第5話
石森は手に持っていた箸を置いた。綺麗な水色のお弁当用に作られた箸だ。
「昨日、お前に声をかけられて今の自分じゃない違う奴の記憶が入ってきたんだ。それもほとんどが自分の目を通してみた、経験したことみたいな映像で…」
言葉につまる石森をみて美里は申し訳なく思った。つい衝動的に声をかけてしまったが、半ば無理矢理に思い出させてしまった様に感じていたからだ。
「ごめんな、急に声なんかかけて」
石森が顔をあげて真っ直ぐに美里を見据える。
「私、昔猫だったね?」
「うん」
「そして、あなたも」
「うん」
美里も箸を置く。
弁当の中身はまだ食べ終わっていなかったが、もうこれ以上口に入れたい気持ちにはならなかった。
「その、驚かせたのは悪かったと思ってる。ごめん。でも嬉しかったんだよ。これまで前世っていうか、過去の記憶を持った人にも過去に知ってた人にも会ったことが無かったんだ。しかも会えたのがお前だったから」
美里は小さく頭を下げた。そしてそのまま話し続ける。
「もし今の世界で俺に関わりたくないならこれっきりでいい。お互い今の置かれている状況も違うと思う。だから無理はしないで」
「あ?」
石森のドスのきいた声が美里の言葉を遮った。驚いて顔を上げる。
こちらを見ている石森の表情は、目を見開いて顔をゆがませ今にも胸ぐらを掴んできそうなくらい凶悪な顔をしていた。
「お前は俺と関わりたくないってことか?人の記憶かき混ぜておいて」
低い声でゆっくりと言われた。予想外の反応に美里は慌てる。
「そんなん言ってないだろ!俺だって昔みたいにって思ってるよ!じゃなかったら声なんてかけなかった。でもお前今いろいろと忙しそうじゃねぇか、モデルとか」
もでる、という美里の言葉に石森は目を細めた。
「なんで知ってるんだ?」
「クラスで噂になってたぞ。俺は昨日初めて知ったけどな。学年じゃ有名らしいし。お前がモデルとか、意外でしかねーよ」
なるほど、という顔をしてから石森は弁当包みを片づけ始める。中身はすっかり食べ終わっていた。
「あれはな、ただの読者モデルだ。歩いてたらスカウトされた、それだけ。将来何か有利になるかと思ってオーケーしたんだ。それよりも、」
石森はそのまま悪戯そうな笑みで美里に顔を近づける。陶器のような白い肌に美里は一瞬ぎょっとした。サラサラとした髪の毛先が手の甲に触れる。
「あの、トラジが私の生活に気をつかうようになってるなんて信じられない」
「は?」
「あの後先考えずに暴れるだけ暴れてたお前が、他人の気持ちを考えるなんて」
「ちょっと待てどういう意味だ」
「第一、昔みたいにって言ったけど昔みたいに何をするんだ?ネズミでも捕まえるか?」
「それは…」
「わたくしネズミなんて触りませんわ。美容に良くないので」
「お前おちょくってんだろ?」
ここにきて、初めて石森が笑った。他人をからかう笑いでも作った笑いでもなくて、心からの笑顔。
あいつは毛皮の下でこんな顔をして笑っていたのか。
美里もそのまま弁当包みを片づけ始める。石森はお茶を飲んでからハンカチで口の周りを拭った。そしてその唇に丁寧にリップクリームを塗る。
支度も済み屋上の出口へと立ち上がった時、美里は「そう言えば」と思って聞いた。
「ブチ丸、今はなんて名前なんだ?」
先を歩く石森は立ち止まり振り返る。言葉を発するまで少しの間があった。
「石森紗希。トラは?」
「矢畑美里。紗希ちゃんて呼べばいいかにゃ?」
「キモチワルイ」
紗希はふいっと顔をそらした。だが決して悪い気はしていない。そのまま歩き出す。
「でも助かった。モデルを始めてから周りがよそよそしくてな。宿題とか見せてくれないし、近づいてくる奴らは上っ面だけで息苦しかったんだ」
「え?なに俺、羽目外す要因なの?」
美里の言葉に対し、紗希は屋上の出口まで来たところで演技がかったように振り返った。
「あらやだ、五限始まっちゃうわ。ごめんあそばせー」
そのにこやかな顔は撮影用の笑顔かとも思ったが、美里は昔に同じ様な笑いを見たことを思い出した。
あれはブチ丸が瀕死状態のネズミを眺めて、とどめを刺さずに遊んでいた時の顔だ。
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