えー、つまんない」
熊楠先輩は子供みたいに頬を膨らませて抗議してくるが、一切取り合わない。
「ダメなものはダメです」
ここで流されてしまったら、その後もずるずる流され続けて抜け出せなくなってしまう。
例外は水澄さんと外で会う時だけ。これを鉄の掟にしなければ。
そう決意を固めようとしたところで、本居先輩が静かに意見してきた。
「鹿内君、今回は参加した方がいいと思うわ」
一瞬、耳を疑う。
「え、え? どうしてですか?」
熊楠先輩と違い、本居先輩の態度は真面目そのものだ。ここへ来た時のような眠た顔はどこにもなく、いつものように威厳のある声を発する。
「みんなで集まるなら、上森君と二人きりでデートするより安全でしょ? いつまでも彼を避け続けることはできないんだし、そろそろ決着をつけた方がいいと思うわ」
「でも、僕なんかが行かなくても女装男子の二人が上手くやってくれるんじゃないでしょうか? ひょっとしたら上森先輩の罠かもしれないし、わざわざ引っ掛かりに行かなくても……」
「あなた、本気でそう思ってるの?」
その苛立ちの籠った口調に、全身がビクッと跳ねる。
本居先輩がこちらを睨んでいる。
「知らない人に任せきりにして自分は何もしないなんて、虫が良すぎるんじゃない? その二人が上手くやってくれるとは限らないんだし、せめて様子くらいは見ておくべきでしょう? 行動を起こすことで打開策が見つかる可能性だってある。口先だけの哲学に意味はないって、小乗君から教わらなかった?」
「ぅぅ……」
あまりの迫力と正論に、返す言葉もない。
それは小乗先輩と初めて会った時から幾度となく聞かされてきた言葉だ。
哲学は机上の学問にあらず。
行動が伴わない哲学は哲学にあらず。
まさに哲学の基本中の基本。
それを忘れていた僕に対する本居先輩のお怒りは至極当然だ。
でも――
それでも、女装して出掛けるのは怖い。万が一にも家族や水澄さんにバレてしまった時のことを考えると、とても平静ではいられない。
想像しただけでガタガタと身体が震えてくる。
そんな僕の肩に、ポンと優しく手が置かれた。
先ほどまでとは違い、優しく微笑む熊楠先輩だった。
「大丈夫だよ、あたしが付いてるから。もし何かあったらあたしが助けてあげる。だからちょっとだけ勇気出して行こ?」
肩に触れた手が暖かい。徐々に震えが収まっていく。
怖いのは嫌だ。でも、ずっと怖いままなのはもっと嫌だ。
本居先輩の言うとおり、いつまでも時間稼ぎばかりしてはいられない。どこかで勝負に出なければ。
そして、それは今だ。今、動かなければ――
「……わ、分かりました。何ができるかは分からないけど、とにかくやってみます。だから先輩、力を貸してください」
不意に、熊楠先輩の暖かい手が僕の手をギュッと包み込んだ。
金山ひかりの正体を告げた、あの時のように。
トクントクンと高鳴る鼓動が聞こえてくる。
でも、不思議と心は穏やかだ。
僕に向けられた、優しい笑顔のおかげで。
「うん、任せて」
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