第12話 お化けと同調圧力
「それで、この三角関数の問題なんだけど……」
「……ああ」
「サインシータの二乗とコサインシータの二乗の和が一になるから」
「……ああ」
「月ノ下くん。大丈夫? さっきから上の空みたいなんだけど」
隣で参考書の内容を説明している黒髪の少女が心配そうに僕の表情をうかがった。
肝試しに行く羽目になってしまった日の放課後である。僕は図書室の隣の空き部屋でいつものように星原との勉強会に参加していた。
「もしかして、例の肝試しのことを気に病んでいるの?」
「ばれていたか。まさにそれだよ。あーあ。……わざわざ学校に遅い時間まで残って、夜の森の中に入っていくとか。なーんにも楽しくないことを何だってやらなくてはいかんのだろ」
僕は頭を掻きながらぼやいた。
隣のソファーに腰かけた彼女は「まあ私もあの場で傍観していたわけだし。後から口出しされるのはいい気分がしないでしょうけど」と前置きをしてから、改めて口を開く。
「そんなに嫌だったら、そもそも最初に住吉くんの挑発に乗らずに肝試しなんて断ればよかったんじゃないの?」
「そうは言うけどさ。僕と明彦は『幽霊やお化けなんていない』って見栄をきったわけだよ」
「そうね」
「その言葉尻をとられて『そうか。本当に信じていないなら心霊スポットに行くのだって怖くないはずだよな?』って、からまれたわけだ。そこで『嫌だ』とか『行きたくない』と言ったら相手の発言を認めることになる。……ということは言い負かされた形になるだろ。『行く』という以外にどう返すのが正解なんだ?」
「……それなら『お化けを信じていないからって、心霊スポットに行かなきゃならない理由にはならない』と主張するのはどう?」
「ん? どういう意味だ?」
困惑する僕に星原は講釈を続ける。
「あのね。私も実のところ、そういう心霊スポットと言われているところに行くのは気が進まない。……でもそれは幽霊が出るからとかそういう問題ではないの」
「うん」
「そもそも『幽霊がでると噂されるくらいに、人気が少なくて明かりがほとんどないようなところに、夜中に行く』ということ自体が危険だからよ。もっと言えば、廃墟や私有地に入り込むこと自体、不法侵入という立派な犯罪でしょう」
「…………それは、確かにそうだけどな」
「仮に廃墟や私有地ではなくて、自由に出入りできるようなところだったとしても、よ? 現実にそういう幽霊か何かの目撃例があったのだとしたら、その正体は生きている人間という可能性の方が高い。そして夜にそんな人気がないような場所にいる人間なんて限られているでしょう。ホームレスか、後ろ暗いことをしようとしている犯罪関係者かチーマーかもしれない。そういう人種が自分たちのテリトリーに入ってきた人間に友好的に対応すると思う?」
星原の意見は至極現実的で筋の通った話ではある。
「幽霊がいるいない以前に、何の得もないのにわざわざ危険な場所に不法侵入をしようだなんて馬鹿げているわ」
彼女はあきれ顔で肩をすくめてみせた。
「理屈の上では星原の言うことが正しいと僕も思うよ。……でもな。実際に今みたいに『幽霊は怖くないが生きている人間が危害を及ぼす可能性があるから怖い』なんて説明しても、『なんだこいつ。びびってんの?』とかいわれて、臆病者のそしりは免れないんだよ」
その場の勢いで生まれたある種の熱狂的な雰囲気にとらわれている集団に対し、まともな正論は無力なのである。立場の強い人間が言うならまだしも、僕のようにクラスで目立たない立場の人間ならなおさらだ。
今日の昼休みのように、男としての度胸が測られている場面では臆病者の逃げ口上にしか聞こえないだろう。
「私には、そういう男の面子みたいなのはいまいちわかりかねるわね。でもそういうことなら……」
「何かいい反論があるのか?」
「私なら、今言った危険性を説明したうえでこう返すかな。『もし肝試しに行けというのなら、代わりに賞金を出せ。それなりのリスクと手間をかけさせられるのに、何の得にもならないことはやりたくない』とね。このとき提示する額は相手にとって払えなくはないけど、それなりに負担が重い額を言うべきね」
「……うーん。なるほどな。相手も意地を張ってこっちを言い負かすために金まで払う覚悟はないだろうしな」
たぶん『なんで自分がそんなことしないといけないんだ』とか言ってくるだろうが、『そもそもこっちには何の得もないのに、労力をかけさせるような真似を強要するのがおかしいだろう』と返せば相手もそれ以上は何も言えないかもしれない。
ふと、気になったので僕はもう一つ星原に聞いてみることにした。
「ちなみに」
「ん?」
「星原は幽霊やお化けを信じていたりするのか?」
冗談半分でした質問である。おそらく「まさか」と一笑に付されるだろうと予想していたのだが、返ってきたのは意外な回答だった。
「信じている、といえば信じているのかもね」
「え?」
「ただし、たぶん私の考えている『お化け』や『妖怪』と月ノ下くんの考えているそれとはちょっと意味合いが違う」
含みのある言い方をする。
「意味合いが違うっていうのは……具体的には?」
「あなたの考えている『お化け』や『妖怪』というのは、あれでしょう? 超自然的な力を持っている、人間に危害を加えるモンスターということでしょう?」
「……まあ、そうだな。吸血鬼だとか狼男だとか、日本古来の話なら、鬼だとか河童とかさ。そういうのだろ?」
「ええ。でも私の考えている『お化け』や『妖怪』というのは『ある集団の間で共有される抽象的な概念』つまり『場の雰囲気』『社会的な慣習』みたいなもののことなの」
僕は彼女の言葉を頭の中でかみしめながら、その意味をどうにかとらえようとする。
集団の間で共有される概念?
「それは存在を信じていない、ってことじゃあないのか? 結局お化けや妖怪は言い伝えやただのまやかしと認めているようなものだろ」
「確かに『お化け』は目には見えない。声も聞こえない。触れもしない。でもイコール存在しない、ということにはならないわ」
彼女はあくまでも穏やかな調子で僕に反論する。
「例えば愛情や友情、憎しみや悲しみは目にも見えないし、それ自体には触れないわ。でも歴然と存在しているでしょう」
「そりゃあ、…………そうだが」
確かに感情というのは物理的に存在しなくとも、その存在を現象として誰もが認めるだろう。『幽霊』や『お化け』もそれと同様なものだと言いたいのだろうか?
星原はぱたんと参考書を閉じると、「うんっ」と小さくうなって両手を上にあげて間延びをした。
「ちょっと長い話になるんだけど聞いてくれる?」
どうやら話の前に一息つきたかったらしい。僕は無言で頷いて先を促す。
「例えば実際にこんな幽霊の目撃談があるの」
「ふむ」
「ある地方の漁港で、何隻かの漁船が出港した後で大きな嵐が起こってしまったの。船は横転し沈没してしまった。漁村の村人たちは生き残った人間がいないか捜索したけれど、結局見つからず何日も経過した。村人たちは彼らは皆亡くなってしまったのだと認めるしかなかった」
「……」
「しかし、それから数週間後に村の漁師たちが、真夜中に港で漁の準備をしていると、海の沖の方で白い光が明滅しているのが見える。夜にこんな港の近くを船など通るはずがないのに、と不思議がってみているとその白い光は海の上でゆらゆらと揺れているのがわかった」
「……それで?」
「村人の一人は気付いた。あの光があるのは漁船が沈没してしまった場所だ。『あれは幽霊だ。俺たちを手招きしている』ほかの何人もの村人も海の上で人の形をした白い光が自分たちを手招きしているのが見えた。『あれは無念にも時化にあって溺死した漁師たちに違いない』」
「……おお」
「やがて、その白い光は唐突に消えてしまった。何の痕跡も残さずに」
ありがちな幽霊譚かもしれないが、星原の淡々とした語りに僕は若干背筋に冷たいものを感じた。
「なるほどね。そういう体験談を聞くと幽霊がいると信じる人がいるのもわからなくもないかな」
「いいえ。私は別に、今の話は幽霊を目撃したとは思っていないわ」
「ん? どういうことだ?」
「いい? 夜の海で何かが光る現象というのは実際に自然現象として起こりうるの。夜光虫とかの発光プランクトンや『
そういえば僕も「セントエルモの火」という海で目撃された発光現象の存在を聞いたことがある。あれは確か悪天候時に起こる放電現象だったか。
「……そもそも数百メートル先の沖合で何かが光っていたとして、それが人の形をしていたとか手招きをしていたかなんて、肉眼では見えないわ。でも多数の死者が出る悲惨な事故があったという前知識がある状態で、ある一人が『あれは幽霊だ。俺たちを手招きしている!』と言い出したら、どうかしら」
「ああ。なるほどな」
僕はなんてことない壁の模様も、誰か一人が『人の顔をしているように見える』というと他の何人かもつられて同じことを言い出したりするという話を想起した。
人間は単純な点と線でも逆三角形に並んでいると人の目鼻に見えてしまうのだという現象で、こういうのをシミュラクラ現象というらしい。
「つまり一人の恐怖が周りに伝染して一種の集団パニックを引き起こしたのか」
「そのとおり。つまり何気ない自然現象でも死者への畏怖を意識している状況で、一人が幽霊がいると騒ぎ出したら誰でも幽霊が見えてしまうと思う。つまりそういうムードそのものが幽霊の本体だと思うの」
「……ベクトルは違うけど、小学校の時にも、目に見えない穢れが人から人へ移っていって、それを他人に押し付けあうのがあったな。『エンガチョ』とか『エンピ』だとか。……本当は穢れなんてないはずなんだが、『最初の誰か』がやり始めると『自分は汚いものを押し付けられたくない』という感覚に襲われて、みんな、ありもしない汚れから逃げ回っていたっけ」
彼女は僕の言葉に頷いて、いたずらっぽく笑って見せる。
「そういうわけ。鬼や河童もきっときっかけは似たようなものだったと思うの。昔は子供が山で遊んで行方不明になったり、川で遊んで溺死したりというような事故が多かった。そこでどこかの大人が戒めるために自然の恐ろしさを具現化した何かを思いついた。『あの山には鬼がいるから夜遊んではいけないよ』『あの川は河童がいて子供を溺れさせるから、近づいてはいけないよ』っていうふうにね」
「最初にそれを言った誰かは思いつきでも、その話は子供の間で広まっていって、信じられていくわけだな。そしてそれを次の世代にも伝えていく。やがて最初に思いついた人間はいなくなり、人々の心の中に自然への畏怖として『鬼』や『河童』の存在は生き続ける」
誰かが最初に考えた空想の産物が、人から人へ伝わり創造した本人の手を離れて独り歩きを始めるというわけだ。
「幽霊や妖怪。愛情や友情。差別意識に優越感。どれも存在すると思う人にとっては存在するけれど、その価値観を共有しない人にとっては存在しないのよね」
「『信じる者には証拠は不要。信じない者には証明は不可能』ってことか」
星原は「うまいことを言うわね」と笑ってから真顔になった。
「もしかしたら、生きている人間には観測できないだけで、幽霊や妖怪みたいな超自然的な存在は全てとは言わないまでも一部実在するのかもしれない。あるいはいないのかもしれない。でも確実に言えるのは、集団で目に見えない概念を共有したときそれは物理的に存在しなくとも現実的な影響力を持つということなの」
なるほど、と僕は星原の意図を領得する。
つまりは、擬人化されていないだけで、「貨幣」なんかもお化けや妖怪に近い存在といえるのかもしれない。
硬貨や紙幣は極論として言えば紙切れや金属に過ぎないが、みんながこれに価値があると信じるから、実際に交換価値を持つものとして扱われるわけだ。
「……今日の昼休みの件にしたってそうだわ。あの場に存在した『本当のお化け』は住吉くんと三鷹くんをきっかけに広まった同調圧力、『肝だめしに行かなきゃ男じゃないだろ』お化けといったところね」
「ネーミングがそのまんますぎるだろ」
「じゃあ、マチズモ・プレッシャーとでもする?」
マチズモというのは、男性優位主義とか男らしさ至上主義みたいな言葉だったか。即興で作った造語としてはマシな部類かもしれない。
「そんなところかな。でも何にせよああいう男らしさを押し付けられるシチュエーションは僕は苦手だ。……小学生の時にスカートめくりが流行った時期があったのだけど。最初は一人か二人の決まった男子がやっていたのが、だんだん広がって『スカートめくりしないやつは根性がない。男じゃない』みたいな風潮が出来上がってさ。僕はそういう迷惑行動を男らしさにすり替える流れに乗れなかったから正直つらかった」
星原は難しそうな顔をして眉をしかめた。
「時折何かしら最初に声を上げて、雰囲気を周りに伝染させる人がいるのよね。アジテーターとかインフルエンサーでもいうのかな。……飲み会で一気コールとかして飲めない人にもお酒を飲ませようとしたり。席の座り方や食事をする場面で妙に細かいマナーの必要性を広めてから、有料のマナー教室を開催したりね」
「まるで何かの宗教だな」
「でも無秩序な状態を導く存在として必要な時もある。周囲を振り回すこともあるから、肯定するのもどうかと思うけど、一概に否定もできないと思う」
「そういうものに自分が巻き込まれそうになったとき対抗する手段ってあるのか?」
「うーん。自分自身が同じように、それに反発するムードを作りあげるしかないんだけど。難しいわよね。一度勢いがついた雰囲気にその場で対抗するのは」
「やれやれ。それじゃあ、今回は諦めて肝試しに行くしかないわけか」
「……あまり力になれなくてごめんなさいね」
そう言って彼女は肩をすくめた。
「なに。聞いてもらっただけでも気晴らしになったさ」と僕は礼を言う。
さっきメールで回ってきたところでは、肝試しに行くのは来週だった。今日明日のうちに親に説明するための、帰りが遅くなる言い訳を考えておくとしよう。
僕がそんなことを頭の片隅で考えたときだった。ポケットの携帯電話がブブブッと振動した。メールを着信したらしい。
「なんだ?」
表示を確認すると明彦からだ。
文面はたった二言。『緊急の案件だ。今すぐ教室に来い』
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