第25話 モデスタ・ヴァレンティ通り
行きつけではない飲食店に入るというのは、ちょっとした緊張感を伴う。
いわんや高校生の僕にとってあまり行き慣れていない、大人向けの喫茶店となればなおさらだ。
「ここなの?」と星原が横目で見ながら問いかける。
「ああ」と僕は目の前の木製のドアを開いた。ドアベルの音がチリリンと店内に鳴り響く。
バリスタと思しき中年男性が一瞬僕らを値踏みするように睥睨するが、数秒後には「いらっしゃいませ」と会釈してきた。一応お客さんとして見てもらえたらしい。
「二名様ですか?」
「えーと……、待ち合わせを」
僕が口を開きかけたその時。
「おーい。こっちこっち!」と涼やかな声が響く。
奥の席に座った二十歳ほどの女性が僕らに手を振った。以前に見た時と同じようにボサボサ頭に黒縁眼鏡をかけていて、ワインレッドのシャツの上にクリーム色のジャケットを羽織っている。
彼女の名は
僕と明彦は以前に演劇部で起こった事件について調べる際に彼女と知り合いになった。
特に明彦の方は幡ヶ谷さんに好感を持っていて、その後彼女の劇を何度か見に行き、連絡先を教えてもらっていたらしい。
恐るべきコミュ力である。
そこで僕は明彦を通じて、幡ヶ谷さんに今回の件について相談するためコンタクトを取ってもらったのだ。かくして今回幡ヶ谷さんの通う大学近くの喫茶店で待ち合わせしているわけである。
「いやあ。急に雲仙くんから連絡があったと思ったら、君が相談したいことがあるっていうし。実際に行ってみれば、彼女連れで来るとはねえ。驚くことばっかりだよ」
「彼女連れって……」
「んー? 違うの?」
僕は気にしないが、星原は僕とそういう目で見られることに抵抗はないのだろうか。彼女の様子を伺うが、どういう訳か完璧なポーカーフェイスで何を思っているのかはよく判らなかった。
「……それはともかく。実は教えてほしいことがあるんです」
僕は幡ヶ谷さんに簡潔にここまでの経緯を説明する。
演劇部の仙川さんに「佐藤」という新入部員について所在を調べてほしいと頼まれたこと。
その「佐藤」という人物は、どういう訳かあまり部活に姿を現さず、入部していたことすら知らない人間もいる一方で、実際に会った部員もいるが、どうもその印象がはっきりしないこと。
「なるほどねえ。それでその佐藤というのが、何かの符丁なのか、はたまた部内で特別な意味合いを持つのか知りたかったということかい」
幡ヶ谷さんはニカニカと笑いながらも、眼鏡のレンズの奥の瞳で僕を凝視する。
「……佐藤。佐藤か。ちょっと待ってね」
幡ヶ谷さんは唐突に立ちあがると、携帯電話を取り出して番号をプッシュしながら店の外に出て行った。
「どこにかけているのかしら」
「さあ」
ほんの一、二分ほど後、幡ヶ谷さんは戻ってきた。
「サンキュー。北沢ちゃん。……そっかー。まだ続いていたとはね」
そう言って電話を切って席に着く。
北沢。……ああ、そう言えば幡ヶ谷さんの大学には天道館高校演劇部に所属していた人物がもう一人、
「今の北沢さんって……」
「ん。ああ。私の同級生。天道館高校時代は演劇部長を務めていたんだよ。彼女の方がそういう内情に詳しいかと思ってね」
「……それで何かわかったんですか?」
「結論から言うね。確かに『佐藤』というのは演劇部の運営側内部で特別な意味がある」
「それはどんな」
「それを言うわけにはいかないよ」
「え?」
僕は思わず席から立ちあがりそうになる。
幡ヶ谷さんはそんな僕をたしなめるように手のひらを見せて僕を制して見せる。
「意地悪しているわけじゃあないよ。君たちとしては人助けのつもりなんだろう。でもね。これは演劇部の運営者に代々伝えられてきた機密事項みたいなものでね。今回の件も当代の演劇部長が何かしらの意図があってやっていることなんだと思う」
「機密事項」
「そうさ。私だって、元とはいえ天道館高校の演劇部員だしね。今の演劇部内でどんな人間関係があるのかわからないけど、その関係で動きがあるのはそれなりの事情あってのことだろう。君たちの方にだけ肩入れすることはできないよ」
「そんな」
それでは完全に手詰まりではないか。
「今、人間関係と言いましたね」
それまで沈黙していた星原が唐突に口を開いた。
「ん?」と幡ヶ谷さんが星原を一瞥する。
「つまり、その『佐藤』というのは部内運営にかかわる何かなんですね。それも人間関係にからむような」
「確かにそうだが」
「それでは言わせてもらいますが、確かに私たちは演劇部員ではなく部外者です。でも演劇部員である仙川さんを助けるために、今こうしてあなたに会いに来たんです。間接的ではありますが、無関係ではありません」
星原は語気を強めて言うでもなく、ただ淡々と事実を述べる調子で言葉を続ける。
「部の運営のために、その『佐藤』という存在が使われているのだとして。そのために悩み苦しんでいる部員がいる。部の運営サイドが自分たちだけしか知らない事情で、一部員である仙川さんを悩ませているんですよ。双方の立場に対してフェアであろうとするのなら、仙川さんを助けることこそがフェアなのではないですか?」
普段は他人は他人と割り切っている彼女が、仙川さんのために必死に情報を聞き出そうとしている。報酬あっての事かもしれないが、少なくともこの件に関して星原は真剣に立ち向かおうとしているようだ。
僕も何とか説得しようと畳みかける。
「そうですよ。僕たちは誰かを傷つけたり苦しめたりするつもりはないんです。ただ、仙川さんの抱えている悩みを解決したいだけです」
幡ヶ谷さんはそんな僕らを困ったような顔でにらんでいたが、やがて小さくため息をついてみせた。
「そうはいっても、仮に君たちにこの事を教えて他の演劇部員たちに知れ渡るのもまずいんだよ。人の口に戸は立てられない。誰から聞いたのかって責任を追及されるようなことになっても困るからね」
彼女は依然難色を示していた。
「まあ、どうしても知りたいなら『モデスタ・ヴァレンティ通り』にでも行って聞いてみたらどうかな?」
「モデ……、どこですって?」
「モデスタ・ヴァレンティ通り。イタリアはローマにある住所さ」
「はあ?」
何のつもりだろう? そこに何かあるというのだろうか。
「もっとも実際には存在しない架空の住所だけれどね」
僕はがっくりと肩を落とす。
ありもしない住所に訊きに行けって、それは『教える気がない』という暗喩に他ならないではないか。
「幡ヶ谷さん。それがあなたの答えなんですね」
一方、星原は幡ヶ谷さんにさらに問いただすでもなく超然とした態度でもって彼女の言葉を受けいれているように見えた。
幡ヶ谷さんは「む」と小さくうなって星原の表情をまじまじと覗き込んでいる。
「君。名前は?」
「星原。星原咲夜です」
「そうかい。覚えておくよ。……君は将来大物になりそうだね」
「お褒めに預かり光栄の至りです。でも、私は結局のところ自分のことで手いっぱいの人間ですから」
「なるほどね。……今日はもういいかい?」
「はい。……行きましょう。月ノ下くん」
星原は立ち上がって、僕にこの場を離れるように促した。
「え……」
一瞬戸惑ったが、考えてみればこれ以上聞き出そうとしても有益な情報が得られないのであれば、居座ったところで仕方がない。
喫茶店の扉の前で、星原は「ありがとうございました」と幡ヶ谷さんに一礼する。満足のいく結果ではなかったが、僕らのために時間を割いてくれたことには変わりない。僕も一応頭を下げて、店を後にした。
僕はそのまま駅まで星原と並んで歩く。
夕暮れの繁華街は開店の看板が灯り始め、にわかにあわただしい様相を呈していた。
「結局、得るものはなかったかな」
「いいえ」
僕が「えっ」と表情を窺うと彼女は不敵に笑っていた。
「幡ヶ谷さんは彼女にできる範囲で、私たちに情報をくれたわ。直接的でこそなかったけれど」
「何のこと?」
彼女はさっきの会話から何かをつかんだのだろうか。
「モデスタ・ヴァレンティ通り」
「ああ。あのさっき幡ヶ谷さんが言っていた……。あれがどうかしたのか」
「私、その通りにまつわる話を聞いたことがあるわ。このモデスタ・ヴァレンティ通り、確かに架空の住所ではあるけれど実際に使われているの」
存在しない住所なのに使われている?
「どういう意味だ?」
「昔、ローマ市中央駅でモデスタ・ヴァレンティという年老いたホームレスが行き倒れて亡くなるという事件が起きた。そこでローマ市は同じ悲劇が起きないように『モデスタ・ヴァレンティ通り』という架空の住所を作ることにしたの」
「架空の住所を……作っただって?」
「つまりね。この『モデスタ・ヴァレンティ通り』という住所は誰でも使うことができるの。住所不定者であってもね。これによりホームレスは『モデスタ・ヴァレンティ通り在住』として行政サービスを受けたり、荷物を受け取ることができるようになったわけ」
なるほど。決まった住所を持たない人間は身分証明が難しいし、行政サービスだって受けづらいのだ。そういった人々の救済策という訳か。
「つまり、単なる地名ではなくて社会福祉制度。システムの名前だったのか。いろいろな人が『モデスタ・ヴァレンティ通りの住人』を名乗れる。フリーアドレスということなんだな。……じゃあ、まさか」
僕らが演劇部における「佐藤」の意味を訊きに来た中で、幡ヶ谷さんが何気なく口にしたこの単語が彼女なりのヒントだったのだとしたら。
「ええ。幡ヶ谷さんは私たちに答えを直接的には教えないまでも、公平な立場であるために遠回しな手助けをしてくれたんだわ」
どんな人間でも使うことができる架空の住所。それが演劇部における「佐藤」と同種の意味合いなのだとしたら。
僕の中で一つの結論が浮かび上がった。
「じゃあまさか、仙川さんを除く演劇部員全てが『佐藤』だったのか?」
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