第4話 サブタイトル未定

 第二服飾部。

 哲学部関係者以外で唯一僕の正体を知る人物、今井真尋さんが所属する部活だ。

 部室の扉の上にある表札を見て、コスプレ部というのが通称であることを初めて知った。いくら生徒の自主性を重んじる緩い校風でも、コスプレという名称を公然と使うのはまずいらしい。

 今日ここを訪れたのは、言うまでもなく熊楠先輩(男装)の入部についての打ち合わせをするためだ。参加者は小乗先輩、下倉先輩、熊楠先輩、今井さん、僕の五人。もちろん、僕は女装していない。

 聞いた話によると、熊楠先輩がコスプレイベントに参加することを条件に、今日は部室を貸し切りにしてもらったらしい。また、コスプレ部の他の部員は、この件について詮索は一切しない約束だから安心してほしいとのことだ。

 僕たち男子部の三人には「準備があるから少し遅れて来るように」というお達しがあったので、上森先輩が帰ったのをしっかり確認した後、三人で第二服飾部の部室に足を運んだ。

 先頭の小乗先輩がコンコンと部室の扉を叩き、「男子哲学部の者だ」と告げる。

 すると、中から「どうぞー」と今井さんの明るい声が返ってきた。

 扉を開けた小乗先輩に続き、部室の中へと足を踏み入れる。

 まず目に入ったのは、雑然とした部屋の中央に立つ二人。

 一人は、ぽっちゃり系女子の今井さん。

 そして、もう一人は男装した熊楠先輩のはずだが――

 あれ? 違う? コスプレ部の人? 今日は貸し切りのはずじゃ?

 混乱しているうちに、陽気な笑顔とあいさつが飛んでくる。

「やあ、鹿内君。待ってたよ」

 やや掠れた感じではあるが、男子の声だ。

 その男子がまっすぐ近づいてきて気さくに言う。

「どうしたの? 俺だよ。もしかして分からない?」

 間近で見れば分からないことはなかったが、驚きのあまり上手く声が出せない。

「く、熊楠先輩ですか?」

「正解。っていうか、それしかないんだけどね」

 当然の答えではあるものの、まさかこれほど印象が違うとは。

 まず身長が高い。見た感じ一七〇センチはある。元の身長より五センチくらい上がっている。

 次に髪型だが、普段のショートボブから大人っぽいオールバック風になっている。ウィッグではなく、自前の髪をワックスで固めたようだ。

 そして驚くことに、顔の印象が違う。

 どうなってるんだろう? 特殊メイク? でも男子がメイクなんかしたらバレるでしょう?

 いや、逆にメイクしてないから違って見えるのかな? まさか一日で整形はできないだろうし、できてもそこまではやらないはず。

 その答えを、今井さんが嬉々とした顔で言う。

「ふふふ、みんな驚いてるわね。まあ、わたしも驚いたくらいだから当然ね。熊楠ちゃんってば、シークレットインソールで身長アップして、髪型変えて、眉いじっただけで大変身だもん。ほんとすごい。これはもう、ひかるちゃんとタメ張るくらいの逸材よ!」

 もちろん、制服は男子の夏服だ。薄着だがバストは目立たない。眉は直線的でキリッとした感じ。確かに、これなら兄弟と言えばしっくりくる。

「すごいですね。一瞬、誰だか分かりませんでした。いや、今でもちょっと信じられないくらいです」

「フフッ、そうだろ?」

 熊楠先輩は得意げに言いながら、さりげなく間合いを詰めてくる。

 それから突然、馴れ馴れしく肩を組んできた。

「せ、先輩!?」

「何を驚いてるの? 男同士、このくらいのスキンシップは当たり前だろ?」

「いや、そうですけど、熊楠先輩は――」

「今は男だよ。だから鹿内君もそのつもりで接してくれなきゃ、あっという間にバレてしまうよ?」

 耳元で甘い声が響く。

 本物の男だったらゾクッとするところだろうけど、熊楠先輩だと分かっているのでドキッとしてしまう。このくらいで恥ずかしがっていては上森先輩に怪しまれてしまうのは確かだが、だからって、いきなり……。

「熊楠ちゃん、男子の口調が上手ね! もしかして演劇で男役やってたとか?」

 今井さんがキラキラと目を輝かせて寄ってきた。

 熊楠先輩は僕と肩を組んだまま答える。

「演劇はやってないけど、よく惺香とカップルごっこして遊んでたから、このくらいお手のものだよ」

 なにやってるの、この人。

「ふわー、ますます気に入ったわ! ねえ、熊楠ちゃん。たった今からコスプレ部に入部しない?」

 なに言ってんの、この人!?

 暴走し始めた今井さんに対し、小乗先輩が申し訳なさそうな顔で言う。

「今井さん、お楽しみのところすまないが、そういった話は後にしてもらえないだろうか。まずは予定通り打ち合わせをしたいのだが……」

 部室を貸してもらっている手前、強くは言えないのだろう。

「あ、ごめんね。じゃあ、わたしは脇で見てるから、後はそっちで進めてね」

 今井さんは特に機嫌を悪くするでもなく、窓際まで後退した。

 見てるのか。

 まあ、今さらこの人に隠し事をしても意味はないけど。

「それじゃ、そろそろ打ち合わせを始めようか」

 熊楠先輩が、やっと僕を開放してくれる。

 そして、本作戦の発案者として全員に向かって軽快に言う。

「椅子が人数分なくて立ち話になるから、なるべく時間はかからないよう簡単に説明するよ。まずは名前からいこうか。この姿の時は熊楠歩巳の兄弟って設定だから、苗字は言うまでもなく同じ。名前は〝景(けい)〟だ。フルネームで熊楠景。苗字で呼ぶと歩巳と被ってややこしいから、名前で呼んでくれると助かるね」

 一同が頷いた後、下倉先輩が小さく挙手する。

「その名前の由来はー?」

「趣味から取った名前だよ。実は最近、山登りを始めてね。山といえば景色。だから〝景〟だ」

「へえー、登山に行くんだー。一昔前、微妙に流行りかけた山ガールとかいうやつかな?」

 下倉先輩の口調は少しからかい混じりだったが、熊楠先輩は意に介することなく冷静に応じる。

「今はガールじゃなくてボーイな。山はいいぞ。街では気付かないことを、いろいろと教えてくれる。みんなも機会があれば行ってみるといい。いや、哲学者なら一度は行くべきだね!」

 山と哲学が関係あるとは初耳だ。

 頂上から壮大な景色を見ることで人の小ささを知るとか、そういうことだろうか?

 そういえば、かの有名な「人はなぜ山に登るのか?」という問いかけは哲学っぽいな。

 そして、「そこに山があるから」という答えがまた奥深い。

 今の僕では到底理解できそうもないな。

「次に、俺の学年だけど」

 熊楠先輩が胸ポケットに付いている赤い校章を指す。

「熊楠景は三年生という設定でいこうと思う。つまり、熊楠歩巳の兄だ。いくら人数の多い学校でも同学年は避けた方が無難だろうし、一年生ではライバル役として侮られるからね。それに三年生なら受験を理由に引退できる。あまり長居するわけにはいかないから、はじめから一学期限りの短期入部ということにしておくよ」

 なるほど、考えてあるな。問題解決後の退路がいかに重要であるかは、水澄さんの件で身に染みている。

「それから、ここが重要なんだけど、さっき言ったライバルっていうのは恋のライバルのことだ。熊楠景と上森が女装した鹿内君を取り合う形にして、三角関係を作り出す。そうすれば上森も迂闊には手を出せなくなるから、しばらくは安全だろ? その後、問題をどう解決するかは、みんなで考えてほしい」

 つまり現時点では時間稼ぎが精一杯ということか。

 協力してくれる皆さんには悪いけど、気が重たいなぁ……。

 ひと呼吸挟んでから、軽快な説明は続く。

「当然だけど、鹿内君と下倉は俺とは初対面の振りをするようにね。小乗とは同じ中学で知り合いだったということにしておこう。そういうツテがあった方がより自然だからね」

「そうだな」 

 小乗先輩が静かに同意する。

「最後に、鹿内君に対するアプローチだけど、初日から少しずつ仕掛けてくから、そのつもりでね」

「は、はい。でも、上森先輩の前で、さっきみたいなことをするつもりですか?」

 熊楠先輩の言うとおり、男同士なら肩を組むくらいなんでもないだろうけど、女装男子と男子を区別する上森先輩にとっては意味合いが違ってくる。きっと挑発することになるだろうから、ちょっと怖い。

 しかし、熊楠先輩の口調は変わらない。

「何事も始まりが肝心だからね。あまり時間もないし、無難に様子見なんて真似はしないよ。だから鹿内君は下手な演技はせず、自然におろおろしてくれればいい。それとも、実は演技が得意かな?」

「い、いえ、苦手です」

 僕の返しに対し、男装の先輩は小さく笑う。

「フフッ、じゃあ自然な反応で頼むよ。小乗はどうかな? 演技に自信はある?」

「演技はともかく、平静を装うのは得意だ」

 低く深みのある返答に、熊楠先輩は「充分だ」と満足そうに頷いた。

「下倉は?」

「う~ん、演技は苦手かなー。でもマイペースを維持するのは得意だよー」

「要は小乗と同じか。じゃ、変に工夫はせず、いつもどおりでね」

「りょうかーい」

 まったり口調で返す下倉先輩は、ちょっと楽しそうな表情をしていた。

 この人もけっこう好きなんだよなぁ、非日常的イベントが。人の気も知らずに……。

 熊楠先輩が少し考えるようにしてから言う。

「ええと、俺からはこんなとこかな。何か質問は?」

 一同から反応はなし。

 僕も特にはない。

「それじゃあ、これで打ち合わせは終わりだ。また何かあれば、いつでも聞いてくれて構わないよ。こっちからも色々聞くかもしれないから、その時はよろしく」

 提案者の締め括りの言葉を以て、場は解散となる。

「じゃあ、また来週ねー」

 下倉先輩はさっさと帰っていく。

「私も失礼するよ」

 小乗先輩も最低限のあいさつだけを残して踵を返した。

 おそらく、この部屋の居心地が悪いからだろう。

 熊楠先輩の男装姿に気を取られて、あまり気にしていなかったが、改めて見るとすごい部屋だ。教室の三分の一くらいの部屋に、古今東西ありとあらゆる衣装がギッシリと掛けられている。制服や和服など一般的なものから、ゲームや漫画に出てきそうなファンタジックなもの、さらには剣や鎧といった小道具まである。その多くは、サイズからして女の子向け。

 まずい。ここに長居するのは非常にまずい。

 案の定、今井さんが目を輝かせて、こちらに近付いてきた。

「さあ、ひかるちゃん。今日は貸し切りだし、たっぷり時間があるからね。いっぱいお着替えしましょうね!」

「い、いや、僕は」

 逃げ出そうとしたところで、背後から肩をつかまれた。

 熊楠先輩だ。肩に触れる手に力を感じる。簡単には逃げられそうもない。

 万事休すか――と思いきや。

「ごめんね、今井さん。実は、鹿内君とはこれから約束があるんだ。悪いけど、今日は俺に譲ってくれないかな? 貸しにしといてくれていいからさ」

「え、いいの?」

 今井さんはピタッと足を止めて、大きく目を開いた。

「いいよ。公序良俗に反するものじゃなきゃなんでも着るし、撮影にも付き合う。なんなら、デートだってOKだよ。だから、今日は鹿内君を貸してね」

 特に約束はしてないはずだけど、今は黙っておいた方が良さそうだ。

 熊楠先輩の甘い声に、今井さんはうっとりとしていた。なにこの茶番?

 でも逃げるなら今だ。



 第二服飾部の部室をあとにした僕と熊楠先輩は、二人並んで放課後の廊下を歩く。

 熊楠先輩は着替えてないので男装したままだ。

「あ、あの、大丈夫ですか? そのまま出てきちゃって」

 緊張する僕とは反対に、軽快な声が返ってくる。

「ちょっとした実験だよ。もし知り合いにあっさりバレるようなら作戦は中止した方がいいからね。もっとも、すでに五人パスしてるから大丈夫だと思うけど」

「え、もうそんなに?」

「五人とも目が合ったのに全く驚かなかったよ。あれは疑ってすらいなかったね」

 無理もない。前情報のあった僕でさえ混乱したくらいだ。たとえクラスメートでも、すれ違っただけではまず分かるまい。

 ところが、そんな熊楠先輩の表情が一瞬陰る。

「とはいえ、さすがに惺香には分かるだろうから、このまま学校にいるのは危険だ。女子部の部活が終わる前に出ていかないとね。というわけで、今から二人で散歩に行こうか」

「は、はい」

 突然のお誘いだが、先ほど今井さんの魔の手から救ってもらった恩があるため、無下に断ることはできない。それに、今コスプレしているのは僕ではないから幾分気は楽だ。強いて断る理由もない。

 廊下の角を曲がり、階段に差し掛かると、熊楠先輩は歩く速度を落とした。左手で手摺を握り、ゆっくりと一段一段踏みしめるように階段を降りる。

 靴下の中に入れたシークレットインソールとやらに慣れていないからだろう。

 階段を降りきって再び廊下を歩き出したところで、僕は尋ねる。

「それで、どこに行きますか?」

「その前に確認しておきたいんだけど、上森はもう帰ったんだね? どこか寄るとか言ってなかった?」

「確かショッピングモールに行くとか言ってました」

「そっか……。じゃあ、そっち方面へは行かない方がいいな。でも、ただ歩くだけじゃつまらないから、駅とは反対方向の商店街に行ってみようか?」

「それって、小乗先輩の家がある辺りですよね?」

「そうそう。俺の家もあの辺から少し離れたところにあってね。昔よく遊びに行った場所だよ」

 話しているうちに、生徒用の玄関に着く。

 熊楠先輩は周囲に人がいないことを確認した後、早足で二年生の下駄箱に向かった。

 三年生の校章を付けた生徒が、二年生の下駄箱から靴を出すところを見られては大変だ。ものの十秒ほどで白いスニーカーを履き、玄関口に姿を現す。普段のローファーでないのは、シークレットインソールのせいで紐を緩めないと靴が履けないからだろう。

 僕も靴を履いた後、もう一度周囲に人がいないことを確認してから尋ねる。

「でも先輩、近所ってことは、ひょっとしたら知り合いに男装がバレるかもしれないですよね? 恥ずかしくないですか?」

 僕なら当分は外に出られなくなる。いや、どこか遠くに引っ越さない限り、一生出られないかもしれない。

 すると、この先輩はアハハッと陽気に笑い、またしても馴れ馴れしく肩を組んできた。しかも、さっきよりも強く、ギュッと引き寄せるように。

「その時はその時さ。たとえみんなに笑われたって、大事な後輩のためなら後悔なんかしない。別に悪いことしてるわけじゃないんだし、開き直ってこっちも笑ってやるさ」

 ただでさえ暑い中、先輩女子に体温を押し付けられて、外からも内からも熱が湧き出てくる。

 こんなスキンシップは初めてのことで嬉しくはあるが、恥ずかしさがそれを上回り、じっとしていることなどできない。

 とはいえ大声は出せないので、声を潜めて言う。

「先輩、ダメですよ、こんなところで……! 誰かに見られたらどうするんですか!」

 しかし、先輩は腕の力を緩めてくれない

「大丈夫だよ。堂々としてれば、このくらいで怪しまれやしないから。むしろ、そんな風に慌ててる方が怪しまれちゃうぞ?」

 僕は肩を揺すって抵抗する。

「そうかもしれませんけど、そもそも、いちいちくっつく必要がないじゃないですか。なんでそんな軽薄な設定にしたんですか? まるで上森先輩じゃないですか」

「だからだよ」

「え?」

 僕は抵抗をやめ、真意を尋ねる。

「どういうことですか?」

「上森みたいな性格を演じるのは、わざとってことさ。『人の振り見て我が振り直せ』って言うだろ? 客観的に自分の姿を見せて反省させるんだよ」

「な、なるほど……」

 それなら一理ある。でも、やっぱり、抵抗はする。

「だったら、今やっても無意味じゃないですか」

「無意味じゃないさ」

「どうして?」

「俺がそうしたいからだよ。それとも、鹿内君は俺にこういうことされるのが嫌?」

「い、嫌ではありませんけど、時と場所はわきまえてほしいです」

「ハハッ、それもそうだ」

 熊楠先輩は、急に素直になって僕から離れる。

 そして、何事もなかったかのように軽快に歩いていく。

 慌てて付いていく僕に、彼女(彼?)は言う。

「ま、きっかけはどうあれ、これからは同じ部活の仲間になるんだし、仲良くしよ? それにさ、こうして問題解決に奔走してる間だって限りある高校生活のうちなんだから、それはそれで楽しまなきゃ損だよ。な?」

「は、はぁ……」

 一応、返事はしたものの、こんな前向きな生き方は僕にはできそうもない。

 この人は眩しすぎる。こんな太陽みたいな人が僕にあれこれ世話を焼いてくれるなんて、夢を見ているようで頭がふわふわしてくる。

 それとも、これが楽しいということなのだろうか? だとしたら、あまり現実感がなくてもったいないな。

 そんなことを思いながら、僕は先輩の背中を追った。



 学校から出て徒歩一五分ほど。

 男装したままの熊楠先輩と共に、目的の商店街を訪れる。以前、小乗先輩の看病をしにアパートを訪れた際、彼のお父さんに連れられて来た場所だ。

 もっとも、その時は小乗先輩のことが気になって周囲を見る余裕がなかったため、喫茶店のこと以外はよく覚えていない。小さい頃、両親に連れられて何度か来たような記憶はあるが、当時とはずいぶん様子が違う気がする。確か、もっと賑わっていたはずだ。

 しかし、目に映るのは薄暗く閑散とした商店街。いや、もう商店街かどうかも怪しい。なにせ半数以上の店がシャッターを閉じてしまっている。道行く人も少ない。

 現在進行形で開発が進むショッピングモール付近とは正反対の、終末感漂う場所だ。

 隣を歩く熊楠先輩が、低い声でポツリと言う。

「うちの親が言うには、昔はこの商店街が地域で一番賑やかな場所だったらしいんだけどね。今じゃショッピングモールの方に客を取られて、この有り様さ。諸行無常、栄枯盛衰。あのショッピングモールも、いつかはこんな感じで廃れてくのかな……」

 僕は先輩の顔をチラッと見る。その表情に憂いはない。

「けど、今までやってきたことが無駄になるわけじゃない。この商店街は五十年以上も人々の役に立ってきたんだ。結果はどうあれ、それってすごいことだろ?」

「そうですね」

「それに、今だって愛されてる店はある。例えば、あのたこ焼き屋」

 熊楠先輩は足を止め、前方にある屋台風の小さな店を指した。

「あそこは、味は普通なんだけど店のおじいさんがとても親切でね。いつもやり過ぎだろってくらいオマケしてくれるんだ。六個買ったら十個くれたり、一人一本ずつジュースくれたり、それで採算合うのかってくらい」

 ちょうど店の前で、五、六歳の男の子が母親にたこ焼きをねだっていた。母親は「しょうがないなぁ」と言いながらも、満更でもなさそうな顔でたこ焼きを注文する。

 そうこうしている間に、また子連れの女性が店にやってくる。先輩の言うとおり人気があるみたいだ。

 店の前ではしゃぐ子供たちの姿を見て、熊楠先輩はクスッと笑う。

「俺も今じゃあまり買いに行かなくなったけど、昔は母さんの買い物に付いてく度に、ああやってねだったもんだよ」

 僕もつられてクスッと笑った。

「子供って、だいたいそういうものですよね。僕もよくオマケ付きのお菓子をねだったりしてました」

「オマケ付きのお菓子じゃなくて、お菓子付きのオマケだろ?」

「あはは、そうですね」

 思えば、こういう会話をするのは初めてだ。

 男子部の先輩とは、こうして気さくに言葉を交わしたことがなかった。

「せっかくだし、買ってみようか? もちろん奢るからさ」

「え……あ、はい。ありがとうございます」

 先輩に食べ物を奢ってもらうのも初めてだ。なんだか夢が一つ叶ったようで嬉しい。

「よし。そうと決まったら、次は表通りの方へ行ってみようか。あそこは今でもそこそこ賑わってるからね。不審な目でこっちを見てくる人がいないか試してみよう」

 そうして、二人並んで表通りを歩き、何件かのお店を見て回ったりもしたが、誰一人として疑いの視線を向けてくる人はなかった。熊楠先輩の男装は完璧だったのだ。

 その後、先ほどの店でたこ焼きを買ってきて、通行の邪魔にならないところで食べる。ベンチはないので立ったままだ。

 でも、焼きたて熱々でおいしい。しかも、さっき先輩が言ったとおり、おまけでサイダーを一本ずつ付けてくれた。

 熱くなった口の中に、冷えたサイダーを流し込む瞬間がたまらない。

 おじいさん、いつまでも元気でお店を続けてください。

 食べ終わると、先輩はゴミをビニールに入れて親切に言ってくれる

「これは俺が持ち帰って捨てておくよ。ここからなら家まで一○分かからないしね」

「ありがとうございます。もしかして、そのまま帰るつもりですか?」

「そのつもりだよ。今の時間なら家に誰もいないだろうし、見つかったら見つかったで構やしない」さ

 僕にとってはあり得ないことを、熊楠先輩は事も無げに言う。

 軽薄な態度とは裏腹に、心根はけっこう男らしいな。これも演技のうちだろうか?

 どちらにせよ、本人が言うからには口を挟めないので、別の質問をする。

「そう言えば、熊楠先輩もこの近くに住んでるってことは、もしかして小乗先輩と同じ中学だったんですか?」

「そうだよ。俺と惺香と小乗は同じ小学・中学の出身だ。もしかして、昔の小乗のことが聞きたいのかな?」

「あ、いえ、本人がいないところで昔のことを詮索するのはマナー違反ですから……」

 僕は軽く目を逸らして否定する。

 小乗先輩の小学・中学時代。

 気になると言えば気になるが、あえて聞き出すほどのことでもない。

 熊楠先輩はハハッと笑う。

「真面目だな、鹿内君は。もっとも、俺が小乗と話すようになったのは高校に入ってからだから、昔のことはよく知らないんだ。哲学に興味があるってことも、哲学部で顔合わせるまで知らなかったよ」

「そうなんですか……。じゃあ、熊楠先輩はどうして哲学部に入ったんですか?」

「俺は、惺香の影響かな」

「新井先輩の?」

「そ。惺香は昔から本が好きでね。図書室にある小説や伝記を片っ端から借りては読むくらい本好きだったんだよ。それで、きっかけはよく分かんないけど、いろんな本を読んでるうちに哲学に目覚めたらしくてね。それ以来おとなしかったあの子が自発的に行動を起こすようになっちゃったから、危なっかしくて見てられなくて……。そうやってフォローしているうちに、いつの間にか俺も哲学に興味を持ってたんだ」

「そうだったんですね。熊楠先輩と新井先輩、性格が反対なのに仲良いですよね」

「反対だからかもしれない。あの子はあの子で、俺のこと放っておけないって言うんだ。まるで漫画でよくある幼馴染みたいだね」

 羨ましい話だ。僕にもそういう友達がいたら、学校生活がどんなに楽しかっただろう。

 ひと呼吸置いた後、熊楠先輩が尋ねてくる。

「そう言えば聞いてなかったけど、鹿内君はどうして哲学部に興味を持ったの?」

「僕は小乗先輩に声をかけられたのがきっかけです。いきなり『君は何のために生きている?』と聞かれてビックリしました」

「ハハハ、あいつらしいな。それでよく入部する気になったね」

 熊楠先輩は肩を揺すって笑う。

 ほんと、そのとおりです。

「でも、後悔はしてません。男子哲学部には入って良かったと思います。予想外におかしなことになってしまいましたけど、何もないよりはずっといいです」

 熊楠先輩は笑うのをやめ、穏やかな表情で言う。

「前向きだね」

そんな風に言われたのは初めてなので驚く。

「僕がですか?」

「まあ、後ろには何もないから前を向くしかないって感じではあるけどね」

「それ当たってます。全然褒め言葉になってないです」

「それでも、前向きは前向きだよ」

 どこまでが演技でどこまでが本音かは分からないけど、そういうことにしておこう。

 後ろ向きよりは前向きな方がいいからね。



 波乱の一週間が終わり、金曜日の夜が訪れる。

 幸い、うちの高校は土曜日が基本休みなので、部活がなければ二日間しっかりと休むことができる。

 しかし、僕に安息の日はない。

 ある意味、上森先輩の件より深刻な問題があるからだ。

 夕食後、自室のパソコンに一件のメールが届く。送り主は女子哲学部の水澄智莉さんだ。

 ただし、受取側は男子哲学部の鹿内光流ではない。彼女が女の子だと信じて疑わない、女装した時の僕――金山ひかりだ。

 ショッピングモールで水澄さんと再会したあの日からおよそ一ヶ月、僕は金山ひかりとして彼女とメールのやり取りをしてきた。内容は学校での出来事など身近なことが中心だ。水澄さんから女子哲学部の様子を聞いたりもした。こちらのことは事実に架空を交えて話した。余計な心配をかけないよう、金山ひかりは引きこもりから脱出して、今は何とか学校に通っていることにしてある。

 それから、放課後や休みの日に直接会うこともあった。場所は最初に会った駅前のショッピングモールだ。あそこなら大抵の物が揃っているし、付近の緑地公園で散歩もできる。水澄さんはお金持ちの家の子だが派手にお金を使うようなことはせず、カフェでおしゃべりをしたり、公園をのんびり歩いたりするのが好きだった。

 お誘いのメッセージは必ず水澄さんの方から来る。今しがた届いたメールの内容が、まさしくそれだった。前回は用事があることにしてお断りしたので、今度は断れない。

 はぁ……。

 気が重たくて、何度もため息が出る。水澄さんと会うこと自体は決して嫌ではないが、女装して外出するのが恐ろしい。

 もし正体がバレたらどうなる?

 社会的に死にます。

 そう、これは命懸けにも等しいミッションだ。なんとしても、今回も無事やり過ごす。

 水澄さんに本当の友達ができて、僕の役目が終わるその時まで。



 というわけで、日曜日の午前九時に、ショッピングモール内のバス停で水澄さんと待ち合わせをする。

 当然、家で女装することはできないので、ここへ来る前に緑地公園の多目的トイレに寄ってきた。服は例によって今井さんに用意してもらった物だ。「スカートは不安なのでズボンを!」と何度も懇願したが聞いてもらえず、さりとて引き下がるわけにもいかないので、風で捲れることのないキュロットスカートを履くことで互いに妥協した。

 また、ブラウスの上にゆったりとしたベストを重ね着することで、平坦なバストをカモフラージュ。女子向けの靴とハンドバッグも貸してもらい、完璧な私服姿を再現した。

 一方、水澄さんは、涼しげな白のロングワンピースにライトグレーのカーディガンという組み合わせ。小柄な割には落ち着いた感じの服装だ。

「おはよう、ひかりちゃん」

「お、おはよう、智莉ちゃん」

 いつまでも名字に〝さん付け〟ではよそよそしいということで、今では名前で呼び合うようになっていた。これも水澄さんの提案だ。学校で見かける時よりもずっと明るい表情で、こちらをリードしてくれる。

「今朝は涼しいね。でも、お昼近くになると暑くなるから、先にお散歩しよっか?」

「うん」

 つい先日、熊楠先輩たちと話し合いをしたあの緑地公園に二人で向かう。

 今日も曇り空のおかげで、それほど暑くない。四月・五月に暑い日が多かったため、六月ともなれば真夏のような暑さが続くと思っていたが、案外そうでもなかった。直射日光を浴びさえしなければ、少々汗がにじむ程度だ。

 しばらくの間、園内のウォーキングコースを無言で歩く。僕の方から話しかけることはほとんどない。申し訳ないとは思うが、彼女の記憶にあまり残らないようにするため、必要最小限しかしゃべらない無口な人間を演じさせてもらっている。

 そのうち、水澄さんがこちらを見上げて話しかけてくる。

「ねえ、ひかりちゃん。もしかして悩み事とかある?」

「え、え? どうして?」

 突然、的を射た指摘をされたせいで少し声が裏返ってしまった。

 水澄さんは心配そうに答える。

「だってひかりちゃん、何か悩んでそうな顔してたから」

 鋭いな。顔に出したつもりはなかったのだが……。

 当然、正直に悩みを打ち明けるわけにはいかないので曖昧に濁す。

「そ、そんなことないよ? もちろん、悩み事がないわけではないけど、誰にでもある小さなことだよ」

「そっか、それなら良かった。でも、何か相談に乗ってほしいことがあったらいつでも言ってね?」

「う、うん」

 水澄さん、やっぱりいい子だな。この子との関係が一番の悩みだなんて何があっても言えない。

「あ、猫さんだ!」

 不意に道脇の茂みを指す水澄さん。

 見ると、茂みから茶色い猫がのたのたと歩み出てきた。クリッとした目でこちらを見てくると同時に、四足を止める。

「可愛い~! ねえ、ひかりちゃん。こっち見てるよ」

 水澄さんはその場にしゃがみ、「おいでー」と猫を手招きするように小さく指を動かす。

 猫の目はその指を注視するが、動こうとはしない。

 警戒しているのだろうか? でも逃げないということは、少なからずこちらに興味があるのかもしれない。うちでペットを飼ったことがないから動物の心理はよく分からない。

 ただ、小動物めいた愛らしさのある水澄さんが猫と戯れる姿は想像するだけでも心が和む。

 水澄さんは猫を驚かせないよう気を使ってか、しゃがんだままゆっくりと一歩前に出る。

 途端、猫は走り去ってしまった。

「あ~ん、残念。やっぱり簡単には懐いてくれないね。たまに寄ってきてくれる子もいるんだけどね。……はぁ、猫さんとお友達になりたいなぁ」

 ため息をついて立ち上がる水澄さんに、僕は何気なく提案する。

「そんなに好きなら飼ってみるとか? それとも飼えない事情でもあるの?」

「う~ん、飼えないわけじゃないんだけどね。わたしは猫さんと友達になりたいんであって、飼いたいとは思わないの。あくまでも対等がいいっていうのかな」

「そっか。飼い主になると、主従関係になっちゃうもんね」

「そうそう。もっとも、猫に飼われてるって意識があるかは分からないけどね。案外、向こうは自分が主のつもりかもね」

 水澄さんはフフッと小さく笑う。

 僕もつられて頬を緩めた。

 こうして話が弾んでいる間は緊張感もなく、純粋に楽しい。こんな時間をいつか終わらせなければならないことが、少し残念なくらいに。



 そうして三○分くらい歩いた後、僕たちはショッピングモールに戻り、カフェでおしゃべりをする。

 内容は学校のことや家庭のことなど身近な話だ。もちろん、金山ひかりが架空の人物である以上、話の内容も架空のものになる。ただし、丸っきり作り話というわけではなく、半分くらいは事実を交えて話している。水澄さんは鹿内光流のことをほとんど知らないので、性別の違いさえ気を付けていれば、そうそう疑われることはない。

 少なくとも、現時点では。

 しかし、男子部と女子部が交流会を重ねれば、いずれ僕の考え方も記憶される。

そうなれば、「あれ? 鹿内光流と金山ひかりの考え方って似てない?」と勘づかれてしまうだろう。だから先のことを考えて、哲学的な議論は避けるようにしている。

 水澄さんとしても、一方的に話をするつもりはないようで、僕の意見もちゃんと聞いてくれる。

「ねえ、次はどこ行く? 次はひかりちゃんの行きたいところに行こ?」

「う、うん。じゃあ、本屋さんに行こっか」

 カフェを出た僕たちは吹き抜けのショッピングモール内を歩き、本屋に向かう。

ここの本屋は地域では最も品揃えの良い中型店舗で、本好きなら見て回るだけでも充分に楽しむことができる。水澄さんも漫画をそこそこ読むそうなので、互いに気になる作品が見つかれば話が弾むかもしれない。

 そんなことを考えながら本屋に入ると、小説の新刊コーナーに髪を二つ結びにした先輩女子がいるところを発見した。

 本を手にする姿がとても似合う。

 その柔らかな手つきから、本に対する愛情が伝わってくるくらいに。

「あ、新井先輩だ」

 水澄さんがその名を口にすると同時に、向こうも僕たちに気付いた。

 外出先で知り合いを発見した場合、できる限り気付かれないよう立ち去るのが僕の行動理念だが、こうなっては仕方がない。

 水澄さんと共に、新井先輩にあいさつをしに行く。

「こんにちは、先輩。奇遇ですね」

 まずは水澄さんが声をかけた。特に緊張した様子もなく気さくな感じだ。

「こんにちは、智莉ちゃん。そっちは、金山ひかりさんよね? わたしのこと覚えてる?」

「お、覚えてます」

 僕は慌てて答えた後、とっさに言うべきこと思い出す。

「体験入部の時は、お世話になりました。あ、あの時は、いきなりいなくなってすみませんでした」

 手を前に組んだ状態で、小さく頭を下げる。

 そんな僕に対し、新井先輩は暖かな笑みを向けてくれた。

「気にしなくてもいいよ。それより、智莉ちゃんにお友達ができて良かった。学校が違うと何かと大変かもしれないけど、これからも仲良くしてあげてね」

「はい、もちろんです」

 うう……。

 チクチクと胸が痛む。

 当然のように返事をしたものの、実際そういうわけにはいかないからだ。金山ひかりは、水澄さんに本当の親友ができるまでの繋ぎ役でしかない。泡のように消えてしまう儚い関係でなければならない。

 だというのに、上森先輩のせいで今は解決策を考えるどころではなくて……。

「ところで先輩、今日は一人ですか?」

 水澄さんが尋ねると、新井先輩は小さく首を横に振る。

「ううん。歩巳ちゃんも一緒だよ。ほら、そこ」

 そう言って漫画コーナーの方に顔を向けるが、視線の先には男性らしき人物が一人いるだけで、熊楠先輩はいない。

「え、どこですか?」

 水澄さんがキョロキョロする。

 僕も首を振ってあちこち探すが、一向に見つからない。

「フフッ、今日は変装してるから分かんないかな?」

 めずらしく新井先輩が悪戯っぽい笑みを浮かべる。

 ちょっと待った。変装って、まさか――

 漫画コーナーで、こちらに背を向けて立っていた男性が振り返る。

 身長一七○センチほどで、オールバック風の髪型をした細身の男性――いや女性は、思ったとおり熊楠先輩その人だった。

「ちょっと先輩! そんな格好で何やってるんですか!」と声を張り上げたいところではあるが、そういうわけにもいかず、ただただ唖然とする。

 隣では、僕とは違う意味で水澄さんが唖然としていた。こちらに歩いてくる男装の先輩を指して、新井先輩に尋ねる。

「え? え? もしかして、熊楠先輩ですか?」

「そうだよ。おはよう、さとりん」

 新井先輩が答える前に、熊楠先輩が明るい笑顔であいさつしてきた。

 水澄さんは口に手を当てて、黄色い声を上げる。

「えー! ほんとに!? 先輩、すごく似合ってるじゃないですか!」

「ありがと。で、そっちは金山さんだね。久しぶり――と言っても、この格好じゃ分かんないかな?」

 もちろん、分からないはずはないが、分からないことにしておかないと面倒なのは明白だ。

 男装姿で会うのは初めての振りをする熊楠先輩に対し、僕は小声で「ご、ごめんなさい……」とだけ返した。

 すると、事情を知らない新井先輩が優しくフォローしてくれる。

「変装してるから分かりにくいかもしれないけど、女子哲学部の熊楠歩巳ちゃんだよ。覚えてるかな?」

「あ、はい。もちろん覚えてます。その節は、どうも……」

 僕は軽く頭を下げ、一応お礼を言っておく。

 でも、本心は逆だ。

 新井先輩とは時々カップルごっこみたいなことをすると言っていたから、熊楠先輩にとっては男装で出掛けるくらいめずらしくもないのだろうが、さすがにこのタイミングではやめてほしかった。たぶん本番前の練習だとは思うけど、ばったり出会ったのが上森先輩だったらどうするんですか!

 そう言いたいところではあるが、この状況では何も言えない。今はとにかくボロが出る前に別れるのが得策だ。

 とはいえ、いきなり立ち去るわけにもいかないので、一歩引いて水澄さんが先輩たちと話すのを見守る。

「あの、お二人はよくここに来るんですか?」

「んー、まあ、たまにね」

 熊楠先輩が軽快な口調で答える。一昨日と同じ、見た目も態度も完全に男性モードだ。

「そ、それで、もしかしてデート中だったりするんでしょうか?」

 少し興奮気味な水澄さん。この状況に興味津々のようだ。

 その質問には、新井先輩が微笑み混じりで答える。

「デートといっても、取材のための疑似デートなんだけどね。新作を書くための取材に付き合ってもらってるの。できれば本物の男子の方が良かったんだけど、頼める人がいなくてね」

「こらこら、俺じゃ役不足かい? その辺の男子よりよっぽど男らしい自信あるんだけどな」

 親指で自分の顔を指し、得意気に言う熊楠先輩。

「な、金山ちゃんもそう思うだろ?」

 いや、そんなこと聞かれても……。

 女の人に向かって男っぽいと言うわけにはいかないでしょう。

「ええと……」

 迷った末、新井先輩に質問をすることで回答を避ける。

「す、すみません。その前に何の取材でしょうか?」

「小説だよ。わたし、小説を書いてるの」

 小説好きだと聞いていたが、読むだけでなく書く方もやっていたのか。

「へえ、すごいですね。もしかして、将来は小説家を目指してたりするんでしょうか?」

「目指すと言うより、運良くなれたらなぁって思ってるくらいだよ。小説家としてプロデビューするのはとても難しくて、運の要素も強いから、進路希望に書けるような職業ではないの」

なぜだか、少し悲しそうな口調だ。余計なことを聞いてしまっただろうか。

「そ、そうですか……」

 話をこじらせないためにも、小さくそれだけ言う。

 新井先輩のことが一つ分かったのは嬉しいが、そろそろこの場を離れたい。

 それを察してか、熊楠先輩が自然に提案してくれる。

「こんなところで立ち話もなんだし、これから一緒にお茶でもどうだい?」

 さすが副部長だ。あとはこのお誘いをやんわりお断りすれば――と思いきや、突然、昨日みたいに横から肩を組んできた。

「こうして会ったのも何かの縁だし、金山ちゃんのこともっと知りたいな」

「こ、困ります……」

 端から見れば男が女にセクハラしているようにしか見えないだろうが、内実は逆。

 先輩女子に密着されて、僕の方が緊張している。男装しているとはいえ、腕の感触は女性のそれなのだ。男性のように筋肉で固くない。

 これ、もし正体がバレたら僕の方が訴えられるのかな?

 そんなことを心配しているうちに、水澄さんがムッとした顔つきで僕を引き剥がす。

「先輩、ひかりちゃんは気の小さい子なんです! あまり強引に誘わないでください。第一、仮にもデート中なのに他の女の子を誘うなんて軽薄です」  

 その剣幕に、熊楠先輩は降参するように両手を挙げた。

「ごめんごめん。ちょっとした冗談だから怒んないでよ」

「冗談でもやめてください。その格好だと、下手すると通報されちゃいますよ?」

 水澄さん、先輩に対しても意外と容赦ないな。

 でも本気で怒っているようには見えない。これは、かなり打ち解けてなければできない接し方だ。女子部の方では先輩たちと上手くやっているようだ。

 その証拠に、みんな笑っている。

「フフッ、それじゃあ、これ以上邪魔しちゃ悪いし、そろそろ行こうか?」

 熊楠先輩が新井先輩の肩に手を置いて促す。

「そうだね。あ、でもその前に、金山さん」

「はい?」

「金山さんは、普段小説は読む?」

「たまに読むくらいです」

「そっか。……ええとね、気が向いたらでいいんだけどね、もしよかったら、わたしの小説を読んでほしいの。それで、感想を聞かせてくれたら嬉しいな」

 少し手足をもじもじさせて尋ねてくる新井先輩。

「ど、どうかな?」

 やはり自分が書いた小説を読まれるのは恥ずかしいのだろう。

 それでも、勇気を振り絞って一歩踏み出した先輩の頼みを無下にできるはずがない。

「ぜ、ぜひ読んでみたいです、新井先輩の小説。上手く感想が言えるかどうかは分かりませんけど、それでも良ければ読ませてください」

 本心でそう言うと、目の前の恥ずかしそうだった表情がパッと華やいだ。

「ありがとう! 感想は、難しく考えなくても思ったとおりのことを言ってくれればいいからね。お世辞は一切いらないよ。むしろ、わたしのためだと思って手厳しい評価をしてほしいくらいなの。先輩だからって気を使う必要はないからね」

「は、はい」

 お世辞は苦手だがハッキリ言うのも苦手だ。

 引き受けはしたものの、どうしたらいいものか。

 まあ、読んでみてからの話だ。場合によっては熊楠先輩に相談してみてもいい。

「金山さん、確か智莉ちゃんとはパソコンでやり取りしてたんだよね?」

「そうです」

「だったら智莉ちゃん、帰ったら原稿のデータを金山さんに送ってくれる? あと、感想も智莉ちゃん経由でお願いしていい?」

「はい、任せてください」

 この様子だと、どうやら水澄さんも新井先輩の小説を読んでいるようだ。取材に付き合うくらいだから熊楠先輩が読んでいることは言うまでもない。部外者の僕に頼むくらいだから、おそらくは本居先輩にも。

 女子部は本当にみんな仲が良いんだな。きっと、そういう空気をみんなで作ってるんだ。

 それだけに惜しい。

 もし、たった一人でも水澄さんの他に一年生が入部していたら、最高の友達になっていただろうに……。

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