第2話 どちらを選んでも後悔しそうなら
『言っとくが俺にそっちの趣味はねえぞ』
学校の屋上で初めて会った時、上森先輩は確かにそう言っていた。
少なくとも、あの時点では彼は同性愛者ではなかった。
つまり、僕が目覚めさせてしまったのだ。
でも、例えそうだったとしても、僕は好きで女装しているわけではないのだから、僕の責任ではないはずだ。むしろ、僕を取引の材料に使った小乗先輩にこそ責はある。
でも、そうしなければ、上森先輩は男子哲学部に入部してくれず、人数不足で廃部となっていたのも事実。
……落ち着け、今は誰が悪いかなんて考えても仕方がない。これからどうするのかを考えよう。とにかく、勢いに呑まれてはダメだ。向こうの気持ちがどうであれ、無理なものは無理とハッキリ伝えないと。
でも、怒らせてしまったらどうしよう……。あるいは、部をやめると言い出したら?
そうでなくても、その後の関係がギスギスするのは嫌だ。
どうにかして上森先輩を傷付けずに解決する方法はないものだろうか?
夜、ベッドに横たわってからも長いこと眠れず、ひたすら思い悩む。最後に時計を確認したのは午前一時くらいだっただろうか。結局は妙案が思い浮かばないまま寝落ちしてしまった。
そうして迎えた翌日の朝。
はぁ、学校行きたくないなぁ……。
今まで学校をさぼったことなんて一度もなかったけど、ほんとに休もうかな。
もし休むなら、どんな理由がいいかな。
そんなことを考えながらも実際に休む勇気はないので、いつもどおり制服に着替えていたところ、携帯メッセージの着信音が響く。
見ると、発信者は上森先輩だった。
こんな朝からなんだろうとビクビクしながらメッセージを開く。
《おはよう、ひかるちゃん。今日、調子悪いから学校休むわ。ちょっとダルいだけで、たいしたことないから心配は無用だ。昨日の件は、また明日な》
ちょっとダルいだけで休むのか。僕とは学校に対する価値観が違うようだ。
心配をかけないよう、そう言ってるだけかもしれないが。
でも、これはチャンスだ。
今日の部活で小乗先輩たちに相談してみよう。下手をすれば部の存続にも関わる問題なのだから、一緒に解決策を考えてくれるはずだ。
というわけで放課後、部室。
まずは昨日と同じように女子用の夏制服に着替える。それからロングヘアのウィッグをつけて、カラーコンタクトもつける。
本来、部室で女装するのは上森先輩との約束なのだから、本人がいない時は律儀に着替えなくてもいいはずだ。でも、今井さんに見つかるとまた叱られるので着替える。面倒だけど着替える。もう女装についてはいちいち深く考えない。これはルーティンワークだ。
今日の参加者は僕と小乗先輩と下倉先輩の三人。
全員が席に着いたところで、小乗先輩が言う。
「では始めるとしようか。今日の議題はひかるさんからの相談事だ。下倉君も概要は把握しているな?」
「うん。昼休みにメッセージ読んだよ。ひかるちゃん、大変だねー」
「他人事じゃありませんよ……。上森先輩がやめちゃったら、男子哲学部は廃部なんですからね」
「知ってるよー。だからひかるちゃんには、しっかりつなぎ止めてもらわないとねー」
相変わらずやる気のなさそうな猫背姿勢とまったり口調だ。
でも、口論をしている時間はないのでスルーして進行をお願いする。
「じゃあ意見を聞かせてください。できる限り波風を立てず穏便に済ませるには、どうすればいいでしょうか?」
「ふむ……」
まずは小乗先輩が口を開く。
「告白に対する最も自然な断り方といえば、恋人もしくは好きな人がいるからあなたとは付き合えません――とハッキリ伝えることだろう。今ひかるさんにはそういうお相手はいるのかな?」
「いえ、いません」
「そうか。だが、正直に本当のことを言う必要もあるまい。少しでも気になる相手がいれば、その人を好きだということにすればいい。誰か心当たりは?」
「う~ん……」
さすがに気になる女子くらいは何人かいる。でも、その中でまともに話をしたことがあるのは女子哲学部の人たちだけだ。
そうなると、最も自然なのは同学年の水澄智莉(みすみさとり)さんか。それとも、僕の秘密を知る数少ない人物である本居凛音(もとおりりんね)先輩か……。
大富豪の娘と武道の達人。どちらもハードルが高すぎる。
では、二年生の熊楠歩巳(くまぐすあゆみ)先輩か新井惺香(あらいせいか)先輩ならどうだろう。
熊楠先輩はとても明るい人で、内気な僕を積極的に引っ張ってくれそうだ。
新井先輩はとても優しい人で、気弱な僕を大事に扱ってくれそうだ。
正直、どちらの先輩も気になる。この先、女子哲学部との交流を続けていけば好きになってしまう可能性もあるくらいに。
僕はうつむき加減で言う。
「熊楠先輩か、新井先輩のどちらか……」
「男子にした方がいいんじゃないかなー」
「え?」
隣の席から口を挟んできたのは下倉先輩だった。
「どういうことですか?」
「だってー、前に上森君言ってなかった? ひかるちゃんが女の子と付き合うなら、まとめて愛してやるぞって」
「ぁ……」
そうだ、確か言ってた。
上森先輩は冗談でそういうことを言う人ではない。下手に女子の名を出せば、本気でまとめて攻略しに来るかもしれない。
下倉先輩が他人事のように言う。
「この際、小乗君が好きってことにすればいいんじゃないかなー」
「ダメです! そんなこと言ったら、上森先輩が小乗先輩に敵対心を抱いてしまいます!」
「じゃあ、外部の男子にするー?」
「いや、それもまずい気が……。もし上森先輩がその人に突っ掛かっていったら、変な噂が流れるかも……」
外部に噂が流れたら、もうおしまいだ。廃部どころじゃない。転校する。
小乗先輩が少し残念そうに腕を組み、軽く息を吐いた。
「ふむ……。好きな人がいると言って断るのは無理か。では下倉君、何か別案はあるのかな?」
「あるよー」
あるんだ。
「上森君なら確実に納得してくれる方法だよー」
ニンマリと、自信ありげな表情でこちらを見てくる。
「ぜ、ぜひ聞かせてください」
「いいよー。まあ端的に言うとね、アイドルデビューしちゃえばいいんだよー」
「ふえ……?」
あまりにも妙な提案に理解が追いつかず、変な声を出してしまう。
「い、いったい何の話ですか?」
「だからー、アイドルなら恋人作るの禁止にできるでしょ? そしたら上森君も手が出せなくなるわけで」
「その前に僕がどうやってアイドルになるんですか?」
「女装男子としてネットで顔出しすれば、たちまち注目の的になると思うよー。ハッキリ言って、ひかるちゃんの女の子っぽさは他の追随を許さないレベルだからねー」
「だとしても僕がアイドルになるなんてあり得ません! 真面目に考えてください」
「いや、けっこう真面目に言ったつもりなんだけどなー……」
ダメだ、この人。頭の構造が上森先輩と同じだ。
「もう、いっそのこと付き合って最後までいっちゃえばー?」
またワケの分からないことを言う。
「どうしてそうなるんですか? 最後までってなんですか?」
「それはもちろん、お互いが裸になるところまでだよー。いくら上森君でも、裸を見れば我に返るよー」
「え!? そうなんですか?」
衝撃の発言に、僕は目を開く。
「それはそうだよー。裸を見れば、さすがに萎えるはずだよー」
下倉先輩は当然かのように言うが、僕には理由が分からない。
「でも、同性愛者なら、そんなことはないんじゃ?」
そう聞いてみるも、下倉先輩は首を横に振って否定する。
「あー違う違う。上森君は同性愛者じゃないよー。ただの可愛いもの好きだよ」
「え……!?」
そうなの?
「そんなに驚かなくても、上森君以外にもそういう男はいっぱいいるよー。見た目さえ可愛いければ性別なんかどうでもいいってねー」
それどんな考え方? そんなの驚くなという方が無理だ。
「だ、だって、どんなに可愛いくても、中身は男ですよ?」
「分かってる。理性ではちゃーんと分かってる。でもね、本能では分からないんだよー。『こいつは男だ』って理性でどんなに言い聞かせても、本能は騙されたままなんだよー。『こんな可愛い子が男なわけない』ってねー。男って馬鹿だよねー」
相変わらず他人事みたいに語るニンマリ顔の先輩。自分だって男じゃないですか。
言っていることがよく分からないので、もう一人の先輩を伺ってみる。
「小乗先輩はどう思いますか?」
「アイドルになるという方法には反対だが、理性と本能の話は理解できる。悲しいかな、男とはそういうものだ。男全部がそうとは言わんがね」
ぅぅ、小乗先輩まで。
でも、そういえば、僕も初めて女装した姿を鏡で見た時、けっこうドキッとしたな。下倉先輩だけがおかしいわけじゃないのか。
もっとも、それが分かったところで何の解決にもならないが……。
それから三人で時間ギリギリまで話し合ったが、これといった解決策は見つからなかった。
ひとまず、大事な用事ができたと言ってお誘いを断るしかない。だが、そんなものは一時凌ぎだ。
なんとかして攻略そのものを諦めさせなければ、僕の高校生活に明るい未来はない。
翌日、昼休み。
クラスに友達がいない僕は、いつものように部室に昼食を取りに行く。
部室は教室とは別の校舎にあり、連絡通路を使って行き来できるようになっている。
連絡通路は二階、教室と部室は四階にあるため、昼休みの貴重な時間が往復で五分以上削られてしまうが、それでも一人で寂しく食べるよりはいい。
部室には小乗先輩と下倉先輩が大抵いる。
比較的交遊関係の広い上森先輩はいたりいなかったり。今日はいた。
男子哲学部の四人が勢揃いだ。
どうせ話をするならみんな揃っていた方が気楽なので、上森先輩への返事は今この場でしてしまおう。
――と思ったが、みんな食べるのに夢中なので僕も食べてからにしよう。話を切り出すにもタイミングというものがある。
席に着き、お弁当を広げたところで上森先輩が言う。
「ひかるちゃんのは今日もちっちゃくて可愛いお弁当だな。そんなんで足りるの?」
「あ、はい。これで充分です」
内容はいつもどおり、半分は白飯で、もう半分は冷凍食品や朝お手軽に作れるものだ。
六月ともなると暑さで食品が傷みやすいので、お弁当の底には保冷剤が当ててある。そのせいでお弁当が冷たくなってしまうのが残念だが致し方ない。
上森先輩はいつも購買で菓子パンを二つ三つ買ってくる。飲み物はパックのカフェオレが多い。栄養が偏った内容でちょっと心配だけど、お昼だけのことだから、たぶん大丈夫だろう。
下倉先輩のお弁当は至って平凡。僕のお弁当を一回り大きくしたような感じだ。下倉先輩本人と違って、母親はまともな人だったからなぁ。
小乗先輩は今日も玄米を主食とした和風弁当だ。おかずは豆類や和え物、おひたしなど質素な物が多い。まるで精進料理だ。とても高校生のお弁当とは思えない。
昼食が終わると、各々が本を読んだり昼寝をしたりして自由に過ごす。
世間話や趣味の話はあまりしない。時々議論のような話し合いになることはあるが、基本的には皆マイペースだ。ガヤガヤと騒がしい空間より居心地が良い。
でも、今日はそういうわけにもいかないので、勇気を振り絞って声を出す。
「あ、あの、上森先輩」
「ん? なに?」
「ええと、今度の日曜日ですけど、やっぱり予定があるので、一緒にお出かけはできないです」
「そっか……」
上森先輩は微かに視線を落とすも、すぐに表情を明るくする。
「そんじゃ、また次の機会だな。よかったら行きたい場所とか考えといてくれよな」
「は、はぁ……」
やっぱり、お誘いを断るだけじゃ一時凌ぎにしかならないか。
平穏な日常を取り戻せるのは、まだ先になりそうだ。
上森先輩の言う『次の機会』がいつになるかは分からないけど、さすがに今日のところは心配しなくていいだろう。明日から土日の二連休だし、解決策はまた後で考えよう。ひとまずは部活に集中だ。
時間が惜しいので素早く着替える。ロングヘアのウィッグとカラーコンタクトもつける。
決して女装に慣れたわけではないが、議論が始まってしまえば気にならないくらいにはなった。だから早く議論がしたい。
部室の鍵を開け、先輩たちが入ってくるのを待つ。当然、部屋のすぐ外で待たれては不自然なので、少し遅れて来てもらうことになっている。
一分足らずで、コンコンと扉を叩く音がした。
「ど、どうぞ」
扉が開いてから数秒後、普段とは違う状況に僕は目を見張る。
入ってきたのは上森先輩と下倉先輩の二人だけだった。
「あれ、小乗先輩はまだ来てないんですか?」
なんとなく不安がよぎる。
「ああ、龍ちゃんなら、頭痛くなってきたから今日は帰るってよ」
やっぱりそうか。
「小乗君、頭痛持ちだから、たまにあるんだよねー。でも一晩寝れば治る片頭痛って言ってたから心配いらないと思うよー」
ごめんなさい、下倉先輩。今、僕が心配なのはそっちじゃないんです。
男子哲学部が発足して以来、小乗先輩が部活を休んだのは先月下旬の三日間だけ。そのうち二日間は、今井先輩が(なぜか)部室にいたおかげで何も起きなかった。三日目は看病に行った日なので女装はしていない。
つまり、このケースは始めてだ。女装した状態で、防波堤となってくれる人物がいない状況。
……いや、いくらなんでも大丈夫だよね。多少ふざけたりするくらいはあっても、犯罪になるようなことはしないよね?
そうは思うものの、やっぱり不安だ。いざとなったら、本で勉強した護身術を使うしかないかも。ええと確か、ああして、こうして……。
「ひかるちゃん、どうしたん? 難しい顔して」
上森先輩が顔を覗き込んでくる。
「あ、いえ、なんでもないです。お茶淹れますね」
僕は席から立ち、棚から茶葉と急須を出す。さっき着替える前に電気ポットでお湯を沸かしておいたので、すぐに用意できる。
まずはお茶でも飲んで落ち着こう。
しかし、それが間違いだった。僕は立ち上がるべきではなかった。
「あれ、ひかるちゃん、スカート短くなった?」
「あ、ほんとだー。ミニスカートっぽくなってるねー」
僕は反射的にスカートを押さえる。
「こ、これは、今井先輩に言われて仕方なく……」
「まあそうだろうな。真尋の奴、バランスとかも徹底させるからな」
あ、やっぱり上森先輩と今井先輩は幼馴染みなんだな。お互い名前で呼び合ってる……って今そんなことはどうでもいい。
「ほんと今井さんっていい仕事するよねー。そうなるとやっぱりー、見えない部分にも気を使ってたりするのかなー、なんて」
下倉先輩、余計なこと言わないでください。上森先輩の目の色が変わっちゃったじゃないですか!
ゴクリ、と生唾を飲む音がハッキリ聞こえる。
「あ、ひかるちゃん、聞いていいかな?」
「聞かないでください!」
「その下、どうなってんの?」
まずい、目が血走ってる。
「どうもなってません! どうもなってませんから!」
下倉先輩が携帯カメラをこちらに向けてくる。
「えー、それじゃあ答えになってないよぉ。ちゃんと分かるように教えてほしいなー」
「い、嫌です!」
僕は後ずさる。
上森先輩がすぅーと音もなく立ち上がる。
「大丈夫。ちょこーと確かめさせてほしいだけだから。それ以上は何もしないから」
大丈夫じゃない! この人、目が本気だ。
狭い部室の中では逃げ場がない。助けを呼ぶわけにもいかない。
こうなったら護身術で取り押さえるしかない。でも、どうやるんだっけ?
ええと、ええと――
ゆっくりとこちらへ歩を進めてくる上森先輩。
あ……これ無理だ。
頭の中が真っ白になる。逃げる以外の選択肢が消え失せ、気が付けば部室の扉を開け放っていた。
「あっ、おい!」
上森先輩の声を無視し、廊下を走り出す。
扉側にいたのが運の尽きだった。いや、運が良かった?
どちらにしても、女装したまま部室から飛び出してしまった。
上森先輩が追って来る気配はない。
だからといって立ち止まるわけにはいかない。
どうする? どうする?
女子哲学部の方にだけは行っちゃダメだ。もし水澄さんに見つかったら大変なことになる。
僕は階段を降り、とにもかくにも女子哲学部の部室から離れる。
通行人の視線を感じる。クラスメートの顔も見かける。
呼び止めてくる人はいないけど、かなり目立っている。
僕は走るのをやめ、早歩きに切り替えた。
廊下で一度振り返って、追っ手がいないことを再確認した後、呼吸を整える。
落ち着け……。
全校生徒一二〇〇人規模のこの学校では知らない顔があちらこちらにいるのだ。こうなった以上、目立たないよう堂々としていた方がいい。
そうは思うものの、緊張で足の震えが止まらない。身体中の汗が冷えてきて気持ち悪い。
これからどうしよう。鞄も着替えも部室に置きっぱなしだ。このまま家に帰ることはできない。もちろん、小乗先輩を頼るわけにはいかない。
コスプレ部に行って今井先輩に助けを求めるしかないか。
でも、コスプレ好きの巣窟に飛び込んで無事で済むだろうか? 今井先輩みたいな人がゴロゴロいる場所に……。
済むはずがない! ほとんど自殺行為だ。
となると、残る選択肢はただひとつ。本居先輩に助けてもらうしかない。
もしもの時のためにも連絡先は交換してある。
人目に付かない物陰へ行き、本居先輩に電話をかける。
幸い、五コール目で電話はつながった。
『もしもし、どうしたの?』
「あ、あの、助けてほしいんです!」
『落ち着いて。なにがあったの?』
「実は――」
僕は焦りながらも今の状況を簡潔に説明した。
本居先輩は呆れたようにため息をついた。
『交流会がきっかけで少しはまともになったと思ってたけど、あまり変わってなかったみたいね』
「すみません……。でも、今は本居先輩しか頼れる人がいないんです」
『分かったわ。すぐに行くから、そこを動かないでちょうだい』
女子哲学部部長、本居凛音先輩。三年生。
身長が一七〇センチ少々と女子としては背が高く、キリリとした表情と口調がとても大人っぽい。さらには、剣道と合気道の有段者らしく、その腕前は並みの男など全く寄せ付けないほどだとか。制服を着ていなければどう見ても先生としか思えない小乗先輩同様、高校生離れした風格をお持ちの先輩だ。
腰に届くほどのロングヘアをシンプルに背中でまとめた姿が美しい。
その本居先輩が、通話を切ってからわずか二分ほどで駆け付けてくれた。
「す、すみません。もしかして部活中でしたか?」
「いいえ。今日はクラス委員の仕事があったから、これから部活へ行くところだったの」
本居先輩には悪いけど運が良かった。それなら、女子哲学部のみんなに変に勘繰られることもないだろう。
それにしてもクラス委員かぁ。さすがは本居先輩。部活以外でも頼りにされてるんだな。
「それで、これからどうするの? 荷物くらいならわたしが取ってきてあげるけど、それだけじゃ明日から困るでしょう? なんなら上森君を少し懲らしめてあげましょうか? それとも学校側に訴える?」
「い、いえ、そこまでは……」
「でも、襲われそうになったんでしょ? それと盗撮? とても冗談で済む範囲とは思えないのだけど?」
「それでも、できる限り穏便に済ませたいんです。おふざけにも限度があるってことを知らないだけで、根は悪い人たちじゃないから……」
「そう……」
少し呆れたような顔をする本居先輩。
無理もない。助けを呼んでおいて、わざわざ相手を庇うようなことを言っているのだ。
「それでどうするの? わたしとしては、女装をやめるのが一番だと思うけど」
僕だって、やめられるものならやめたい。
「でも、それは約束だから……」
「律儀なのね。まあ、あなたのそういうところ、嫌いじゃないんだけどね」
本居先輩は少し困ったような顔をしながらも、フッと優しく笑った。
同時に、トクン――と僕の心臓が跳ねる。
そして思った。この人に恋人役をやってもらえば、上森先輩に諦めさせることができるのではないかと。いくら上森先輩でも、この人を相手にそうそうふざけたことはできないはずだ。
だから、一時的に付き合っているフリだけでも……。
――なんて言えたら苦労はしない。僕にそんな度胸はない。
ああ、でも、こんな綺麗な人が、たとえフリでも恋人になってくれたら、毎日が楽しいんだろうなぁ。
「鹿内君?」
「え、あ?」
不覚。対話中だというのに妙な妄想に耽ってしまった。
「なんでもありません……」
真面目に考えなきゃ。
でも、本当にどうしよう? さすがに恋人役になってもらうのは無理だ。
彼女の言うとおり、一緒に部室まで行って厳重注意してもらった方がいいのだろうか。
でも、それでは一時凌ぎにしかならないことは目に見えている。注意を受けるくらい、去年何度もされているだろうから。
考えているうちに、本居先輩がポツリと力のない声を漏らした。
「難しい状況ね」
「はい……」
本当に、どうしてこんな複雑な状況になったのだろう? 僕はただ、平穏な高校生活を送りたいだけなのに。
少しの間、静寂が流れる。
遠くから運動部の人たちの声が聞こえてくる。
ピーっとホイッスルの音がする。
今のは運動場の方だからサッカー部かな? シュートでも決まったのかな?
外は平和だなぁ。
なんて現実逃避をしていると、不意に後方から静寂を破る声がした。
「あれ、本居先輩?」
聞き覚えのある陽気な声。
ドクン、と先ほどよりも強く心臓が跳ねる。口の中に何か嫌なものが込み上げてくる。
「先輩、こんなところで何してんの? あと、そっちの子って……」
「え? ああ、ええと……」
本居先輩が動揺している。
まずい、まずい、よりによって、この人に見つかるなんて。
僕は顔を隠すように小さく縮こまる。が、そんな動作はわずかな時間稼ぎにしかならない。
横から顔を覗き込まれる。
「ねえ、もしかして……って、やっぱり金山ちゃん! 金山ひかりちゃんだ!」
うわ、やっぱりすぐバレた。
現れたのは、女子哲学部二年の熊楠歩巳先輩だった。
この姿で会うのは女子哲学部で体験入部したあの日以来だ。もちろん、彼女は僕の正体を知らないので驚くのは当然のこと。
「え、なんで本居先輩と金山ちゃんが一緒にいるの? っていうか、金山ちゃんは他校の子って聞いたんだけど?」
そう。金山ひかりは引きこもりを治す訓練のためにこの学校に潜り込んだ他校の生徒という設定なのだ。つまり、今この学校の制服を着てここにいるのは不自然なのだ。
何か言い訳を――言い訳を――
「歩巳さん、まずは声を小さくして。落ち着いて聞いて」
本居先輩が、この場で最も適切な対処をしてくれる。
「あ、うん……」
熊楠先輩は小声で返事。
「これにはいろいろとワケがあってね。でも、その前に聞きたいんだけど、惺香さんと智莉さんは今どこにいる?」
「二人とも部室に行ってると思うよ。あたしはクラス委員の仕事があったから遅れたの」
熊楠先輩もクラス委員なのか。さすが女子哲学部の副部長を務めるだけのことはある。
「それで、委員の仕事が終わって部室に行こうとしたら、金山ちゃんが走ってるところを見かけてね。びっくりしたよ」
そうか、あれを見られていたのか。
「で、事情は分かんないけど、困ってるなら助けてあげようと思ってね。いきなりだったから一度は見失っちゃったけど、運良くここで探し当てたってわけ」
その言葉に、僕は驚きの声を上げる。
「え、わざわざ探してまで助けに来てくれたんですか?」
「ん、そうだよ」
「たった一回、体験入部に参加しただけなのに?」
「あったり前だよ。それに、さとりんとは時々連絡取り合ってるんでしょ? さとりんの友達を放ってはおけないよ」
「熊楠先輩……」
嬉しさで声が震える。
なんていい人だ。同じ二年生だというのに、あの二人とは違いすぎる。
熊楠先輩が僕と本居先輩を交互に見てから言う。
「で、ここに金山ちゃんがいるのは、なんかワケありなんだよね? 言えないことは聞かないし、あたしにできることなら協力するよ。もちろん秘密も守る」
もしかして、この人になら正体を明かしてもいいのではないだろうか。
そんな考えが頭をよぎる。
「どうするかは、そっちが決めて。ご希望なら、なんにも見なかったことにして立ち去るよ。あ、でもそれじゃ、ちょっと寂しいかな。できたら頼ってほしいなぁ」
打算なんて微塵もない無邪気な笑顔を向けられ、胸が苦しくなってくる。
ここまで親身になってくれる先輩に嘘なんてつきたくない。
僕は本居先輩の顔を伺う。
「あ、あの、この際、熊楠先輩に事情を話して協力してもらうというのは、どうでしょう?」
「それは、あなたが決めることよ」
ですよね……。
僕は胸の前で拝むようにギュッと手を握り、葛藤する。
打ち明けたい。でも、怖い。
熊楠先輩はとても頼りになりそうな人だけど、敵と見なした相手には容赦のないところもある。交流会に上森先輩が出席するのを最後まで反対していたのも彼女だった。
もし熊楠先輩に敵認識されてしまったら万事休す。交流会の中止はもちろん、新井先輩と水澄さんにも正体がバレて、全校的にも知れ渡って、最悪この学校にはいられなくなる。
そう思うと声が出せない。
「金山ちゃん」
胸の前で組んだ僕の手が、ふわりと暖かな手に包まれる。
「え……?」
顔を上げると、スカートの裾が触れ合うくらい、すぐ近くに熊楠先輩が。
汗で冷えかけた身体が、再び火照ってくる。
「金山ちゃん――いや、ひょっとしたら金山ちゃんじゃなくて、別の名前かもしれない。あるいは高校生じゃないかもしれない。実は体験入部した子とは別人で、そっくりな双子とかかもしれない」
な、なにを言い出すの、この人?
「あたし約束する。事情を聞くまでは絶対怒らないって約束する。たとえ金山ちゃんが親の仇だったとしても、いきなり怒ったりしない。ちゃんと事情を聞く」
「いや、仇になるようなことはしてませんから」
「分かってる。今のは極端な例を上げてみただけ。要するに、あたしはそこまでありとあらゆる可能性を想定できてるから、そう簡単には驚いたり怒ったりしないってこと。だから安心して言ってみてよ。さすがに宇宙人とか異世界人とかだったら驚くかもしれないけどね」
まさかそこまで……。
どうやら、覚悟を決める時がきたみたいだ。
言って後悔するか、言わずに後悔するか。
こんな時、小乗先輩ならどうするかを僕は知っている。
『どちらを選んでも後悔しそうなら、自分の感情に従えばいい』
そうしたいと思ったことを素直に実行する。ただそれだけのこと。
そして僕の感情は――やっぱり打ち明けたい。
ならば、打ち明けよう。
きっと大丈夫だ。いくらなんでも親の仇や宇宙人と比べれば、女の子だと思っていた相手が実は男だったというくらい、たいしたことないだろう。女装男子というものが少なからず存在していることは知っているだろうし、かなりの高確率で想定内に入っているはずだ。
僕は決意する。そして、暖かく包まれていた手をスっと下ろす。
「あ、あの、耳を貸してください」
「ん? いいよ」
熊楠先輩は僕より七、八センチ背が高いので、少し伸びをする。
「じ、実は僕、鹿内光流なんです」
小さく告げて、耳元から口を離す。
熊楠先輩は大きく目を開けたまま固まっていた。
数秒の間を置いて、小さく口が開く。
「え……」
え?
「ええええむぐ――」
本居先輩が瞬時に口を防いだおかげで、叫び声はそれほど響かなかった。
驚かないって言ったのに……。
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