第46話 小さな希望と約束の結果
作業教室棟で田無先輩と話してから、数日が過ぎた放課後。
僕は廊下を星原と一緒に歩いていた。いつものように勉強会をするために図書室の隣の空き部屋へ向かっているところである。
「それで、結局女子サッカー部の件はどうなったの?」
「歯切れの悪い答えで申し訳ないけれど、僕自身にもよくわからない。言うべきことは彼女に言ったつもりだ。でも、それが何かの救いになったのかどうか」
結局僕は部外者でしかないし、彼女と他の部員たちの軋轢をどうにかできたわけではないのだ。
彼女に僕は田無先輩と鷺ノ宮部長との間でおこった確執について語った。話を聞き終わった星原は少し思慮するように沈黙してから口を開く。
「あなたがあまり気に病むことではないわ。今回の件で純粋に被害者だったのは、険悪なムードに巻き込まれた下級生たちだけでしょう。田無先輩と他の三年生たちに関して言うなら、どちらも加害者でどちらも被害者だわ。過去の失敗を持ち出して、田無先輩を貶めた三年生たちも善人とは言えないし、それに対して告げ口という方法で復讐した田無先輩も正しいとは言えない。……起こった悲劇をなかったことにはできないけれど、あなたが取った行動でこれ以上嫌な思いをする人間はいなくなるかもしれないでしょう」
「そうだと良いけどな」
僕は彼女の気遣いに感謝しつつ、いつまでも暗い顔は見せられまいと無理をして微笑んだ。
あのあと僕は三年生の教室を訪ねて、鷺ノ宮部長にこう説明した。
「女子サッカー部室の通気用窓の裏手は、先生たちの非公式な喫煙所になっていて飯田橋先生もたまにそこで時間をつぶしていたみたいです。たぶんそれで会話が聞こえていたんでしょうね」
「そうだったの。……まあ、確かに会話が聞こえそうな場所なんてあそこくらいだものね」
彼女はどこか釈然としない顔をしながらも、一応は納得した。
勿論、実際はただの口から出まかせである。
その後彼女からも部員たちに同じ説明をしたらしく、部内の雰囲気は少しずつ落ち着いていったそうだ。
だが結局のところ僕は適当に誤魔化して解決したことにしただけで、本当は誰一人救われていないのではないだろうか。
そんな小さな自責の念を抱えながら僕は階段を登って角を曲がる。……すると。
「やあ。お疲れ」
この間と同じように廊下で日野崎が待ちかまえていた。
「……ああ。女子サッカー部の方はあれから何かあったか?」
僕は田無先輩が盗み聞きをしていたことを女子サッカー部の誰にも話してはいないし、これからも話すつもりはない。ただ、日野崎だけは携帯電話をすり替えて証拠をつかむのに協力してもらったため例外である。
「田無先輩がさ。部活を辞めてしまったの」
「……そうか」
どういう心境の変化かはわからないが、もう告げ口をすることはしないのだろう。
部を去るときに田無先輩が挨拶をしたときも、部員たちは皆大した反応もなく、人形のようにそっけない表情で頭を下げただけだったという。
ただ、日野崎はどうしても一言伝えたかったらしく、田無先輩に部室を去るときに追いかけて、声をかけたのだそうだ。
「それで? 日野崎さんは何て言ったの」
僕の隣で星原が尋ねた。
「いや。普通に思っていたことを伝えただけだよ。『今まで部のためにありがとうございました。私にとってはあなたは、誰にも褒められなくとも懸命に努力して皆を支えてくれた素敵な先輩でした』って」
日野崎は彼女が盗み聞きをしていたこと自体はあまり責める気はないようだ。考えてみれば日野崎はあくまで部の雰囲気が不穏になってしまったことを何とかしたくて僕らのところに来たのであって、飯田橋先生に告げ口していたこと自体は問題視していないのかもしれない。
そもそも日野崎は後ろめたい行動とは無縁で、盗み聞きされて困ることなどなかったから、そのあたりへの悪感情は薄いのだろうか。
「でもね。そしたら田無先輩。何故だか泣き出してしまったんだ。『私もあなたのように正直に生きればよかった』『周りとうまくやるのは無理だったかもしれないけど、それなら嫌な人間からはさっさと離れて、別の所でやり直していれば人生を無駄にしなくて良かった』『あなたのようにまっすぐな人になりたかった』『これからは、せめてあなたがくれた言葉に見合う人間になるから』って。そう言って去っていったよ」
「日野崎。……お前って、本当にすごいな」
彼女は僕にはできなかったことをあっさりやってのけた。
友人に裏切られ、憎悪を抱えて苦しんできた一人の少女の気持ちを、ほんの少しではあるが救ってみせたのだ。
もっとも本人には、その自覚はなさそうだが。
今回は図らずも、陰口をたたきあう人間、互いを疑う人間、自分の立場を守ろうとする人間たちを見てきたが、思えば彼女だけは。日野崎だけは異質だった。
強い立場や弱い立場だとか弱みを握るとか握られるとか、そんな基準は問題にもしていない。そんな価値観を超越して、ただ正直に自分の気持ちにまっすぐに生きていること。
それが本当に強いということなのではないか。
強い人間とは彼女のような生き方をする人間を言うのではないか。
時々まっすぐすぎて思い込みが激しいきらいはあるし、単純思考と侮る人間もいるかもしれないが、僕には彼女が太陽のようにまぶしく見えるときがある。
「ああ、それから。はいこれ」
日野崎はふところから二枚の紙きれを取り出して僕に差し出した。映画のペアチケットのようだ。
「えーっと、日野崎。これは?」
僕は戸惑いながらもそれを受け取る。
「何らかの形でお礼はするって言ったでしょう。うちのスーパーの景品で余りが出たからあげるよ。……それで虹村に言われた約束を果たしなよ」
「えっ」
そういえば、忘れかけていたが僕は虹村にババ抜きで負けた時に「星原をクリスマスのデートに誘うこと」を命令されていたのだった。
一部始終を横で聞いていた星原は、疑問気な表情になる。
「……虹村さん? 約束?」
日野崎はそれじゃあね、と手を振って廊下を歩き去っていく。
残された僕は微妙な雰囲気を振り切るように彼女に言葉をかける。
「えーっと。星原。……それじゃあ、せっかくお礼としてチケットをもらったことだし二人で見に行かないか」
「ちょっと待って」
誤魔化しついでに誘おうとした僕を、彼女は不機嫌そうな顔で制する。
「忘れかけていたけれど、そういえばこの間虹村さんと『負けたら何でもいう事を聞く』という条件でババ抜きをしたのだったわね。あなたが言われたことって、今のことに関係しているの?」
静かな怒りをたたえた彼女の双眸が僕を咎めるように睨みつける。
「あ、いや。……まあ。そうなんだ」
もともと嘘や演技が得意な方ではない。しかもこんな心の準備ができていない状況で問い詰められてはなおのことだ。僕は、口ごもるようにそう答えることしかできなかった。
「呆れた」
星原は肩を大げさにすくめると、僕を置いてきぼりにするように早足で歩き始める。
「あなたは虹村さんに言われなければ、私を誘ってもくれないという訳ね」
「いや、違うんだ」
「違う? 何が違うの?」
「だから」
急いで追いすがる僕に途中で止まって振りかえった。そして彼女は少し顔を赤くしながら尋ねる。
「じゃあ、はっきり聞かせて。虹村さんに言われたから、私を誘ったの? それともあなた自身が行きたいから私を誘ったの?」
つややかな黒髪の下から少し大きめの瞳を覗かせて、彼女は僕に詰め寄った。
僕はこの間まで彼女と話していたことを思い出す。
何が「弱い人間が強い立場に立つこともある」だ。
僕と彼女に関して言えば、人間として強いのは彼女の方だ。精神的、人間的には僕の方が弱いだろう。だが僕が強い立場になったことなど一度もないぞ。
「どうなの?」
再度、僕に詰問する彼女に僕は身を投げ出す思いで答えるしかない。
「いいや。僕が行きたいんだ。星原と一緒に時間を過ごしたい。……虹村に言われたからってわけじゃない。改めて誘うよ。今度のクリスマス一緒に映画でも見に行かないか?」
どうなのだろう、と僕は恐る恐る彼女の表情を窺った。
「……うん。こんな私でよかったら」
彼女は僕の言葉に花が咲いたような笑みを浮かべてそう答えた。
どうやらさっきのは怒ったふりをして、僕の本心を引き出そうとしたらしい。
強い立場でありながらも、それを必要以上に振りかざすことはなく使いどころをわきまえている。あるいはこれも彼女の美点なのかもしれない。
日野崎とは方向性が違うが彼女もまた強い人間なのだろうな、と僕は心の片隅で呟く。
それじゃあいきましょうか、と彼女は右手を差し出した。
彼女の白い指を僕は少し強く握り返して、隣を歩き始めたのだった。
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