第30章 ── 幕間 ── ケンゼン商会会頭ヤスミーネ・ケンゼン

 頭の中に響き渡った神の名の元に行われた宣告。

 当初は首都内に大した混乱はなかった。

 だが、あれから五日。


 神の破壊はいつやって来るのか……

 首都アポリスの路地ではその噂で溢れ、市民の混乱は日増しに高まっている。


 ヤスミーネ・ケンゼンは、窓から都の喧騒を眺めつつため息を吐いた。


「お父様は、一体何を考えていたのかしら……」


 ヤスミーネの父、ゴットハルトがアゼルバード侵攻を市民たちに訴えたのは既に一ヶ月以上前になる。

 いつもなら軍の大規模演習の時期だった為、あっという間に侵攻軍を組織できたのはその為だ。

 本来なら一年は掛かるはずだからだ。


 あのタイミングで攻め込まれては、ラムノークが攻めてくるとアゼルバードが気付く可能性は限りなく低かった。

 それは素人のヤスミーネでも理解できる。


 侵攻の失敗が知らしめられたのは、例の宣告である。

 神々の軍隊が侵攻軍を撃退したと宣告は言っていた。


 どの神が宣告を発したのかは神の名前が無かった為に解らず、偽物ではないかと市民たちの大多数が考えたのは致し方ない事だ。


 だが、あの宣告以降、すべての神々の大神殿、神殿、小神殿、教会が門戸を閉じた。

 何があろうと閉じることのない扉が閉じられたという事だ。

 神官たちのこの行動で、市民たちは宣告が本物であったのではないかと噂が囁かれ始めたのだ。


 その異常な光景だけではなかった。

 あの宣告から三日後、あらゆる方向から町や村の行政機関や公会堂、集会所などが破壊されたという報告がアポリスに届き始めた。


 破壊報告はどんどんと増えていき、今では宣告が本物かなどというバカな噂をするものはいない。

 当然「いつ破壊の波がアポリスに届くのか」という方に関心が向いている為である。


 噂は最初「謎の空を飛ぶ箱が爆裂の魔法を落としてきて建物が壊された」というモノが多かったが、二日も経つと神の使いを名乗る者が破壊して回っているという噂に置き換わっていた。


 神の使いの形姿の噂も当然あったのだが、どれが本当なのかは全く不明だった。


 ある噂では鎧姿の金髪の美少女が一撃で役場を吹き飛ばしただとか、妙な先端から火花を散らす魔法の杖から竜巻を起こすエルフ様の姿を見たとか、全身黒ずくめの目元が涼しい男が吹き飛ばしたとか、ピンク色のローブを着た小柄な魔法使いスペル・キャスターが天から火弾を落としたとか、漆黒の美女が神殿を切り裂いたとか、執事が剣で真っ二つにしたとか、火を吹く巨大な豹が暴れまわったとか枚挙に暇がない。


 ただ、妙に確信を持った証言も出回っている。

 その証言では、真っ白な神官プリースト服を着たメガネの美女が、その肉体を持って破壊して回っているというものだ。

 その美女の大きな胸の上にはマリオンの聖印が輝いていたとされる。


 その他にも、ラムノークの国民なら誰でも知っている人物たちが暴れている姿も報告された。


 それはアースラの使徒と言われる四人である。

 護国の英雄シグムント。

 双剣聖イェルド。

 草原の陰影ロッタ。

 そして、高炎爆禍アルベルティーヌ。


 本来なら四人で行動しているはずの使徒が国内において単独目撃され、それだけでなく破壊活動を行っているというのだからラムノーク国民の不安を煽るのに十分な噂である。

 ラムノークは英雄神アースラを国教として信奉しているのだから当然である。


 先のマリオン神官プリーストの噂が確信を持って話されるのも、女神マリオンは英雄神アースラの弟子という神話が残されているからである。


 アースラの使徒を筆頭に、それに関係する神々の使徒が動いているのだとすれば、あの宣告には英雄神アースラも関わっていると市民たちは考えた。


 アースラ教の神殿に市民たちが押し寄せたのは言うまでもないが、宣告を受けた初日に門戸が閉じられたと言ったように、誰もアースラ教の神官プリーストに助けを求めることはできなかった。

 会うことすら叶わなかったと言うべきかもしれない。


 首都内は混乱に陥ったが、アポリスの衛兵団が迅速に混乱を抑え込んだ為に事態は収束に向い大事には至らなかった。

 衛兵団の優秀さはラムノークの誇りと言える。


 窓の外に見えるアポリスは、表面上はいつも通りに見えている。


 これからどうなってしまうのかしら……


 ヤスミーネは窓から離れると執務椅子に座り目の前に積み上がった報告書に目を通した。


 商会で扱っている商品の内、在庫の枯渇が懸念される項目が目を引く。

 項目は主に食料品に関するもので、保存の利く食料が圧倒的に多い。

 こういった状況は、この二日間で顕著に現れ始めている。

 今は、各支店で融通しあって何とか凌いでいるとのことだ。


 これは、先の宣告の影響なのは間違いない。


 ヤスミーネは宣告の後に即座に動くことが出来ず、食料品の確保に失敗していた。

 それでもラムノーク最大手のケンゼン商会の力は伊達ではない。

 昨日から食料品の販売を絞って節約を始めている。


 宣告通りに行けば、この国の行政機関は神々の軍勢によって完全に破壊されることになるはずである。

 真贋を見極める時期はとうに過ぎているのだから。


 今更神々からの報復に備えたところで何とかなるとも思えないが、備えておかないよりはマシな結果になるのではないか。


 会頭として、やるべきことはやっておかねば……。


 ヤスミーネは苦労性だった。

 物心付いた時にはゴットハルトによって商会の重役にされていた。

 お嬢様重役は、周囲にバカにされないように必死に努力をしてきたのだ。


 ようやく周囲に認められ始めたのは一〇歳を越えたあたりだっただろうか。

 グリンゼール公国でしか産出されない幻の果物を手に入れる事に成功した時からだ。

 グリンゼール公国の貴族やオーファンラントの王侯貴族しか口にすることを許されないとされた果実である。

 ラムノークの上流階級がヤスミーネを褒め称えたのは言うまでもないだろう。


 ヤスミーネはそれ以降、あらゆる手を尽くしても目的を遂げる才媛として認知された。

 彼女が手掛ける商品は基本的に上流階級向け商品が多い。

 その為、上流階級に属する知己が多い。


 食料品の仕入れなどに目を向ける事は今まで無かったのである。


「あの資金を使ってしまったのは痛かったわね……」


 ヤスミーネの脳裏には世界樹の森の中にある村の映像が浮かんだ。


「でも、あそこで負けるわけには行かなかったし」


 目を閉じるとオーファンラントの若きやり手貴族の顔が浮かんだ。

 目立たない容姿なれど、その手腕には目を瞠るものがある。

 おまけに見たこともない魔法道具を山ほど持っていた。


 ヤスミーネには残念ながら魔法の素養はない。

 価値はあるのは解るが、魔法道具の正しい価値を見抜く目はない。


 なぜ点火イグニッションが込められた魔法道具が、金貨数枚の価値しか無いのか解らないのである。

 あれは魔法を使えない者、それも下働きや下女などにとってとてつもない価値があるに違いない。

 火を起こす作業は本当に大変なのである。


 ヤスミーネはお付きのメイドにやらせてもらったことがあるが、作業に没頭して手に血豆を作ってしまった。

 だというのに火は付かなかった。


 ヤスミーネの記憶にこの出来事が苦い思い出として残っているのは、それだけが理由ではなかった。

 そのメイドは、ヤスミーネの血豆の責を負って解雇されたのだ。

 仲の良かったメイドだけに、ヤスミーネの心に深い傷として残ってしまった。

 それ以来、ヤスミーネは子供らしからぬ子供になってしまった。

 やけに大人びて、そして慎重に事を進める狡猾さを手にれた。


 もっとも、それが婚期を遅らせる結果にもつながったのだが。


 ヤスミーネはもう一度ため息を吐いた。


 その時だった。

 遠くで大きな爆発音が何度も鳴り響き、その爆発の地響きが部屋すら揺らしたのだ。


 ヤスミーネは立ち上がると窓の外を眺めた。


 光の筋がいくつも地上に降り注ぎ、爆発を引き起こしているようだった。


「何事!?」


 ヤスミーネはその光景を見て、見慣れたアポリスが焼かれている事を知った。


「お嬢様!!」


 扉がノックもされずに開いたが、それを咎める余裕はヤスミーネになかった。

 ただ、反射的に「会頭と呼びなさい……」と力のない声しか出なかった。


「それどころではありません!!

 神罰の矢が落ちています!!」

「見れば解るわ!!」


 一際太い光の筋が遠くに見える元老院議会場の屋根に消えた。

 目に見える風景が真っ白なベールを眼の前に降ろされた如く一瞬で白に染まる。

 目がチカチカして波の見えなくなったヤスミーネは、窓から視線を離すしかなかった。

 一〇秒ほどで目が見えなかった視力が、なんとか足元の絨毯が確認できるほどに回復した。


 ヤスミーネはもう一度窓から見える議会場に目を向ける。


 無かった。他の建物に遮られることもない背の高い議会場は影も形もない。

 あり得ない状況を見ている今も、次々と光の筋が空に現れて地上に落下している。


「あれは、一体何なの……?」

「解りません……ですが、お嬢様。

 避難されませんと危険です」

「会頭と呼びなさい」

「失礼しました、会頭。

 ささ! お早く!

 地下倉庫に避難所を設けております!」


 強引に引っ張られながらヤスミーネは執務室から離れた。


「やはり神罰……なのかしら?」

「あのような魔法は聞いたことがありません。

 神々の御業なのは間違いないでしょう」


 メイド頭のアーシアの言葉には確信めいたものがある。


「なぜ、そう言えるの?」

「あれはアグネアの矢と呼ばれる御業です。

 御伽噺と思っておりましたが、数千年前に神の怒りを買った都市を滅ぼした神々の御業です」


 アーシアの祖先は、その滅ぼされた都市の末裔なのだと言う。

 どうしてその都市が滅ぼされたのかは解らないが、戦いの神の一柱女神アグネアが使う御業だと代々言い伝えられているという。

 アーシアの一族はその出来事以来ずっと女神アグネアの信徒なのだそうだ。

 遠当ての女神と呼ばれているアグネア神の神殿は、アポリスにも存在していると彼女は言う。


 アグネア神による神罰の悲劇は、彼女の一族が後世生きていく上で次のような教訓となったそうだ。


 神の矢から逃げる事はできない。

 だが、大切な物は地下に隠すと良い。

 何故ならば、神罰は人に落とされるのだ。

 自分が神罰の対象でなければ、破壊の余波から逃げる為には地下に籠もれ。


 宣告が言っていた目標物はラムノークの行政施設や公共機関だ。

 そういったモノを地上から消せばラムノークを消せると神は考えたのかもしれない。

 国民を消すとは言ってなかったのだから、地下に籠もるべきなのだとアーシアは言う。


「そうね……そうするべきね」


 ヤスミーネはアーシアに手を引かれながら、別の事を考え始めた。


「お父様は、神罰の対象かもしれないわ……」


 小走りになりながらそうヤスミーネが呟くと、アーリアがこっちを向いた。


「当然そうなるのでは?

 ひと月前の広場の演説は私も聞きましたので」

「アゼルバードに攻め込む決定を下したのは、ゴットハルト様なのです。

 神々の怒りが向けられるのは避けようがありません」


 アーシアはとある何もない壁の前にまで来ると壁にあるランプ台を回すようにひねった。

 ギギギと軋る音と共に地下への隠し階段が現れる。


 ヤスミーネとアーシアは、その隠し階段に飛び込んで入り口を閉める。

 扉が閉まる瞬間、ヤスミーネはアーリアが何かをポケットから取り出したのが見えた。

 すぐに真っ暗になったが、柔い光がすぐにあたりを照らした。

 アーシアの手には光を放つ魔法道具が握られていた。


 便利な魔法道具だわね……


 真っ暗闇から抜け出せて、ホッとしたヤスミーネには、その魔法道具が相当高い価値を持つと思った。


「それってかなり高価なモノでしょ?」

「そうですね。金貨一〇枚ほどでしょうか……」


 うんうん。

 そのくらいはしないといけないわね。


 ヤスミーネがそう思っていると、アーシアはそれに反することを口にする。


「これほど高いと、何の意味もありませんね」

「え? どうして?

 こんなに便利なら当然じゃない?」

「お嬢様……この手の魔法道具は安い方が良いと私は思っております」


 アーシア曰く、高いという事は様々な人が使いづらくなってしまうとの事だ。

 買えるのは貴族や大商人に限られてしまう。


 確かに庶民で金貨一〇枚は出せない。


 説明されてヤスミーネは納得する。


「でも、主人が買い与えればいいじゃない?」


 アーシアには首を横に振られた。


「魔法道具でなくても明かりは付けられます。

 ならばわざわざ高い魔法道具など買いませんでしょう?」


 費用が掛かりすぎる。

 火口箱や火打ち石で十分火は付けられるのだ。

 会頭であるヤスミーネは費用を削減する重要性を知っている、

 アーシアの言う事すべてに納得できてしまった。


「ならば、魔法道具は安くならないと駄目だわね」


 階段を降りながら呟く。


「申し訳ありません……

 この魔法道具ですが、店頭から私が勝手に持ってきたものです。

 購入したものではありません……」

「商品に勝手に手を付けるのは問題だとは思うけど、今は非常時よ。

 目を瞑ります」

「お嬢様、ありがとうございます」

「会頭よ」


 アーシアの機転がなければ、暗い階段で怖い思いをしたに違いない。

 会頭としてヤスミーネは褒めこそすれ、咎める意味はないと考えた。


「この神罰の矢はいつ終わるのかしら……」

「あと二日ほど続くのでは……?」


 宣告は一週間と言っていた。

 アーシアの判断は間違いないだろう。


 二日後、アポリスがどんな事になっているのか……


 不安を抱えつつ、ヤスミーネは階段を急ぎ足で降りる。

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