第5話 P病床日記
5 P 病床日記/1961.8.2 水曜日
●4時50分に目覚める。はっきりと目がさめてくると悲しいことばかり考えた。妄想がやってくる。しかたがないので、灰色の壁をじっとみつめることで耐えた。
●背の痛みを訴えたら看護婦さんが鎮静剤を持って来てくれた。
●太陽と夏の田園の匂い。蝉の鳴き声と遠雷のひびき。それらすべての風物は窓から入ってくる。白いシーツ、清潔なbedでぼくは悶々としていた。病気になると孤独になる。ぼくは、いかなる事物とも無関係だということを宣告されたようなものだ。ぼくには彼女がいる。彼女がいなかったらもっと惨めなことになっていたろう。
●それでも、死を間近に感じている。このまま咳きこんで、息ができなくなったらどうしょう。病気が治らなかったらどうしょう。美智子さんは病気のぼくと交際することを親に反対されるだろう。
●熱。7.8分。頭痛。空咳。胸と肩の痛み。
●美智子さんのことばかりかんがえる。彼女のほほ笑みを思うと心がなごむ。ツベルクリンをする。
●闇に上がる花火。ようやく歩いて行けたトイレのまどから眺める。ああ、あそこに健康な日々を送っている人がいる。羨ましかった。壁に白い蛾が一匹。尿は少し。黄褐色に濁っていた。
N
○いまになって思いだしても、わたしの一番苦しい時期だった。カミサンの、そのころは恋人であった彼女がこの鹿沼にいてくれなかったら絶望のあまり死を思っていたかもしれない。麻布霞町にあったシナリオ研究所を卒業していた。北村篤子さんは華々しくシナリオライターの道を歩み始めていた。そのほかの仲間も、東京で精進し作家への道にすすんでいた。わたしだけが故郷へ呼びもどされて、友だちから距離をおいたところで生活をしていた。
○百歳(ももとせ)に 老い舌出でて よよむとも 我はいとはじ 恋は増すとも
(万葉集.764)
○いまごく平穏な日常をいきている。こうした老境を過ごせるようになるとおもわなかった。いまでもわたしは彼女に恋をしている。家持の歌がわたしの心境をよくあらわしている。
○彼女は、いまもやさしくほほ笑む。あのころと少しもかわっていない。
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