第45話 道化師の憂鬱
「実は僕は先程、女子サッカー部の部内規則を日野崎に頼んで見せてもらったんです。するとマネージャーも一応部員として扱われていたんですよ。ということはこの部に登録されている人間は『現在活動している十三人』に加えて、『休部している部員』が一人。『マネージャー』のあなたも入れれば十五人いることになる。それなのに公式の部員数は十四人。あなたは部員として数えられていない。あなたはどういう立場なんです?」
僕と彼女、二人だけの教室。窓の外は夕闇が迫りはじめ、かすかに北風が吹きつける音が響いていた。
田無先輩は沈黙を破って口を開く。
「何が言いたいの?」
「マネージャーは『練習がきつくてついていけない。だけれど部に貢献したい』なんて人間がなることもあるみたいですね。あるいはかつては怪我で故障したために参加できない、なんて人間も」
「……」
「新聞部の清瀬という人から聞いたんですが、二年前この女子サッカー部に『切り札のリベロ』と言われるほどの選手がいたらしい。……現在休部していることになっている人です。例えばその人は実は何かの事情で部に居られなくなったから休部している。それでも部に所属したいがために形だけマネージャーをしているとしたらどうでしょう」
彼女はため息をついて肩をすくめた。
「いいわ。……続けて」
「あなたが部員の告げ口をしていた理由。……今回の動機もそのことが絡んでいるんじゃあないかと考えています。教えてもらえませんか」
「そんなことを聞いてもあなたに何か得があるとは思えないけど」
「僕はなるべくなら誰も傷つかない形で物事に決着を着けたい。それが無理ならせめて、傷ついた人にも何かの救いやなぐさめがあってほしいんです。僕にそれができるかはわからないけど、そのために精いっぱいのことはしたい」
田無先輩は僕の言葉を肯定するでも否定するでもなく、ただ「そう」と呟いて「それじゃあ、教えてあげるわ。何の意味もないだろうけど」と続けて、語り始めた。
彼女の道化じみた三年間を。
田無先輩は元々、中学までサッカーをやったことはなかった。いや。それどころか、部活にも所属していなかったのだそうだ。
そんな彼女を高校の時サッカー部に誘ったのは、のちに部長になる鷺ノ宮妙子先輩だった。
「私は中学までサッカーやっていたんだけど、一人で入部するのもなんだから。もし良かったら一緒にやらない?」
特に入りたい部活もなかった当時の田無先輩は鷺ノ宮先輩の言葉に乗せられて女子サッカー部に入部したのだった。
その頃は髪も今より短く、眼鏡もコンタクトにしていて活発なイメージだったらしい。
鷺ノ宮先輩としては自分一人が入部するよりも、少しでも知り合いがいた方が心強いという気持ちだったのかもしれない。しかし生来運動神経が悪くなかった田無先輩は、初心者にも関わらず実力をめきめきと発揮する。夏の大会ではレギュラーとして出場するまでにもなった。
「その時のことは校内新聞でも取り上げられたわ。リベロのスーパールーキー。勝利に導く切り札、ジョーカーだってね」
「なるほど」
サッカーにおけるリベロといえば、ディフェンスを担当しながらもチャンスと見れば攻撃に参加する変幻自在のポジション。つまり防御も攻撃もこなす自由に動き回る役回りだ。
どんな数字にも使うことができるトランプのジョーカーに例えられるほどに活躍していたのだろう。
しかし、大会終了後に彼女は急にレギュラーから外される。
納得がいかなかった彼女は「なぜ自分が外されるのか」と当時の顧問教師に詰め寄った。
顧問教師は厳しい表情で一枚の写真を見せた。
それは喫煙をしている田無先輩の写真だった。彼女は中学時代に素行の悪い友人と付き合っていた時期があり、背伸びをして格好つけたつもりで撮ってしまった一枚だった。
顧問教師は彼女に告げる。
「この写真が匿名で送られてきた。どういうつもりかはわからないが、もしかしたら大会運営側にも送られているかもしれない。まだ問題とはされていないが、こうなっては地区大会に優勝して注目を浴びたことがかえって仇になる。しかもその時活躍した部員がこんな不祥事を起こしたとあっては、もし発覚したら対外試合禁止の処分が下ってもおかしくない」
彼女はこれに対して懸命に訴えた。
この写真は中学時代のものだ。今ではもうこんなことはしていない。自分は更生して真面目に部活に取り組んでいる。
だが顧問教師の対応は変わらなかった。
「中学時代に撮影したということは当時の同級生にこの写真をふざけて送りでもしたということだろう。不特定多数の、しかも他校の人間にこの事実が知られているということになるじゃあないか。……そんな人間に部に所属してもらっては困るんだ」
彼女は部に残りたい一心で必死に頭を下げた。
中学までの自分は、両親との仲がうまくいかず荒れていた時期があった。今になって自分はようやく楽しく打ち込めるものを見つけた。どうか、部活に居させてもらえないか。
その後、顧問教師が下した判断は、休部という形を取ってほとぼりが冷めるまで練習にも参加せず、表向きはマネージャーとして部に所属することだった。
本来なら退部もあり得たが、反省しているようだから今回は様子を見る。問題がないようであれば、いずれ選手として復帰させる。
顧問教師はそう約束したのだった。
彼女の休部は体調を崩したためしばらく練習に参加できないという形で他の部員たちに伝えられた。
鷺ノ宮先輩も「大変だね。私はあなたが早く復帰するのを待っているから」と田無先輩を励ましてくれたという。
彼女はそれから部の皆に迷惑をかけそうになったことを恥じて、懸命にマネージャーとしての仕事をこなしていた。
けれどもそんな彼女のことを周りの同級生たちはだんだん選手ではなく、自分たちを支える下働きをして扱うようになり、やがて彼女がかつて活躍した事実さえ忘れ去られていた。
それから年月が過ぎ田無先輩は二年生になる。今年こそは選手として部員に戻れるのではないか、彼女はそう期待していた。
しかし夏の大会になっても、秋になってもその時は訪れなかった。
ある時、彼女は顧問教師に訴えでたが「自分はもう選手に戻してもいいと思うんだが、部長が君はまだブランクがあるし、新一年生もいきなりマネージャーをしていた人間が選手として復帰すると戸惑うかもしれないと言っている。もう少しタイミングを待ってくれ」などとのらりくらりとかわされた。
そうこうしているうちに、その顧問教師は異動で他の学校へ行くことになった。結局なし崩しに休部中の部員でありながらマネージャーをしている、という中途半端な立場だけが残った。
そしてある日、彼女は決定的な会話を聞いてしまう。
「しかしさあ。田無も粘るよねえ。いい加減諦めればいいのに。ねえ妙子?」
「まあ、いいじゃないの。晴美。ああやって率先して下働きしてくれるのは助かるし。それにあいつが喫煙していたことがばれていたら、私らまで連帯責任で部活動停止にされていたかもしれないんだよ? これくらいやらせて当然じゃない」
廊下で用具の片づけをしていた彼女が聞いているのも知らず、同級生である当時の小金井晴美先輩と鷺ノ宮先輩は扉が半開きになった部室でそんな言葉を交わしていたのだ。
そこに話好きの小平敦子先輩も加わる。
「またまた。よく言うよ。妙子が自分であいつの中学時代の同級生に弱みはないか聞いて回って、タバコを吸ってる写真手に入れたんでしょう? おかげでレギュラーの枠も空いたからあたしも何も言わなかったけどさあ。部内全員に写真回すってあんたもエグイよねえ」
「一人、そういうはけ口になるのを作っておいた方がチームもまとまるでしょう? 大体、初心者が私を差し置いてレギュラーになるってのが生意気だったのよ」
一部始終を聞いた田無先輩はその瞬間、目の前が真っ暗になった。
「じゃあ、鷺ノ宮部長が当時の顧問教師に写真を送ったんですか?」
「ええ。そういうこと。私は真面目にマネージャーをこなしていれば選手に戻れると信じ込んで、自分を
攻撃も守備もこなすオールマイティーなリベロと評された無敵のジョーカーから一転、不祥事で部を危機に追いやりかけた外れもの、ババ抜きのババに成り下がったのよ、と彼女は自嘲めいた笑みを浮かべた。
前の顧問教師が去った後、彼女は三年に進級し、それと共に飯田橋先生が顧問教師になる。
彼女はこれまでの経緯をすべて彼に話して、もう一度選手になれないだろうか、という考えが頭をかすめた。
しかし、それはつまり彼女がかつて喫煙をしていた素行不良な人間であったことを生活指導の教員でもある飯田橋先生に話してしまうということでもある。最悪の場合、飯田橋先生からも退部を言い渡されるのではないだろうか。
それに、仮に選手に復帰できたとして。
残り数か月しかない部員生活を、あの彼女たちと一緒にチームを組んでやっていく。それは本当に自分の望んでいることなのだろうか。
そんな時に飯田橋先生がマネージャーの彼女に告げたのだ。
「自分は女子サッカー部の顧問は初めてで、部内の状況にも疎いところがある。二年間マネージャーをやってきて気づいたことがあれば遠慮なく教えてくれ」
その言葉が彼女の中で一つの行動を起こすきっかけとなったのだ。
「わかりました。先生」
「と、まあそういうことよ。それから私は部内の状況を調べては飯田橋先生に逐一報告していたというわけ」
全てを語った彼女は陰鬱な目つきで机越しに僕を見る。
おそらく飯田橋先生は彼女が部の内情を調べるために盗み聞きまでしているとは思っていないだろうし、そこまでしろと指示したつもりもないはずだ。だが、彼女は飯田橋先生の指示を敢えて拡大解釈して、今日まで告げ口を続けてきたというわけだ。
「そうでしたか。確かに、脚の不調を隠して試合に出たらかえってチームのパフォーマンスは落ちるかもしれない。それに練習試合をさぼってライブに行くことは褒められたことじゃないかもしれない。あなたは、女子サッカー部内の風紀と秩序を守っていたともいえる。……でも、それだけじゃあないですよね」
僕は右手で彼女を指し示しながら、続ける。
「あなたは、自分の行動一つで部内の人間が処分され、叱責され、しまいにはお互いを疑いの目で見るようになっている状況を。この状況を作り出したことに愉悦を感じていたんじゃあないですか」
「ええ。勿論よ」と彼女は悪びれずに答える。
「私を
彼女は可笑しくてたまらないと言いたげに口の端を持ち上げる。
「……それに知っている? あの鷺ノ宮部長、一年生たちの間でワンマンのヒステリーって陰口を叩かれているの。あなたが聞き込みをした範囲じゃどうか知らないけれど、実は一年生が最も告げ口犯と疑っているのは鷺ノ宮なのよ?」
その楽しそうに笑う表情はどうにも僕には悲しく見えた。
「自分は立派に部をまとめているつもりらしいけど、現実にはあの子自身が部内の雰囲気を険悪にしている根源だと目されているわけ。笑っちゃうでしょう?」
「つい先日、僕はある女の子と話をしたんです」
僕は田無先輩の質問を無視するように、別の話題を切り出した。
「何? 急に」
「彼女は、自分を見失いかけている僕にこう教えてくれました。『弱い立場に立っている時こそ自己保身に走るかどうかが試される』そして『強い立場に立っている時こそ、その人間の本質が問われるのだ』と」
「……」
「あなたは部の仲間に裏切られ誰よりも弱い立場に落とされた。しかしそれが故に、存在感が薄く何も失うものがないという意味で、強い立場にあるともいえます」
「だから?」
「かつて他人に過去の過ちを告げ口されて貶められて窮地に追い込まれたあなたが、今度は自分が相手に同じことをする。あなたはそれを自分でどう思っているんですか?」
彼女は苛立たし気に僕を睨みかえす。
「私はやられたからやり返しただけよ。……何よ。『それじゃあ相手と同レベルだ』とでも言いたいの?」
僕だって今まで不当に貶められた他人を助けるときに、相手の手口を逆手に取る形でやり返したことは何度かある。
ただ、それはその先に何人かでも救われる人間がいたからだ。
だけれども。今回の一件で田無先輩が取った行動の先に、和解は、妥協は、明るい未来へ向かう希望はあるのだろうか。
「……それで、田無先輩はすがすがしい気持ちになりましたか?」
「私を苦しめた人間が何の報いも受けずに、楽しく部活を謳歌しているのを見るよりはマシな気分だわ。綺麗ごとを言わないでよ。私の気持ちもわからないくせに」
確かに僕の言っていることは綺麗ごとだ。
子供っぽい理想論だ。
現実に自分が同じ立場に立ったら、同じことを言えるかもわからない。
だけど、そんな僕を。僕のそういう所を好きだと言ってくれた女の子がいるんです。田無先輩。
そして彼女は、自分の弱さをも自戒して静かに正しくあろうとする彼女はこうも言ったんだ。
「人を見下すことで得られる快楽というのは麻薬と同じですよ、田無先輩。『倫理的に肯定できる幸福ではない』という点と『耽溺すれば自分の身を滅ぼす』という二つの意味で」
「……う」
何か言い返そうとするが、彼女は言葉が見つからないようで、その行き場のない感情は形にはならない。
「僕は今回のことを他の部員たちに話すつもりはありません。適当に落としどころを探すつもりです。部外者の自分にあなたを裁く資格はないとおもっていますから」
そう言って僕は席を立つ。
「最後に一つだけ聞かせてください。あなたはこの間、日野崎が風邪で休んだために補修の報告ができなかった時、代わりに報告して叱られないようにしてくれたんですよね? 何故ですか?」
「え?」
そこで田無先輩は虚を突かれたように一瞬黙ってから口を開く。
「だって、あの子は前に部に入った時に、周りから誤解されて追い出されて。それでも戻ってきて懸命に一度は自分に冷たく当たったチームメイトと頑張っていて。…………自分と似ているような気がしたから」
何故かきまりの悪いような顔で彼女は呟いた。
「それに、あの子だけは、素直で真っすぐなあの子は実質マネージャーの私のことを先輩って慕ってくれたから。……それだけよ」
僕はそこに小さな希望を見た気がした。
強い立場になった時に人間の本性が顕現するというのなら、困っている後輩をそっと助けるのだって彼女の本性の一部なのではないか。
「これは僕が親しくしている、ある女の子の受け売りなんですが。ジョーカーに描かれている道化師の絵は中世の王家や貴族に召し抱えられていた宮廷道化師が由来なのだそうです」
唐突に何を言いだすのかと彼女は困惑した顔になる。
「彼らは滑稽な格好をして笑いものになるのが役目だった。しかし代わりに主人である王や貴族にどんな失礼な発言をしても許されるという特権があったんです」
僕は彼女に何かが伝わればいい、と願いながら言葉を紡ぐ。
「彼らは、ただ単に冗談を言って周りを楽しませるだけの笑いものじゃあなかった。王が愚かなふるまいをすれば、すぐさまそれを囃し立てて風刺し、『政治に影響を与える評論家』という一面すらありました。ポーランドにはスタンチクという歴史に名を残した宮廷道化師がいるほどです」
田無先輩は笑いだしそうな、それでいて泣き出しそうな、複雑な感情が入り混じった顔になる。
「あなたは自分を外れ者のジョーカーだと自嘲しているかもしれないけれど。そんな風に思っていない人間だっているはずです。……僕が言いたいのはそれだけです」
僕は彼女に背を向けると教室を後にした。
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