第8話 情熱の成れの果て

 星原の家の前につくと二人の見知らぬ男性が壁の絵を指さしながら話しているところだった。


 一人は口ひげを蓄えて眼鏡をかけた知的な雰囲気がある中年男性だ。しわ一つない高そうなスーツを着こなしている。


 もう一人はダボッとしたストリートパンツをはいて英字の入ったシャツの上にチェックのジャケットを羽織った丸いサングラスの若者だ。年のころは二十代前半だろうか。髪の毛は茶色でパーマがかかっていた。


「お父さんだわ。あのサングラスの人がどうやら落書きの犯人みたいね」

「へえ。あれが星原のお父さんなのか」

「ふうん、格好いいお父さんだねえ。で、あれがあのアリーウルフとか自称していた人かあ」


 僕らは少し離れた曲がり角からそっと様子をうかがった。


 二人の話の内容が聞こえてくる。


「それで、あの絵を君が描いたということなんだね」とスーツの男性、星原のお父さんが確認する。


「ええ。そうなんスよ。……おかしいじゃないスか。この間は俺の絵を表彰してくれたでしょう?」

「ああ。確かにね」

「そうッスよ! 『色使いが大胆でインパクトがある』とか『モチーフのキャラクターもわかりやすい』とか絶賛してくれたじゃあないスか。アートのプロの目線で判断してくれたんでしょ? それなのに今回はあのセンスもないカエルの絵が表彰されるなんておかしいスよ。俺だって今回は前以上に力入れて描いたんスよ?」


 サングラスの若者は苛立ちを隠そうともせず、グラフィティが描かれた壁を指さしながら訴えた。


 星原の家の壁には荻久保によるステレオタイプな「アメリカのカートゥーンに出てきそうなカエル」とサングラスの若者の作品らしい「ビルを壊す巨大なゴリラ」が描かれていた。


「確かに前回は君の作品を評価したが、だからと言って同じ方向性のものをもう一度描かれても新鮮味に欠けていて面白みがないんだよ」


 星原のお父さんは冷たい口調でもって言いつのる。その目には冷たい怒りと軽蔑が宿っていたが、サングラスの若者は自分の思う評価を受けられなかった不満でそのことには気づかないようだった。


 彼が返す言葉を探そうと口ごもり、一瞬その場に沈黙が下りたその時。


 星原がタイミングを見計らったかのように一歩前に進み出た。


「お父さん」

「おお。帰ってきたのか」

「今回の表彰者の子を連れてきたわ。……ほら、来て」

「う、うん」


 荻久保は若干面食らったような戸惑った表情で、それでも星原に言われるまま前に出る。


 僕は二人の背後で成り行きをうかがった。


「ああ、君がそうか。それでは今回の賞金を渡すからちょっと待っていてくれたまえ」


 星原のお父さんが鷹揚ながらもにこやかに笑いながらそう告げた。


 穏やかでなかったのはその隣の若者の方だったようで、荻久保を見るや否や「はああ!?」と奇声を上げた。


「高校生? そんなガキが描いたやつに? しかも女が? そんな奴が描いたのが俺のより評価されるのかよ!」


 その物言いに、荻久保と星原も逆鱗に触れるとはいかないまでもカチンときたらしく、互いに眉をひそめて目配せした。


「芸術の良し悪しに作り手の年齢や性別は関係ない。少なくともそんなことにとらわれて他人を見下すような心根があるようでは誠実に芸術と向き合うことはできないと思うがね」


 星原のお父さんが二人をかばうように立ちふさがった。


「何だよ。あんたも俺のアートが分からない頭の固い大人と同じかよ」

「頭の固い大人、ね。それは君の大学の講師陣のことかね?」


 え、とサングラスの若者は虚を突かれてぽかんと口を開ける。


「美の概念は人それぞれ違う。だからこそ芸術家は自分の中にある美というものに真剣に向かい合い、それを他者に伝えるべく真摯な姿勢でもって形あるものに落とし込もうとするんだ。東南芸術大学二年生の石神井栄太郎くん」

「えっ。………………な、なんで。俺の名前を?」


 石神井と呼ばれた青年は戸惑いを隠せず、思わず後ずさる。


「連絡先にメールアドレスとそれにアリーウルフとかいうライター名を書いただろう? あれを辿ってインターネットでSNSや画像共有サイトのアカウントとプロフィールを調べさせてもらった」

「あ、あ……そうスか」


 ここで星原氏はさらに追い打ちをかけるように続ける。


「ところで、数週間前からうちの壁に頼んでもいないのに勝手に落書きをする輩がいてね」

「は、はい?」

「私は非常に不愉快な思いをしていたのだよ」

「そ、そうなんスか」


 ここにきてようやく若者は、目の前の中年男性が激怒していることに気が付いたようだ。


「もちろん、今回のように持ち主である私が許可している分には問題はないだろう。だが勝手に人の家に落書きをする行為は刑法でいう器物損壊であり、立派な犯罪だ」

「……そ、そうスね」

「お前だろ?」


 ここで星原のお父さんはギロリと若者をにらみつけて凄む。サングラスの若者は一瞬ひるみながらも首を振った。


「な、何言っているんスか? 訳の分からない言いがかりはやめてくださいよ」

「SNSの君のアカウントがアップロードした画像の中にうちに以前落書きされていたグラフィティと同じものがあった。これでもまだ白を切る気かね?」


 星原のお父さんは結構上背もあり体格も悪くないので、不機嫌さを隠そうともせずに迫られると精神的な圧力があることだろう。


「本当なら、訴えたいところだがね。今回までは私の恩情で見逃してやる。だがもう一度同じことをするようならその時はそれなりの覚悟をしてもらうことになるがね」


 石神井はさっきまでの剣幕とはうってかわって、無表情になる。


 自分が認められるという確信があったにもかかわらず、思い通りにいかなかったことにどう反応すればいいのかわからずにいるようだった。

 やがて彼は絞り出すように声を漏らした。


「……なんだよ。俺はいずれ日本のアートに革命を起こすんだぞ。ああ、そうかよ。いくらで頼まれてももう描いてなんかやらねえよ。後になって、やっぱり俺に描いてもらえばよかったと思っても知らねえからな」


 そんな台詞を吐き捨てると石神井は踵を返して速足でその場を去っていった。


 星原のお父さんは去っていく彼の後ろ姿を見届けると、僕たちの方に向き直る。


「咲夜。……そこにいるのは友達かな?」

「うん。紹介するわ。私のクラスメイトの荻久保優香さん。今回、私たちのためにグラフィティを描いてくれたの。こっちは月ノ下真守くん。この間話した落書きを止める方法を考えてくれた人よ」

「ほう」


 星原のお父さんは僕と荻久保をじっと値踏みするように凝視する。


「申し遅れたね、咲夜の父の慎也です」


「は、はじめまして」と僕は緊張しながら頭を下げる。


「どうも」と荻久保も会釈した。


「荻久保さん。この度は私たちのために協力してくれたそうで、本当に感謝している。この場を借りてお礼を言わせてもらう。それに君の絵は若いのに素晴らしい品性とセンスを感じたよ。とにかく今回はありがとう」

「いえ、そんな。私も楽しかったですし、謝礼までもらっているんですから。そんなおおげさな」

「それと、月ノ下くんといったね」

「はい」

「今回は娘の相談に乗ってもらったそうで礼を言おう。しかしこう言ってはなんだが、君はああいう人間心理を計算に入れた策を思いつくタイプには見えないな。……ああ、気を悪くしないでくれ。どちらかというと、こう、人は悪くないが嘘がつけないようなそんな雰囲気があるように思えたのでね」

「そうですか」


 まあ、今回の策にしたって星原の話から着想を得たのであって、自分一人で思いついたわけではないし、慎也氏の観察眼が間違っているとも言えないだろう。


「それで。君はうちの娘とどういう関係」

「お父さん!」


 星原がニコニコとした笑顔でお父さん、慎也さんの後ろに立っていた。ただし表情には出ていないもののただならぬ迫力を感じる。


「月ノ下くんが困惑しているでしょう。そのくらいにして。ね」


 慎也さんはむ、と小さくうなって、僕たちに背を向けた。


「まあ。それはともかく、せっかくだから家でお茶でも飲んでくつろいでいくといい。私は仕事があるから、今日はここで失礼するよ」


 そういって家の中に入っていった。


「あの、星原。お父さんのことなんだけど」

「さっきの質問なら気にしないでちょうだい」

「いやでも。お父さんがああいう風に聞いてくるっていうことは、星原は僕のことをどんなふうに家の人に話して」

「……気にしないでちょうだい」

「はい」


 一部始終を横で見ていた荻久保がにやにやと笑っていた。


「ふふーん。星原さん。性格はお父さん似なのかなあ」


 なるほど、怒ると怖いところはそうなのかもしれない。


「今、失礼なことを考えていなかった?」


 家に入りかけていた星原が僕の方をにらんでいた。


「いや、別に」

「あ、そう。……それじゃあ、さっさと入って。お母さん、お茶の準備をしているみたいだから」


 僕と荻久保は一瞬顔を見合わせてから、星原家の玄関に足を踏み入れた。

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