第5話 パワハラされるために勉強するの?
週明け、放課後。
僕はいつもどおり男子哲学部の部室で女子の制服に着替える。つい先日、怖い目に遭ったばかりだというのに、またこの夏服を着ていることを不思議に思う。
でも、逃げてばかりはいられない。逃げた先には何もない。これが僕の運命だというなら、逃げずに克服しなければ。
打てる手はすでに打った。後は男装した熊楠先輩が上手くやってくれるかどうかだ。
僕がすべきことは、初対面の振りをすることと、なるべくいつもどおり振る舞うこと。それさえ気を付けていれば、きっと上手くいく。
服を替え、カラーコンタクトをつけ、ロングヘアのウィッグをつけたら女装完了。スカートの丈は先日より微妙に長くしておいた。
着替え終わったらすぐに部室の鍵を開ける。
直後、コンコンと扉を叩く音がした。ちょうど来たようだ。
「ど、どうぞ」
応えると、扉が開いて先輩三人が入ってくる。
まだ熊楠先輩の姿はない。
「よう、ひかるちゃん。今日も夏服が可愛いね!」
上森先輩は軽口を叩きつつ、鞄をロッカーに入れて自分の席に着く。
小乗先輩と下倉先輩も席に着いた。
さすがに昨日の今日ということもあって、いやらしい視線や無断撮影の気配はない。そうでなくても、セクハラ紛いの行為に関しては小乗先輩がいれば大丈夫だろう。
「で、例の新入部員君はいつ来るんだ?」
上森先輩が部長に聞く。
「もうじき来るだろう。彼は特進科で校舎が遠いからな。多少遅れるのは仕方あるまい」
特進科とは特別進学科の略で、大学に進学するための勉強を集中して行うコースのことだ。男子哲学部及び女子哲学部のメンバーは全員が普通科なので、今のところ接点はない。
普通科の校舎から部室のあるこの校舎には連絡通路を伝って来ることができる。
それに対し、特進科の校舎は少し離れた位置にあるので、一度下履きに替えて移動してこなくてはならない。男子の姿に変装する時間を考慮すればタイミング的にはちょうど良い。
ちなみに、着替えにはコスプレ部の部室にある試着室を使わせてもらっているらしい。
それに際し、今井さんとの間でどういった取引が交わされたかは分からない。
待っている間、徐々に鼓動が高鳴ってくる。先日学校でも商店街でも誰にも男装がバレなかったけど、上森先輩にも通じるだろうか? もしバレたらどうなるのだろうか? 激怒されるようなことはないと思うけど、やはり不安は尽きない。
しばらくして、コンコンと扉を叩く音がする。
小乗先輩が、すぐに立ち上がって扉を開けた。そして、柔らかな笑みを浮かべて言う。
「ようこそ、男子哲学部へ。我々は君の入部を歓迎するよ」
「ありがとう。失礼するよ」
熊楠先輩が軽やかなあいさつと共に入ってくる。
緊張がいよいよピークへと達する。
果たして、上森先輩の反応は――
「お、やっぱ兄妹だけあって歩巳ちゃんと似てるな」
普通に笑顔。気付いてない! 第一関門は突破だ。
ある意味最大の山場を乗り越えられたおかげか、鼓動が急速に収まっていく。
「まずはここに座ってくれ」
小乗先輩に促され、熊楠先輩は新しく用意された席に座る。僕から見て向かい側の席の左手側だ。間に小乗先輩を挟んで、その隣が上森先輩だから、お互い顔が見づらい位置ではある。細かいが、ちょっとした工夫だ。
席に着いた部長が、全員を見渡すようにして言う。
「昨日連絡したとおり、男子哲学部に新しい仲間が加わることになった。今日から夏休みまでの短期入部ではあるが、彼にやる気があることは私が保障する。ではさっそくだが、自己紹介を頼む」
指名された新入部員の先輩が、全員に向かって軽快に言う。
「はじめまして。俺は特進科三年の熊楠景。短い間だけど、みんなよろしく。それから、もう聞いてると思うけど、女子哲学部の歩巳とは兄妹なんだ。妹は家族のことあまり話さないみたいだし、特進科は校舎が違うから、小乗以外には最近まで知られてなかったみたいだね」
「そうそう、びっくりしたぜ。昨日いきなりだったからな」と上森先輩。
まあ、つい最近決まったことですから。
熊楠先輩が続ける。
「小乗とは同じ中学の出身で、今回入部を決めたのも小乗に進路相談を持ちかけたことがきっかけなんだ。自分が何をしたいのかを知るには、自分なりの哲学が必要だと教わってね」
なるほど、それが入部の理由か。
この時期に三年生が入部するなんてかなり特殊なケースだろうから、理由はどうするのかと心配していたが、むしろ受験生だからこそという方向できたか。
「紹介はこんなところだけど、何か質問はあるかな?」
熊楠先輩が聞くと、上森先輩が真っ先に反応する。
「呼び名とか言葉遣いはどうする……っすか? 先輩だけど新入部員って立場は微妙だし、先にハッキリさせときたい……んすけど」
微妙に敬語が混じった歯切れの悪い口調だが、鋭い質問だ。
「呼び名は、苗字で呼ぶと妹と同じで紛らわしいから名前の方で呼んでくれると助かるね。それから、敬語は使わなくていいよ。年上だけど新入部員ってことで、対等に接してくれると嬉しいね」
「よっしゃ、そういうことなら遠慮なくタメ口でいかせてもらうぜ! よろしくな、景!」
本人希望とはいえ、いきなり呼び捨てとは……。さすが上森先輩だ。
二年生の先輩たちと対等ということは、僕は敬語を使った方が良さそうだな。呼び名は熊楠先輩ではなく〝景先輩〟か。もう心の中でも〝景先輩〟に変えておこう。
他に質問がなかったので、景先輩は部長に話を進めるよう目配せをする。
すると、部長が声を出す前に、上森先輩が自己紹介を始めた。
「俺は二年の上森和だ。俺のことは遠慮なく上森って呼んでくれ。ちなみに、俺の哲学は人生における幸福を追求することだ。進路のことで悩んでんなら、俺にも相談してくれ。進路だろうと何だろうと、人生が楽しめるかどうかって話に違いはねえからな。俺が真の幸福ってヤツを教えてやるよ」
「ははっ、それはすごいね。ぜひ相談させてもらうよ」
熱い自己紹介に、軽やかに応じる景先輩。
続いて、僕の隣の席に座る細目の先輩が、いつものまったり口調で自己紹介する。
「同じく二年の下倉宗だよー。呼び方は好きにしてねー。ええと、勝ち組になって一度きりの生を存分に謳歌するのが自分なりの哲学かな。今の日本で勝ち組になる絶対必要条件はお金だと思ってるから、ビジネスの話に興味があったら声かけてねー」
こっちの先輩もさすがだ。ぶれない。マイペースが得意と言うだけのことはある。
さて、小乗先輩とは知り合いという設定だから、次は僕だ。
「一年の鹿内光流です。こう見えても男子です。僕がこんな格好をしているには、ワケがありまして……」
「あ、それは小乗から聞いたよ。別に変とは思わないから安心して。むしろ、いいんじゃないかな。すっごく可愛いと思うよ」
「え? あ、ありがとうございます」
あまり嬉しくない褒め言葉だが、一応お礼は言って自己紹介を続ける。
自分なりの哲学を言う流れみたいなので、僕もそれに従う。
「ええと、僕は自分が本気でやりたいと思うことを見つけるのが目標です。でも、それと同じくらい今を大事にするのが僕の哲学です。まだ入部して二ヶ月足らずの未熟者なので、これが哲学と呼べるかどうかは分かりませんが……」
「いや、それはそれで立派だと思うよ。鹿内君がこの男子哲学部をどれだけ好きか伝わってきたよ。俺も鹿内君くらい、この部を好きになりたいな」
熱い視線を積極的に送ってくる景先輩。
打ち合わせどおり、初手から攻めてきているな。ちょっとわざとらしい気もするが、たとえ演技でも褒められて悪い気はしない。本心が全く逆ってことはないだろうしね。
ともかく、これで自己紹介は終わり。
ひと呼吸置いてから小乗先輩が言う。
「ふむ、それでは、さっそく議論を行うとしようか」
「ああ、待って」
景先輩が口を挟んだ。
「せっかくだから、小乗の哲学も聞かせてくれないか。小乗の考え方はだいたい知ってるつもりだけど、簡潔に言うとどうなのか聞いてみたいんだ」
「それは構わないが……」
小乗先輩は困ったような表情で微かに視線を落とす。
そういえば、小乗先輩の哲学がどんなものかハッキリ聞いたことがなかったな。
なぜか言いにくそうな様子だけど、どうなのだろう?
「あえて言うなら、一過性の真理に流されず生きていくことだろうか。時代の風潮に流されず、と言った方が分かりやすいかな。周囲がどうであれ、世界がどうであれ、私は私の真理を追求する。そんなところだ」
そう静かに述べた後、
「すまない、抽象的で分かりづらいな」と付け足し、微かに視線を落とした。
確かに難しい。
きっと僕なんかより遥かに高い次元で悩んでいるのだろう。
そんな小乗先輩に対し、景先輩は軽い調子で言う。
「うん。まあ、なんとなく言わんとしていることは分かるよ。要するに、目指すところは皆同じなわけだ。そこまでの到達手段がそれぞれ違うというだけでね。そうじゃないかな?」
小乗先輩は顔を上げて目を丸くする。
それからフッと軽く息を吐き、穏やかに微笑んだ。
「そうかもしれないな」
ここまでは順調だ。上森先輩は景先輩のことを微塵も疑っていない。見た目や口調については完全に騙せていると言えるだろう。
しかし、議論をすればその人の考え方が浮き彫りになる。そして、ここにいる先輩たちは去年幾度となく議論を交わしているから、互いの考え方をよく知っている。つまり、景先輩が去年言ったようなことを何度も言えば、そのうち気付かれてしまうわけで……。これを防ぐには、本来の考え方とは違う意見をしなくてはならない。
自分の意見をまとめるだけでも大変なのに、別人としての意見を出すことなんてできるのだろうか? 今のところ景先輩は余裕のある表情をしているが、やはり不安は尽きない。
「では本日の議題だが――」
小乗先輩はピンと背筋を伸ばした状態で、隣に座る新入部員に顔を向ける。
「景君、君に出してもらおうか。皆で話し合ってみたいことなら何でもいい。一つ上げてみてくれ」
新入部員を真っ先に指名するのは哲学部の伝統のようなものだろうか? 男子部でも女子部でも初回いきなり指名されたことを思い出しつつ、景先輩の意見を待つ。
「そうだなぁ……。じゃあ、さっき言った進路相談を議題にさせてもらっていいかな?」
「もちろんだ。進路と言えば人生の重大な分岐点だ。哲学とも大いに関係ある」
小乗先輩は快く頷いた後、「皆はどうかな?」と同意を求めてくる。
「おう、さっそくか。俺は構わないぜ」
「いいよー」
上森先輩と下倉先輩に異論はないようだ。
「そ、それでお願いします」
無論、僕もない。
小乗先輩は、今日の議題について景先輩と事前に打ち合わせをしておくと言っていた。おそらく、この流れは予定調和なのだろう。
小乗先輩に緊張の色はなく、普段どおりの調子で進行を務める。
「決まりだな。では、景君。進路について、具体的にどんな意見が聞きたい?」
景先輩は少しの間「う~ん」と唸ってから、説明を始める。
「まず大前提としてね、俺は今、勉強意欲を失ってるんだ。というのも、がんばって勉強して一流大学に入ったとして、その先に何があるのかって話さ。まあ、普通は大学卒業したら就職なんだろうけど、その就職っていうのがどうも胡散臭い。ブラック企業とか汚職とかパワハラとかセクハラとか、ひょっとしなくても大人って無茶苦茶じゃないかって思うわけだよ。しかも成績は関係ない。一流大を卒業したエリートが集まる一流企業でも普通にパワハラなんかが横行してるらしいんだ。そうなるともう、何のために勉強するのか分からなくなってくる。パワハラされるために勉強する? 冗談じゃない」
軽い口調ではあるが、言葉から怒りを感じる。
やや大げさな物言いではあるものの、テレビやネットのニュースを見る限り確かにそういう印象はある。大人たちは「ルールを守れ」と言う一方で、ルールを犯しまくっている。よく考えなくともワケが分からない。
景先輩は一息付いてから続ける。
「とはいっても何もしないわけにはいかないし、これまでの努力だって無駄にしたくない。だから聞きたいんだ。自分なりの哲学を持った君たちが、この無茶苦茶な社会でどうやって生きていくつもりなのか。その人生設計みたいなものをね」
まずい、僕の苦手分野だ。
将来の目標については、小乗先輩と第一回哲学議論を行ったあの時から全く考えが進んでいない。作戦のことばかり気にしてないで、なにか考えないと。
「ふむ、人生設計と言えば下倉君の得意分野ではないかな。ここはぜひ先陣を切ってもらいたいのだが」
「いいよー」
部長の言葉に気軽に応じる下倉先輩。
マイペースを維持するのが得意と言うだけあって、まるで緊張感のないまったり口調で語る。
「さっき景君は、無茶苦茶やってる大人が気に入らないって感じのことを言ったけど、正確には自分が無茶苦茶な扱いをされるのが気に入らないんじゃないかなー?」
「え? まあ、そうかな……?」
いまいち歯切れの悪い返事だったが、下倉先輩は「やっぱり、そうだよねー」と言って話を進めてしまう。
「そう、人間ってそういうものなんだよー。つまり無茶苦茶されるのが嫌なら、無茶苦茶する側になればいいんだよー。そのための勉強なら馬鹿らしくはないんじゃないかな?」
相変わらずひねくれた考え方だ。
その突拍子もない意見に、景先輩の表情は困惑している。あれは演技ではなく、本当に困惑してそうな様子だ。
「お、おもしろいことを言うね、君は。よかったら、その無茶苦茶する側になる方法を教えてくれないかな?」
「それはもちろん、勝ち組になることだよー。そして勝ち組になる絶対条件は、お金を払う側の立場になること。つまり投資家になること。これだねー」
出た、勝ち組。来ると思ったよ。
持論を語って得意気な様子の下倉先輩に、景先輩は引きつった表情で尋ねる。
「投資家志望とは、なんともリスキーな人生設計だね……。それ、もし失敗したらどうするつもりかな?」
「さあ、どうだろねー。負けた時のことは考えてないなー。そんなこと考えてもつまらないだけだし」
まるで他人事のように言う猫背の先輩に対し、景先輩は呆れるように笑う。
「……ハハッ、君のその割り切り方は凄まじいな。俺にはとても真似できないよ。でも一つの生き方として参考にはなったかな。ありがとう」
景先輩はお礼を言いつつ、真顔の小乗先輩を見る。
次へいってくれという感じだ。
「ふむ、なんとも下倉君らしい意見ではあったな。内容の是非はともかく、それだけハッキリした考えを持っていること自体は立派だと思う。では次に上森君。君の考えを聞かせてもらおうか」
「おう。と言っても、あいにく俺には人生設計なんてものはないがな。ただ、どんな生き方をするにしても、絶対必要だと思ってるものがある」
上森先輩は全員を見渡すようにした後、自信ありげな表情で言う。
「それは人間力だ。人間社会ってのはな、いくら成績が優秀でも、この人間力がない奴が幸せになるのは難しいんだ。逆に、勉強ができなかろうと運動ができなかろうと、人間力さえあれば人生それなりに楽しくやっていける。そのくらい重要なもんだと俺は思ってる」
力説の合間を縫って、景先輩が聞く。
「その人間力というものが、どんなものか教えてくれないかな。聞いたことはあるんだけど、詳しくは知らないんだ」
上森先輩は快く頷き、話を続ける。
「人間力っていうのは、まあ平たく言えば要領よくやる力だ。俺は去年いくつかバイトをやってたから社会の現状ってヤツを多少は知ってるつもりだが、ブラック企業だろうとなんだろうと、中には上手いこと立ち回る奴がいるんだよ。そいつは特別賢いわけでもないのに、不思議とみんなから好かれ、気が付けばグループの中心にいて、空気を読む側から空気を作る側になってんだ」
そこまで言ったところで、上森先輩はハッと閃いたように大きく目を開く。
「そう、空気だよ空気! 場の空気を操る力。それこそが人間力ってヤツだ。それさえあれば、よほど壊滅的な組織でない限り、どこだって楽しくやっていける。つまり、学力だけでなく人間力を磨くことが幸福への道なんだ! 分かるか?」
話している間にどんどん気迫が増していく。おそらく途中でピンときたのだろう。理論派の小乗・下倉両先輩と違い、感覚派の上森先輩にはそういうことがよくある。
景先輩はその気迫に圧されながらも、落ち着いて口を開く。
「うん。言いたいことはだいたい分かったよ。けど、その人間力ってのはどうやって磨けばいいのかな?」
「それはだな……」
上森先輩は少し腰を浮かせ、椅子に深く座り直す。
そして、ほんの数秒、考えるように目を閉じてから、再び力説を始める。
「とにかく声を出すことだ。俺が知る限り、場の空気ってヤツは基本的に声のデカイ奴が作る。あ、この場合のデカイってのは音量じゃなくて、積極的に発言することな。音量が大事な時もあるけどな。もちろん、あまりうるさすぎると嫌われちまうから、そこんとこ上手く調整できよう経験を積むこったな」
ああ、これ僕が苦手なヤツだ。とにかく「上手くやれ」っていうヤツ。そういう空気的なことは、できる人は教えられなくてもできるし、できない人はどんなに説明されてもできないのだ。景先輩は、どちらかというとできる側の人間だと思うけど……。
上森先輩の威勢に呆れてか、少し苦味の混じった笑みを浮かべていた。
「なるほど、参考になったよ。そういうことなら、俺も人間力を磨くために、ここで積極的に発言させてもらうとしようかな」
「おう、言いたいことはどんどん言えよ。なんせ、ここでの失敗は取り返しがつくんだからな。つかねえこともあるけどな」
どっちだ?
いつもながら上森先輩の意見は論理的でないことが多い。
でも、なぜか説得力がある。不思議な人だ。
ほんの一瞬だけ室内が静かになったところで、小乗先輩が区切りをつける。
「ふむ、上森君の言うとおりだな。議論においては新人も後輩も関係ない。むしろ、新人だからこそ分かることもあるだろう。大事なのは先入観を持たないことだ」
思えば、この人も進行役として発言のタイミングをつかむのが上手い。勧誘活動や交流会を取り仕切る行動力といい、空気を作れる側の人なのだ。
この場で僕と同じ側の人間は、隣でまったりしている先輩だけだな。
――おっと、そんなこと考えてる場合じゃない。
小乗先輩の鋭い目がこちらを向く。
次は僕の番だ。
「さて、そろそろ考えはまとまったかな? まだ高校生活に慣れてきたばかりで進路の話は難しいかもしれないが、今思っていることを率直に話してほしい」
「は、はい」
人の話を聞きながら自分の意見をまとめるのは難しいが、議論とはそういうものだ(そもそも会話がそうだ)。
間違っていたら後で訂正するつもりで、とにかく現時点で言えることを言う。
「僕が進路について思うのは、身の丈に合った進学先や就職先を選んだ方がいいかな、ということです。というのも、無理してレベルの高いところに入ったら、入った後もずっと無理をし続けなければついていけなくなるからです。向上心をずっと維持できる人ならそれでいいかもしれませんが、僕にはそんなことできませんから無理はしません。人生設計のことはまだよく分かりませんが、そ、それが僕の基本方針です」
最後は少し声を詰まらせてしまったが、話し出してしまえば意外になんとかなるものだ。
そんな僕の意見に対し、景先輩は納得するように「うんうん」と頷いてくれる。
「それ分かるなぁ。思えば、俺も特進科に入って以来ずっと無理してきたからなぁ。向上心は大事だけど、受験戦争みたいにピリピリした状態が就職してからもずっと続くのは、さすがに嫌だな」
僕たち学生にとっては恐ろしい例えだ。一生受験生だなんて、地獄以外の何物でもない。
「俺も自分の身の丈に合ったところで、のんびり緩やかに生きたくなってきたよ。贅沢できなくてもいいからさ」
気の抜けた声で言う景先輩に対し、上森先輩が呆れたように意見する。
「おいおい、まだ高校生だってのに夢も希望もなさすぎじゃねえのか? そんな定年間近のおっさんみたいなこと言う前に、まずはやりたいこと探して、ガムシャラやってみる方が先だろう? 何かこう、やりたいことはねえのか?」
「やりたいことならいろいろあるよ。だけど、将来の仕事とは全く結びつかないことばかりなんだ。だから俺にとっての進路は、ただお金を稼ぐための進路になっちゃうんだよね。もちろん、お金は大事だけど、人生を懸けるほどじゃあないしね」
この先輩、前向きな性格な割にけっこう無気力系だな。一歩間違えばヒモ男になりそうな感じだ。あくまでも設定上の話だが。
そんな架空の意見に対し、上森先輩が厳しく反論する。
「別に金じゃなくても、仕事そのものにやりがい見つけりゃいいじゃねえか。いいか、やりがいのある仕事に就くことがすべてじゃねえ。仕事に就いてからやりがいを見つけていくんだ。これはバイト先の社員が言ってたことなんだが、その意味が分かるか?」
「分かるんだけど、それはちょっと苦しくないかな? なんだか無理矢理っぽさを感じるだけど」
「無理矢理でいいんだよ。人生ってのは厳しいんだ。よほど運の良い奴じゃない限り、無理矢理にでもたぐり寄せなきゃ幸せはやって来ちゃくれねえ。のんびり生きたいって気持ちも分からなくはねえが、それで幸せになりたいっていうのは虫が良すぎるんだよ」
景先輩に向けての言葉ではあるが、そのまま僕にも当てはまることなので胸が痛む。
やっぱり、競争を避けてのんびり生きようなんて考えは間違ってるのかな……。
すると今度は、下倉先輩が意見する。
「んー、別に仕事にやりがい求めなくてもいいんじゃなーい? 最近は〝やりがい搾取〟なんて言葉もあるくらいだし、下手にやる気を見せると、いいように使われるかもよー」
また辛辣な意見がきた。
上森先輩はすぐさま反論する。
「そりゃ、その可能性もあるけど、そんなことばっか気にしてたら何もできねえだろう。そんな後ろ向きな人生楽しいか?」
「そうでもないよー。仕事は仕事、趣味は趣味と分けて考えればね。仕事にやりがいがなくても、趣味で幸せ感じる人生はありだと思うなー」
勝ち組になるためなら職種は関係ないとする下倉先輩らしい意見だ。
続いて、小乗先輩が言う。
「私も、どちらかというと下倉君の意見に賛成だな。仕事にやりがいを求めるのは大事だが、すべての人間がそれを見つけられるわけでもない。ならば最初から割り切って考えるのもひとつの選択だろう。私自身、場合によっては哲学と職業は分けて考えるつもりだ。人の夢や希望は、必ずしも学校に提出する進路希望と同一ではない」
賛成意見がなかったせいか、上森先輩は膨れっ面で言う。
「まあ、具体的な進路が決まってない俺じゃ強くは言えねえけど、どうもみんな覇気がねえなぁ……」
「そういう時代だからな」と小乗先輩。
「けどよ、生きてる以上は前に進まなきゃいけねえんだし、そもそも龍ちゃんは人類の進歩を望んでる方だろ? ちょうど番が回ってきたことだし、教えてくれよ。龍ちゃんの人生設計をよ」
「ふむ、いいだろう」
そう言えば、小乗先輩の進路希望については聞いたことがなかったな。水澄製菓の経営を継ぐ話は乗り気でないと聞いただけだし、とても気になる。
「私は哲学者になるために大学で研究職に就くことをひとつの目標としている。だが、研究一本で生活をしていける人間はほんのひと握りであるのが現状だ。よって、大学の講師などをする傍らで研究を進めていくことが当面の目標と言えるだろう」
学者志望というのは小乗先輩のイメージどおりだが、学校の先生になることを考えていたとは意外だ。
小乗先輩が先生かぁ。高校や大学ならともかく、小学生を相手にしているところは想像できないな。特に低学年には難解な理論が通じないから困ったことになりそうだ。
上森先輩が腕を組んだ状態で低く言う。
「そこまでは聞いたことがあるな。で、研究してその後どうするつもりだよ?」
「私が哲学者として成すべきことは、哲学の必要性を世に知らしめることだと確信している。なぜなら、哲学なき社会に進歩はないからだ。例えば、我が国の現状はどうだろう。科学技術の進歩によって、これほどまでに便利で豊かな社会になったというのに、未だ幸福になれない人間が大勢いるではないか。それはなぜか? いくら技術が進歩しても、人間そのものがまるで進歩していないからだ。人は今こそ自分たちを見直さなければならない。そのために必要なのが哲学だ。私は、学校教育における哲学の必須科目化を、現時点での最大目標としている」
またすごい発言がきたな。
それが冗談でないことは、小乗先輩の引き締まった表情から伝わってくる。
この人は、本気で一国を変えるつもりなのか?
景先輩が驚きの笑みを浮かべて言う。
「そんな壮大な目標があったなんて初めて聞いたよ。でも、言いたいことは分かるけど、哲学の必須科目化なんて、いったいどうやって実現するつもりかな? そんなの、たとえノーベル賞を受賞したって難しいんじゃないか?」
小乗先輩は軽く目を閉じた後、重々しく息を吐いた。
「確かにそのとおりだ。だが、時代が変われば人の価値観も変わる。私には無理でも、次世代の誰かが引継いでくれるような何かを残す。それが最低限の目標だ」
上森先輩はそれまで固かった表情を緩め、「ほぉー」と感心するような声を上げた。
「最低限でそれとは、すげえこと考えてんな。そりゃあ、あれか? 将来は革命でも起こす気か?」
「私自身が革命を起こすことはないだろうが、そのきっかけを作ることにはなるかもしれんな。ただし、私が考える革命は闘争による革命ではなく、教育による革命だ。幕末の志士のように過激な真似をするつもりはないから、その点は安心してほしい。私の方が抹殺される可能性はあるがな」
小乗先輩は皮肉めいた笑みを浮かべるが、あまり冗談には聞こえない。
この人、本当にその可能性を考えてそうだ。
さらには下倉先輩も、まったり顔で笑えない発言をする。
「そっかー、前々からそうだろうとは思ってたけど、小乗君は革命を起こす側なんだね。だとすれば、現状を維持したい側の勝ち組とは敵対関係になるねー」
「そうなるな」
真顔で、あっさりとした返事。
「じゃあ、その時は同級生のよしみでお手柔らかにねー」
こっちも、まるで緊張感がない。
まあ、高校生の部活なのだから当然といえば当然なのだが……。
景先輩は呆れた感じで笑っていた。
これ、絶対に参考になりませんよね。
小乗先輩が意見をまとめる。
「要するに私の人生設計とは、哲学を極め、それを啓蒙することにある。そのための手段は、まだ模索中のことなので、今後どう転ぶかは分からない。あるいは、水澄氏の会社経営を継ぐことで見えてくるものがあると判断するかもしれない。何より大事なのは、思考停止に陥ることなく、様々な未来を描き続けることだ。三年生の景君に『まだ時間はある』などと無責任なことは言えないが、それでも、時間が許す限り考え続けてほしい。以上が私の意見だ」
景先輩のことが気掛かりで、あまり集中することができなかったが、なんとか無事に議論を終えることができた。
どうやら、見た目だけでなく発言面でも正体に気付かれなかったようだ。
「そんじゃあ、帰るとするか!」
「じゃあねー」
上森先輩と下倉先輩は、いつもどおり早々に帰っていく。
「話には聞いていたけど、予想以上に有意義で楽しかったよ。また明日ね」
景先輩も意外にあっさり帰っていった。
初日から攻めていくとは言っていたが、今日は僕の意見に賛成するだけで、あからさまなスキンシップはなかった。もちろん、それで良かったのだけど。
全員が部室から出た後、僕は元の男子制服に素早く着替える。それから、慎重にカラーコンタクトを外す。この中途半端な状態でいる時が一番緊張する。
女子制服の方は持ち帰るわけにはいかないのでロッカーに掛けておく。今井さんが定期的に取りに来ては洗濯してくれるので、僕は着て脱ぐだけだ。
着替え終わったら部室の鍵を閉め、小乗先輩と合流するために、すぐ下の階にある図書室に行く。職員室に鍵を返しにいくだけだから本来なら僕一人で充分なのだが、小乗先輩が後輩に押し付けているみたいで申し訳ないからと譲らないので、いつも一緒に返しにいく。
ところが、今日図書室の前で待っていたのは景先輩だった。
「やあ、また会ったね」
僕は返事より先にキョロキョロと周囲を見回す。
幸い、誰もいない。だが、いるはずの人もいない。
「あの、小乗先輩は?」
「今日は先に帰ってもらったよ。鍵は俺と鹿内君で返しにいこう」
「いいんですか? 女子部の誰かに見つかったら……」
「今日、女子部は休みだから大丈夫だよ」
「そ、そうですか。でも、着替えはどうするんですか?」
聞くと、景先輩は少し暗い表情をした。
「今日もこのまま帰るよ。どうせ家には誰もいないだろうしね」
「ご両親は、帰ってくるのが遅いんですか?」
「ああ。帰ってくるのはいつも真夜中なんだよ。仕事が忙しいらしくてね」
「そうですか……」
ネットのニュースとかでよく見る長時間労働というものだろう。景先輩が勉強する意欲を失ったのも、仕事で無理をする両親の姿を間近で見ているからだろう。
あ、いや、それは熊楠景という架空の人物の意見であって、熊楠先輩は違うのか? 熊楠先輩が勉強意欲を失ったわけではないのか? どっちだ? こんがらがってきた。
どちらにせよ、これ以上家庭の事情を詮索するつもりはないので、僕はごまかすように先輩を促す。
「じゃあ、一緒に鍵を返しにいきましょうか」
「待って。鹿内君、まだ時間は大丈夫かな?」
「え? 構いませんけど、何か?」
「上森が待ち伏せしてる可能性があるから、少しここで時間を潰してから行こう」
それから三〇分くらい、僕と景先輩は静かな図書館で過ごす。
僕は宿題をやり、景先輩は本棚から小説を持ってきて流し読みをしていた。
年間で最も日が長い時期ということもあって空は少し薄暗い程度だが、最終下校時刻が迫ってきたからか、司書さんが声をかけてくる。
これ以上粘る必要はないので、すぐに図書室を出て、職員室に鍵を返しに行き、玄関へと向かう。
その途中、僕たちは、廊下の向こうからやって来た上森先輩とばったり出会った。
景先輩の予想通りだ。
向こうにとっては予想外なのか、上森先輩は目を丸くして尋ねてくる。
「よう、どうしたんだ、二人で?」
「ああ、借りたい本があったから図書室に寄ったら、鹿内君と会ってね。好きな本の話で盛り上がってたんだ」
「そうだったんか……」
上森先輩は浮かない顔で声を漏らした。
あまり聞きたくはないが、聞かないと不自然なので、僕は聞く。
「上森先輩こそどうしたんですか?」
「いや、ひかるちゃんにちょっと話があったから自転車置き場の近くで待ってたんだけど、遅いから様子を見にきたんだ」
前に待ち伏せしていた場所だ。ということは、おそらく内容も同じだろう。
景先輩が一緒にいる今、どう出てくるかと思っていると――
「まあいいや。急ぎの用じゃねえから、また今度な。もうじき暗くなるから、寄り道せずに帰るんだぞ」
そう言って、あっさりと去っていった。
ひとまず今日のところは凌げたみたいだ。
しかし、景先輩は固い表情をしていた。
「さすがに引き際を心得てるな。あれは手強いぞ」
どうやら、僕にとっての安息の日常はまだまだ遠いようだ。
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