第9話 星原咲夜の部屋にて
白い壁紙に木製のベッド。本棚には小説、雑学本、漫画などが詰め込まれている。しいて言うならベッドの上に置かれた犬のぬいぐるみが女の子らしさを感じさせるが、それ以外はある種の殺風景な雰囲気さえ感じさせる。
僕らが今いるのは星原咲夜の部屋だ。
フローリングの床の上に敷かれたベージュ色の絨毯。その上にはクッキーと紅茶のカップが乗せられた木製のトレイ。僕たち三人はそのトレイを囲むようにクッションに座り込んで話しこんだ。
「それで? 結局月ノ下くんが考えていたのは、賞金を渡すことを口実に犯人とコンタクトをとることじゃあなかったの?」
荻久保が話を切り出した。
「うん。もちろん上手くいけば犯人を特定できるんじゃあないかという目算もあったけど、ただそうはならないだろうと予想していた。実際今回、あの石神井って人は顔は知られないように賞金だけ振り込むように言ってきただろう」
「でも結局あの人は自分からコンタクトを取ってきたわけだよね。……どうやってそう仕向けたの?」
「そうだな。その話に入る前に動機についてはっきりさせておこうか」
「動機?」
「ああ。荻久保はそもそも落書きをする人間は何が目的で落書きをするんだと思う?」
荻久保は「ん」と小さく呟いて首をひねる。
「えーと、確かこの間そんなこと話していたよね。『単純に悪戯がしたかった』とか『自分で考えたマークとかをアピールして広めたかった』とか」
「そうね。愉快犯、あるいは自己承認欲求ともいえる。自分のしたことが通りすがる不特定多数の人たちの目に触れているのを見て喜んでいるんでしょうね」
星原が紅茶をすすりながら口を挟む。
「でも、そういう人たちは自分たちの落書きがすぐに消されることを知ったり、私がグラフィティを描いたことで、その意欲をそがれたんだよねえ? それでもあの石神井とかいう人はそれでも落書きをやめなかった。それはどうしてなんだろう」
荻久保はウェーブのかかった自分の髪の毛をいじりながら眉をしかめる。
「いや、実はそんなに難しい話じゃあないんだ」
「ふーん?」
「目的があって落書きをしていたんじゃない。彼にとっては落書きをすることそれ自体が目的だったんだ」
「落書きをすること自体が目的……」
「だからこそ消されようが、自分より高度なグラフィティを描かれようが構わず描き続けていたんだ。実際何かを作る作業に没頭することを楽しいと感じることはあるし、それ自体が目的になってもおかしくはないだろ?」
僕が答えると、荻久保はふむと納得したように頷いた。
「それはわかるなあ。私もイラストとか描いたり色を塗っていたりすると、だんだん心が無になって一心不乱に描き続けちゃうときあるよ。トランス状態っていうかゾーンっていうか、確かに描いているだけで楽しい時ってあるよねえ」
「……」
しみじみと呟く荻久保の横で星原もまた一瞬無言で考え込むような顔になっていた。
「そういうわけだ。そこでその目的を別のものに転換させたんだよ。まず荻久保に描いてもらうことで競争意識を刺激した。そして次にあえて、あいつの作品を表彰して誉めそやすことでプライドを刺激して賞金を渡すことで実利的な目的意識を持たせたんだ」
「つまり私に勝ちたいと思わせて、その目的を達成させた。そこにお金をもらえるという条件付けがされたことで、今度は名誉欲や金銭欲目当てで絵を描くようになったってこと?」
「そのとおり」
あの石神井という青年の自尊心はさぞ肥大化したことだろう。『美術のプロが自分の描いた作品を認め、しかも金を得ることができた』という事実は彼の中の意識を変質させたはずだ。
「その上で、三度目の表彰では荻久保の作品を選んだんだ。しかもわざと稚拙なモチーフで描いてもらったやつを」
「なるほど。つまり『自分の作品が認められないのはおかしい』って文句をつけたくなるように挑発したんだね」
「ああ。それまでは描くことそれ自体が目的だった。だが、今の彼の頭の中では自分の作品が『他者からの承認』そして『金銭的価値』を得るための手段になり替わったんだ。『いくらで頼まれてももう描いてなんかやらない』なんて捨て台詞を残すくらいだからな。そして今回で賞金を出すアートスペースは終わりだとも発表した」
「ふむふむ。金目当てで描くようになるように仕向けて、その上でグラフィティに賞金を出すのを止めたわけ」
「そういうこと。星原のお父さんはあんなふうに犯人を特定して脅したけど、僕の考えでは賞金つきの品評会が終わりになった時点で、もう彼は落書きをする意欲を失っていたと思うんだ」
星原はふうむと鼻を鳴らした。
「あの人、この先どうなるのかしらね」
「さあね。少なくとも最初は『ただ描きたいから』『描くこと自体が目的』として落書きをしていた。でも今はそれがなくなってしまった。何かの拍子にまた彼の作品が認められて金を得るようなことがあれば、それを原動力に作品を作り続けるかもな」
「でももし誰もあの人の作品をこの先認めなかったら?」と荻久保。
「描くことに対するメリットが得られないわけだから、いずれ作品を創る意欲が枯れ果てて、何もできなくなるな。たぶん。……でもなにはともあれ、これでもう星原の家に落書きがされることはなくなっただろ」
「まあ。そうね」
「それで例の日野崎の後輩の件。井荻さんの件なんだけど、どうだ。なんかいい案は浮かんだか?」
星原は「うっ」と小さく声をあげて困ったような顔になる。
「ああ。その件なんだけど。ごめんなさい。いまだに良い対策を思いついていないの」
「なに? 何の話?」と荻久保から疑問の声が上がる。
「いや、実はな。日野崎のサッカー部の後輩に井荻さんって子がいるんだが。クラスメイトの男子に英語の宿題を見せるように毎回頼まれていて迷惑していたんだそうだ。それで、それなら一回百円で罰金でも取るようにしたらどうかと日野崎がアドバイスしたら、逆に『百円で宿題やらなくて済むのならそれが良い』と考えるようになったみたいで、堂々と宿題を借りるようになってしまったんだよ」
「へえ。それで何とかする方法はないかって相談されていたんだね」
「…………あら?」
唐突に星原が見落としていたものに気づいたような声をあげた。
「今、月ノ下くん。その宿題を見せてもらうよう頼んできた人って『クラスメイトの男子』だって言った?」
「ああ。そうだよ。言ってなかったか?」
僕も直接確かめたわけではないがそのはずだ。日野崎も井荻さんも『彼』と表現していた。
「もしかして、その井荻さんっていう女の子。結構可愛かったりする?」
「ん、まあ。外見は整っているほうだと思うよ」
「それで、その可愛い女の子に、毎回男の子が宿題を見せてもらうように頼んでいると。お金を払ってまでして」
「そのとおりだけど……」
なんだろう。星原が力の抜けたような顔になっている。
「なんだ。問題解決じゃない」
「えっ?」
「そうだねえ。それならどうにでもできるねえ」
「ええっ?」
たった今、話を聞いていただけの荻久保にすら解決策がわかったというのか?
「本当にわからないの?」
「鈍いわね。月ノ下くんはまだしも、日野崎さんまで気が付かないなんて。それとも当事者に近いところにいると意外とわからないのかしら」
僕は戸惑いながらも二人の少女に問いただした。
「じゃあ、実際どうすれば井荻さんに毎回宿題を見せてもらおうとする彼の行動を止めることができるんだよ?」
「それはね……」
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