第17話
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二人とも格闘技とかやってたの?
昨日の由美の言葉が頭の中でぐるぐると回る。
紗希は女子トイレの手洗い場で手を洗った後自前のハンカチで拭いて更にハンドクリームを塗った。
自分の手に馴染ませるようにクリームをすり込んでいく。写真に取られる時、手元は意外と重要なのだ。宣伝したい商品を持っていれば視線は自然と手元に集まる。髪や体型同様に気の抜けない部分だ。
紗希はその手を眺める。
日焼けをしてこなかった色素の薄い肌に細めの指先。美容というメンテナンスとしては申し分ないだろう。
でも何故か落ち着かない。
俺のあの肉球はどこへいった?少しの力加減で出し入れの可能だった鋭利な爪ももう無い。こんな整えられた綺麗な手で一体何を捕らえられるというのだろうか?
矢畑美里、トラジと一緒にいるとどうしても感覚が人間の石森紗希から離れてしまう。
あいつと一緒ならなんだってどうにかなると思ってしまう。あいつは多少頭が足りないが、行動力と力はあった。
その足りない頭を俺が埋めて、代わりに俺にない瞬発力や腕力をあいつがカバーしてくれていた。だから何でもできたんだ。
昔は。
よくよく考えればそれだって所詮は猫社会での話だ。おそらく人間相手にしたら太刀打ちはできなかっただろう。
そして昨日は人間だったとはいえ相手は成人男性だった。
人としての矢畑美里の身体能力は知らないが、まあ一般的な十代女子のものと見て間違いないだろう。
そしてそれは私、石森紗希も同じ。
迂闊だった。これからは少し慎重に考えないといけない。昔と同じ感覚ではいられない。
目の前の鏡に映った自分の顔を見る。厳しい表情をした女子生徒が真っ直ぐにこちらを見ていた。
昔の自分についていた左目上の大きな傷ももうない。
紗希は手に余った油分を唇にも少しつけた。保湿のためだ。
教室へ戻ろうと歩き出すと、ちょうど女子トイレに入ってくる生徒たちと出くわす。
ぶつかりそうになったが咄嗟によけて「ごめんなさい」と一言添えておいた。するとそのうちの一人が「あれ、石森さんじゃん」と声をかけてきたのだ。
紗希は美里以外の他人と関わる機会が少ないため、思わず驚いた表情で身構えてしまった。
声をかけた女子が笑って言う。
「やだ、そんなに驚かないでよ」
女子生徒たちは四人だった。見覚えはあるのでおそらく紗希と同じ二年五組の生徒だろう。
紗希はほんの少しだけ営業用の愛想笑いを出して対応する。
「ごめんなさい、考え事をしてたからびっくりしちゃった」
「石森さんさ、今日よかったら一緒にお昼食べない?」
声をかけてきた女子とは別の子が言う。
今日のお昼ご飯、と紗希は考える。
このところお昼は美里と一緒にとっているが実は特段約束をして待ち合わせているわけではない。ただ自然に紗希から声を掛けることもあれば美里が五組に来ることもあった。
彼女たちが一緒に来たら美里は驚くだろうか?いやしかし昨日のクラスメイトとのやり取りを見ても、美里は紗希よりもコミュニケーション能力はあるようだから問題ないだろうな、と考えた矢先。
「あんなギャル崩れみたいな子よりも私達とランチしようよ」
何かを言おうとしていた紗希の中から、もう何もかもの思考が消えた。感情が氷点下まで冷えていく。
「撮影の話とか色々聞きたいことあるんだよねー」
「私も!休みの日とか何してるの?とかね」
彼女達は紗希の変化に気づいていないのだろう。悪びれることなく高い声ではしゃいでいる。
「ね、いいでしょ?今日は私達とお昼食べようよ!」
楽しそうな笑顔で紗希を覗き込んだところでようやくその冷えた視線に気がついたらしい。
笑い声が消える。
「石森さん」
「悪いな」と相手が全てを言い切らないうちに紗希は言葉をかぶせた。
「人の大事な相手を悪く言うような奴と仲良く飯を食う気にはならねぇよ」
返答は聞かない。そのまま振り返ることすらなく女子トイレを出て教室へ向かう。
これで悪い噂が流れるだろうか?女子のネットワークを敵に回してしまってはこの先の学校生活が面倒なことになるかもしれない。
だがそんなこと知ったことか。
吐き捨てるように言い返してはみたが気持ちのざわつきは無くならない。
このやろう。お前に何がわかる?何を見知った状態で軽率にそんな口をきけるんだ。
紗希とすれ違う生徒はその形相に驚いて思わず道を開けた。
二年五組、自分のクラスの前にくる。
扉を開けるための手が重い。さっきの女子達も五組だとするとどうせすぐ鉢合わせることになる。
やってしまった、という後悔はない。だが今またすぐに顔を合わせたら衝突しかねない。入りたくない。
このまま何処かへ行きたい。
「お、ブチ丸おはよ。何してんだよ立ち止って」
きょとんとした表情ですぐ隣、二年四組の入り口にまさに今登校してきた美里が立っていた。
「お前結構朝早く来てるんだなー」
それじゃ、と教室に入ろうとする美里の腕を紗希は思いっきり掴んだ。その手に力がこもる。
美里は目を見開き驚いた顔で紗希を見返した。そして紗希は彼女が問いかけるよりも早くふり絞るような声で言う。
「頼む、ちょっと付き合ってくれないか?」
普段は決して見せない元相棒の様子に、美里は入りかけた教室の扉を閉めた。
「わかった」
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