男子哲学部の論争2
ンヲン・ルー
第1話 結果より過程の方が大事?
僕、
成績こそ平均より少し上であるものの、運動は苦手、身長は女子の平均ほどしかない。趣味や特技はこれといってなく、気の合う友達もいない。もちろん、恋人なんているはずがない。
そんな寂しい学校生活を送る僕にとって、唯一の居場所と言えるのが『男子哲学部』だ。
男子哲学部と聞いただけでは何をする部活なのかよく分からない人が多いと思う。僕も最初はさっぱりだった。哲学がどういう学問なのかもよく知らなかった。正直、入部してから一ヶ月半が経つ今でもよく分かってない。哲学という言葉を分かりやすく説明するのは本当に難しい。
活動の中心となるのが議論だ。議論の内容は千差万別。身近なことから社会全体のこと、果ては宇宙の真理に至るまで、様々な意見を出し合い、吟味する。
大抵は結論が出ずに終わってしまうが、部長の小乗龍樹先輩が言うには、それで構わないらしい。考え続けること、議論し続けることで、人間は進歩し続けるのだから。
さて、男子哲学部があるからには当然、女子哲学部もある。
去年までは哲学部という一つの部だったのが、意見の違いや人間関係の問題で分裂したらしい。とはいえ、四人しかいない仲間内の議論ではすぐに行き詰まってしまう可能性が高いということで、小乗先輩の提案で男子部と女子部の交流会が行われることになった。
そして、つい先週、第一回交流会が開催された。議論は白熱したものの、誰一人としてケンカ腰になることなく、とても有意義な時間を過ごすことができた。
もっとも、下倉先輩は水澄さんに鮮やかにスルーされて、また塞ぎ込んでしまったが……。
でも、学校にはちゃんと来ているし、部活にも参加しているから大丈夫だと思う。
典型的なチャラ男だった上森先輩は、見た目が少しまともになったおかげか中身も少しまともになって、セクハラっぽいことはあまり言わなくなった。
翌月に第二回交流会を行う約束もできて、男子哲学部の活動は順調に進んでいると言えた。
だけど、僕には悩みがあった。
決して人には(特に家族には)言えない、大きな悩みが。
放課後。男子哲学部の部室。
「さあ、ひかるちゃん。今日もお着替えしましょうね」
満面の笑顔でそう言ったのは、少し横幅の広いぽっちゃり系の女子。僕のコスプレを手助けするために派遣されてきた、コスプレ部二年の今井真尋さんだ。
緩い三つ編みヘアーに銀縁メガネと、外見は真面目そうだが中身はちっとも真面目じゃない。
「はい、これ」
今井さんは紙袋から衣装を出し、長机の上に置いた。
きれいに折り畳まれたそれは、今井さんが今着ている服とサイズ以外は全く同じもの。
女子用の夏制服だった。
「もう六月だし冬服のままじゃ暑いと思って、和君のお姉さんからもらってきたの」
部室には備え付けの扇風機があり、今もそれをつけているが、やはり冬服では暑い。
「あ、ありがとうございます」
半袖のカッターシャツに、夏用のベスト、それから生地の薄いスカート。
これでずいぶん涼しくなるので、実際にありがたくはあるのだが……。
冬服の時といい、上森先輩のお姉さんになんと言って頼んだのだろう? まさか男子が着るとは言ってないよね?
「それじゃあ、着替え終わったら呼んでね」
疑問が明かされることなく、今井さんは部室から出ていく。
あとに残された僕はため息をつきつつも、男子制服から女子制服に着替えを始めた。
いつものこととはいえ、学校で何をやってるんだろうな、僕は……。
言うまでもなく、僕は好きで女装をしているわけではない。上森先輩が男子哲学部に入部する際の条件だったので仕方なくやっているだけだ。できるならやめたい。でも、やめさせてもらえない……。
服を替え、ロングヘアのウィッグをつけた後、今井さんにカラーコンタクトをつけてもらう。
「うん、やっぱりひかるちゃんは最高の素材だわ! こんな風にちょっといじっただけで女の子にしか見えなくなるんだもん」
今井さんは自分のこと以上に嬉しそうだ。
「でもね」
不意に眼鏡の奥にあるパッチリした目が陰り、座っている僕の下半身へと向かう。
「な、なんですか?」
僕は危険を感じ、とっさにスカートを押さえた。
「ねえ、ひかるちゃん。スカート長すぎない?」
「え? 前と変わってませんよ?」
「ううん、違うの。夏服の場合、上が軽くなった分、下も軽くしないと見た感じのバランスが悪いの」
「そ、そうでしょうか? 僕はこのままでいいと思いますけど……。それに、上森先輩のお姉さんの制服を勝手に切っちゃうのはまずいでしょう?」
「あ、それは大丈夫。切らなくても折り込めば短くできるから。ちゃんとゴムベルトも用意しておいたわ。ベストを着ればゴムベルトの部分は隠れるから、万事OKよ!」
なにがOKなのかよく分からないが、どうやら逃がしてはもらえなさそうだ。
無駄と分かっている言い争いでこれ以上部活の時間を失うわけにはいかないので、僕は潔く立ち上がった。
「ちょ、ちょっとだけですからね……」
「任せて任せて」
今井さんは嬉しそうに僕のスカートに触れ、丁寧に折り込んでいく。
どうせやるだろうとは思っていたが、スカートは限界ギリギリまで短くなっていた。
「あの、先輩。みんな待ってるから、遊ぶのはその辺で……」
「あはは、ごめんごめん。一瞬でいいからひかるちゃんがミニスカ履いてるとこ見たかったの。記念に写真撮っていい?」
「ダメです。早く戻してください」
「もう……せっかく可愛いのにぃ」
結局、スカートの長さは膝上一〇センチくらいで決まった。
「うん! 長すぎず短すぎず、真面目なひかるちゃんにはちょうどいい感じだわ!」
「いや、さすがにこれは短いと思うんですけど。できれば、もう五センチくらい長くして――」
「ねえ、ちょっと暑すぎない?」
突然、言葉を被せてきたかと思うと、机の上に置いてあるリモコンを手にする今井さん。
ピッという音がした次の瞬間、バサッという音を立てて、突風が太ももを撫でた。
「え? あ、ちょっと!」
僕は慌ててスカートを押さえる。
それまで〈弱風〉だった扇風機の風が〈強風〉に切り替えられ、スカートを勢いよく捲り上げたのだ。
「い、いきなりなにするんですか!」
今のわざとだよね? 絶対わざでしょう?
糾弾しようとするも、今井さんにふざけた様子は一切なく、なにやら深刻そうな表情をしていた。
「ど、どうしたっていうんですか?」
僕はスカートを押さえつつ、風の当たる範囲から逃れる。
しかし、視線からは逃れられない。
「う~ん、やっぱり下着が男物のままじゃ面白くないわね……」
何かと思えば、そんなこと!?
「替えませんからね! 絶対替えませんからね!」
僕は断固として拒否する。
同じ女物でも服と下着では精神的ダメージが全く違う。その一線だけは越えたくない。
今井さんはフッと息を吐き、扇風機の風を〈弱風〉に戻した。
「でもさぁ、ええと……水澄ちゃんだっけ? その子と出掛けた時、何かの拍子でスカートの中が見えちゃったらまずいんじゃないの?」
「ぅ……」
確かに。今みたいに突風が吹くとか、バスや電車のドアに挟まるとか、外では何が起こるか分からない。冬服の時の長さでもハラハラしていたというのに、一〇センチ近く短くなったこのスカートであちこち歩くなんて危険すぎる。
「せめて一瞬なら見分けが付かない感じのを穿いた方いいんじゃないかな? アンスコとか」
「アンスコ?」
「アンダースコートのこと。テニスの選手とかが穿いてるあれよ」
「それ、どういう感じのでしたっけ?」
「知らないの?」
「なんとなく想像はつくけど、ハッキリ見たことはないので……」
「ちょっと待って。画像を見せてあげるから」
今井さんは言いながらスマートフォンを操作し、こちらに画面を向けてきた。
「これよ」
「……ええと、普通の下着とあまり変わらないように見えるんですが?」
「だからいいんじゃない。これなら、一瞬見られたくらいじゃ分かんないはずだよ」
「でも恥ずかしいじゃないですか!」
「大丈夫、これは下着じゃないから! 恥ずかしくない!」
「いや、でも……」
「でもでも言わない!」
そうして言い合いをしているうちに、コンコンと扉を叩く音がした。
「おーい、まだかぁ」
上森先輩の声だ。
無理もない。着替え始めてから、もう十分以上経っている。
さすがにこれ以上待たせるわけにはいかないので、僕は強引に話を打ち切る。
「今井先輩、その話はまた今度にしましょう! 僕も何かいい方法を考えておきますから」
「分かったわ。じゃあ、明日の放課後までにはアンスコ用意しておくね!」
なぜそうなるの?
相変わらず人の話なんかまるで聞いちゃいない。そのくせ無駄に仕事が早い。
「じゃあ、またね。ひかるちゃん」
今井さんは子供のように無邪気な笑顔でバイバイと手を振り、部室から出ていった。
「はぁ……」
大きくため息。部活はこれからだというのに、僕の精神力は早くも底をついていた。
ともあれ一難は去った。
今井さんと入れ替わりで、三人の先輩たちが部室に入ってくる。
最初に入ってきたのは、真の幸福を追求する高校二年生、上森和先輩だ。
「おおー! ひかるちゃん、夏服も超似合ってんじゃん!」
「あ、ありがとうございます」
褒められてもちっとも嬉しくないが、一応お礼は言っておく。
「ちょっと立ち上がってよく見せてくんない?」
とりあえず無視。これくらいで怒る人ではないので、わずかでもセクハラっぽい気配を感じた時は、いちいち相手にしない。
次に、将来は勝ち組になるという野望を抱く高校二年生、下倉宗先輩。
「わー、ひかるちゃん、薄着でも全然女の子にしか見えないよー。これなら、もっと大胆な衣装もいけそうだねー」
「いけません。無断撮影しないでください」
僕は携帯カメラから逃れるべく、鞄でサッと顔を隠した。
「えー、一枚くらい撮らせてくれてもいいのにー」
無言でひたすらガード。
上森先輩もジロジロとこちらを見てくるので、それも鞄でガード。
鞄が重くて腕が疲れるが、それもわずかな間のこと。なぜなら――
「時間が惜しい。二人とも早く席に着いてくれ」
高校生とは思えない大人びた声が、緩んだ空気を引き締める。
最後に入ってきたのは男子哲学部部長、小乗龍樹先輩だ。
上森先輩と下倉先輩は少しつまらなそうな表情をしながらも黙って席に着く。
やはり男子哲学部はこの人がいないと始まらない。
「す、すみません。準備に時間かかっちゃって……」
僕が悪いわけではないはずだが一応謝っておく。
「気にしなくていい。今井さんには今度言っておこう。あまり悪ふざけしないようにな」
なんとも頼もしい言葉だ。
でも、僕が女装することになったそもそもの原因は、この人が作ったとも言える。基本的には真面目で誠実な人だが、目的のためには人を取引の材料に使う策士でもあるため油断はできない。
ともあれ、以上の先輩三人に僕を加えた四人が、現在の男子哲学部の部員である。
平行に並べられた長机に二人ずつ着席し、向かい合う。
進行役を務めるのは、部長である小乗先輩だ。
「では始めるとしようか。まずは本日の議題だが、何か希望はあるかな?」
「はいはーい」
上森先輩が軽いノリで挙手する。
「今日は恋愛について議論しないか? 『恋愛とは何か』っていう根本的なことについてさ」
あ、それ女子哲学部で議論した内容だ。今となっては懐かしい。
「ふむ、恋愛か……。去年幾度か議論したが、ひかるさんを交えての議論は初めてだったな」
小乗先輩が下倉先輩と僕を交互に見る。
「二人ともどうかな? 異論がなければ、今日はこの議題でいこうと思うのだが」
「いいよー」
「僕も、それで構いません」
上森先輩の提案にしては、まともな議題だ。特に反対する理由はない。
それに女子部との価値観の違いも気になる。
「決まりだな。ではさっそく、提案者の上森君から意見を聞こうか」
「おう」
上森先輩は一息入れてから、いつになく真面目な表情で語り始める。
「結論から言うと、恋愛ってのは人間が子孫を残す過程で一番大事な部分だと俺は思う。ただ子孫を残すだけなら虫や植物と同じだからな。恋愛あってこそ人間だ。政治的な理由で恋愛すっ飛ばしていきなり子作りなんざ、動物以下の所業だよ」
政略結婚については僕も同意見だ。政治は人を幸せにするためのものなのに、生け贄が必要な時点で矛盾している。
上森先輩は続ける。
「恋愛に限った話じゃないが、俺は何事も結果より過程の方が大事だと思ってる。結果結果と言うなら、結果的には俺たち全員死ぬんだからな。結果はそれほど重要じゃあない。重要なのは過程なんだ。結婚とか子孫とかいう結果よりも、恋愛の方が大事なんだ! もっと言えば、恋愛を成就させるまでの過程が一番大事なんだよ! 分かるか!?」
なに? なんでそこまで熱く語るの?
しかも「分かるか!?」のところで、こっち見てきたし。
何か良からぬことでも企んでるんじゃないかと不安になってきた。
「まあ要するにだ。先のことばっか考えてたら恋愛は面白くねえ。恋愛は今を楽しむもんだ。それが俺の恋愛観だ。以上!」
なんて清々しさだ。
やけにハイテンションなのが気になるが、自分の価値観についてここまでハッキリ意見できるのはすごいと思う。
小乗先輩も感心したように頷く。
「ふむ、さすが恋愛経験が豊富なだけあって説得力のある意見だ。特に過程の方が大事という考え方には私も同意するよ。では次に、下倉君はどうかな?」
「う~ん、恋愛ねー。個人的には争いの種としか思えないんだよねー」
上森先輩とは正反対、まるでやる気のなさそうな口調だ。
「実際問題、恋愛が原因でいろんな争いが起きてるよねー。不倫とかネトラレとか痴情のもつれとか。殺人事件にまで発展することもあるみたいだし。そもそも、恋愛自体が異性争奪戦っていう戦争の一種なわけだし。上森君みたいな戦巧者ならともかく、そうじゃない人にとっては苦痛でしかないんだよねー、恋愛感情なんて」
なんともまあ、下倉先輩らしい身も蓋もない意見だ。
でも、共感できる部分はある。
僕も争いごとは苦手だから異性争奪戦には参加したくない。欲望渦巻く泥沼の争いには巻き込まれたくない。
「別に恋愛感情なんかなくたって性欲さえあれば子孫は残せるわけだし、いっそのこと政府が全員分を割り当ててくれたら楽かなー、なんて思うんだよねー」
いや、さすがにそこまで極端なのは困るかも……。それだと、誰がどういう基準で決めるのかって問題もあるし。
上森先輩が信じられないといった表情で意見する。
「おいおい、配偶者の割り当てなんて、そんなもんディストピア以外の何物でもねえぞ。だいたい、競争がなかったら男も女も自分を磨かなくなる。人類そのものが衰退すっぞ」
「だーかーらー、それは恋愛強者の上森君だからこその価値観であって、弱者にとって競争は不都合なんだよー。勉強が苦手な人にとって受験戦争が不都合なのと同じようにねー」
「あー、なるほどな。そりゃ確かに、一理あるかもな」
下倉先輩の例えに対し、素直に頷く上森先輩。
これが男子哲学部の良いところだ。
自分の意見を押し通そうと意固地になったりしない。受け入れるべき意見は素直に受け入れる。相手を論破する必要はないのだ。
しばしの静寂の後、小乗先輩が話を進める。
「では次へいこうか。ひかるさん、君の意見はどうかな?」
「あ、え?」
しまった。先輩たちの意見に聞き入って自分のことを考えてなかった。
「ええと、恋愛は……」
普段漠然としか意識していないものだから、とっさに良い言葉が思い浮かばない。
「まだ考えがまとまっていなかったかな?」
小乗先輩が優しく尋ねてくる。
「は、はい。すみません」
「謝る必要はないよ。では一言でいいから、パッと思い付く恋愛に対するイメージを言ってほしい。どちらかというと良いイメージか悪いイメージかだけでもいい」
「ええと、恋愛は……素敵なものだと思います」
あ、これ、前に女子哲学部で言ったことだ。やっぱり、とっさだとこれが出るのか。
上森先輩が嬉しそうな顔をする。
「おお、ひかるちゃんもそう思うか! そうだよな。やっぱ恋愛はいいもんだよな!」
「そ、そうですね……」
実際には、そうでない部分も多いけど、わざわざ否定することはない。
それに、とっさにこの言葉が出たということは、これが僕の正直な気持ちなのだ。
「すみません、こんな単純なことしか言えなくて」
「今はそれでいい。まずは自分の素直な気持ちを知ることが大事だ。では最後に、私の意見を言わせてもらおうか」
そういえば、小乗先輩から恋愛の話を聞いたことは一度もなかったな。
基本スペックは高いから変なことさえ言わなければモテると思うけど、そういうことあまり気にしてなさそうだし。気になる。
「私は、恋愛とは流水のようなものと考える。人の心、感情とは常に変化を続けるものだ。ある程度、人為的に流れを変えることはできても、完全に流れを止めることはできない」
流水……。どこかで聞いた感じの表現だな。
「もし変化が止まるとすれば、それはその人に対する恋愛感情を失った時だ。恋愛感情がある限り、その想いが不変ということはありえない。人間の細胞が毎日入れ替わるように、恋愛感情にも昨日と今日とでは微細な違いがある。いや、昨日と今日どころではない。絶えず流れ続ける水のように、一瞬たりともひとところにはいられないのだ」
あ、思い出した。純水だ。
確か、水澄さんが恋愛のことを純水のようなものと言っていた。
水つながり。さすが兄妹といったところか。
一緒に暮らしているわけではないみたいだけど、身近な者同士どこかで影響し合ってるんだな。
ふと時計を見ると、時刻は午後六時を回っていた。だいぶ日が長くなったとはいえ、曇り空のせいで外は薄暗い。
小乗先輩もそれに気付いたのか、区切りの良いところで議論を締め括る。
「そろそろ時間だ。ここまでにしておこう。今日もなかなか有意義な議論だったな」
恋愛に対する考えは人それぞれであって、そこに優劣はない。
生物学的に言えば、より多くの遺伝子を残した者が勝利者なのだろう。でも、いくら遺伝子が残っても自分が幸せでなかったら意味がないという考えもある。恋愛以外の幸せを追求する人生だってある。いくら議論を尽くしたところで絶対的に正しい結論は出てこない。
それでも有意義と言えるのは、自分の意思を分かりやすく伝えようとする過程で、それまでおぼろげだった考えがしっかりと固まるからだ。逆に、他者に意見されることで、それまで常識だと思っていた固定観念が打ち砕かれることもある。
固めては砕き、固めては砕き。
それを繰り返すことで、怪我をした部分がより強固になって回復するように、徐々に自分の哲学ができあがってくる。
だからといって幸せになれるとは限らないんだけどね。
議論が終わると、僕が着替えるため先輩三人はすぐに鞄を持って部室を出る。
上森先輩と下倉先輩はそのまま帰ってしまうが、小乗先輩は鍵を職員室まで返しにいくため、すぐ下の階にある図書室で待っている。図書室で合流した後、二人で鍵を返しに行き、玄関まで一緒に歩いてお別れだ。僕は自転車置き場に向かい、小乗先輩は徒歩通学なのでそのまま校門へと向かう。
さて、お腹も減ったし早く帰ろう。今日の夕飯はなんだろうな。
そんなことを考えながら歩いていると、不意に横から声をかけられた。
「よう、ひかるちゃん」
上森先輩だ。
二年生の自転車置き場は別の場所だから偶然ではなさそうが……。
「ちょっとこっち来てくれる?」
気軽な口調で、人通りのない校舎の陰の方へと誘導してくる。
「な、なんですか?」
今は女装してないから変なことはされないだろうし、いざとなればすぐ逃げ出せる場所なので、警戒はしつつも上森先輩の声に応じる。
「実は、ちょっと話があってな。部室では言いにくかったもんだから、ここで待ってたんだ」
「そ、そうですか」
なんとなく嫌な予感がする。
話を聞かれてはまずいので、念のため周囲に人がいないか確認する。
――誰もいない。
「それで、話ってなんでしょう?」
「ひかるちゃん、今度の日曜日は予定あるかな?」
「いえ、特には」
「じゃあ、一緒に映画でも観にいかないか?」
「え、映画ですか……。それは、二人で?」
「おう」
映画に誘われるなんて初めてだ。休みの日に友達と遊びに行ったのが小学生以来の僕にとって、これは嬉しい。
ただし、普通に友達としてのお誘いだったらの話だが。
「あ、あの、服装はもちろん自由ですよね?」
「いや、服はもう用意してあるから、ぜひそれを着てきてほしい」
「それは、女の子の服?」
「もちろん!」
胸を張って肯定する上森先輩。やっぱり嫌な予感が当たった。
当然の如く、僕は抗議する。
「ちょっと待ってください! コスプレは部室の中だけって約束だったじゃないですか!」
「でも、水澄ちゃんとは女装して会ってんじゃん」
「ぅ……」
図星を突かれ、言葉に詰まる。
確かに、あれから何度か僕は金山ひかりとして水澄さんと会っている。
でも、それとこれとは話が別だ。
「そ、それは、非常事態における緊急措置の延長であって、約束が無効になったわけじゃありません!」
「もちろん、それは分かってる。分かった上でデートに誘ってるんだ」
やっぱり友達同士で遊びに行くわけじゃないんだ……。
「ひかるちゃん、俺は本気なんだ。本気でひかるちゃんと仲良くなりたいんだ」
まずい、ついに恐れていたことが現実になった。
この人、本気で僕を攻略するつもりなのか。女装中はともかく、普段の姿の時こんな風に言われたことはなかったのに。
とにかく、お誘いを断らなくては。
「す、すみません。実は僕、映画が苦手なんです。あの大音量が頭に響くもので……」
「だったら映画じゃなくていい。水族館でも遊園地でも、ひかるちゃんが行きたいところへ行こう!」
しまった、この断り方は間違ってた。
それなら――
「でも、お金があんまりなくて……」
「費用なら全部俺が出す。こういう時のために、去年の夏休みと冬休みはガッツリバイトして貯金してたからな」
うう、逃がしてくれない。
こうなったら下手な言い訳はやめよう。
「で、でも、やっぱり、僕は男ですから、男同士でデートなんておかしいですよ」
ハッキリ告げると、上森先輩は何かを悟ったようにフッと息を吐いた。
「そうかもしれねえ。なにせ男同士じゃ、どうしたって子孫は残せねえからな。生物学的にはおかしいって分かってる。だが、さっき議論で言ったように、大事なのはそんな結果の話じゃねえ。今を楽しむことが一番大事なんだ!」
困った。どうしよう……。
この人、自分の哲学に一点の曇りもない。一対一の議論では到底太刀打ちできない。
かといって、いきなり逃げ出すなんて失礼なこともできない。
と、その時。
後方から野太い男性の声が割り込んできた。
「おーい、そこで何してる?」
知らない先生だ。でも、ジャージ姿でホイッスルを首にかけているので、どこかの運動部の顧問であることが分かる。声も目つきも厳しそうな人だ。
「もうじき最終下校時刻だぞ。いつまでもしゃべってないで早く帰りなさい」
「は、はい」
「そっちの二年生もな」
「ういーす」
先生から注意された以上、すぐに帰るしかない。
「じゃあな、ひかるちゃん。さっきのこと、前向きに考えといてくれよ」
上森先輩は徒歩通学なので校門の方へ歩いていく。
僕も自分の自転車があるところへ向かう。
今日のところは助かった。今日のところは……。
でも、これからどうすればいいの?
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