第30章 ── 幕間 ── ヤスミーネ・ケンゼン
本国とオーファンラントの国境から歩いて一日、そこから馬車を借りて四日。
ラムノーク民主国の首都アポリスに到着したのは六日目の朝だった。
揺れる馬車の旅で些か気分が優れなかったが、そんな事を言っている暇はない。
アポリスの東門で貸し馬車の御者に金貨を握らせて送り出してから門へと進む。
城壁は二〇メートルほどの厚みがあり、門の中頃に都市に入るための検問所が備え付けてある。
門が開いてから二〇分も経っていないので、検問待ちの行列も対した長さになっていない。
それに前に並んでいる人々は、近隣の農村から新鮮な野菜を売りに来る農民ばかりなので、殆どが通行定期手形を持っているので時間はかからないのだ。
二〇分も待つ事なく自分たちの順番となる。
「身分証明になるものを」
「はい、これ」
若い衛兵が威厳を出そうと必死に低めの声を出しているのを感じる。
ヤスミーネ・ケンゼンは、指示通り素直に首から下げている自分の商業ギルド証を引っ張り出しす。
豊かな胸の谷間からスルリとギルド証が出て来た。
ギルド証の固い感触が谷間を通っていくのを感じつつ、若い衛兵の視線が自分の谷間に注がれているのも解ってしまう。
気づかれないようにしながらも凝視しているのが可愛いわ。
大抵の男はスケベでイラッと来る事も多いけど、ウブな少年兵の視線は別ね。
ヤスミーネは、その美貌から男にちょっかいを掛けられることが多い。
そういう男は中途半端な自信家である事が多いのが困りどころだ。
ちょっと金持ち、ちょっとイケメン、ちょっとだけ実家の権力が強いなど、大抵は中途半端である。
自分に絶大な自信を持つ男は自分から声など掛けてこないものだ。
女の方が放っておかないんだから、そういう態度になるのも仕方がない。
森の村で出会ったケント・クサナギ辺境伯という人物もその手の男だった。
絶大な力と財力、そしてそれを手に入れるに値する実行力と知性。
顔はイマイチだったけど、あれくらいの男でなければ自分には釣り合わないとヤスミーネは思っている。
ただ、他国の貴族なので積極的には誘惑しなかった。
それ相応の見返りがなければ、貴族に国や領地、家を捨てさせるなんて事はできはしない。
魔法道具を作る技術、あの伝説級の元冒険者である兎人族の受付を屈服させる膂力、紛糾する会議を一瞬で終わらせる智謀、フェアリー・テイルを一割で良いと自国に損をさせても眉すら動かさない胆力……
どれをとっても一級の人物だ。
我が国を売り渡しでもしないと手に入らない人物じゃないかしら?
さすがにヤスミーネに売国をするような度胸はない。
「ケ、ケンゼン商会のお嬢様でいらっしゃいましたか!!」
若い衛兵が声が裏返るほどに驚いた。
「そうよ。
こちらの二人は私の護衛なの」
「どうぞ、お通り下さい!」
若い衛兵はそういうと、先にいる衛兵に手を上げて合図を送る。
「通してよし!!」
久しぶりの首都の中央通りを歩く。
たった数年ぶりではあるが、一〇年以上帰ってきていないような気分だった。
「あ、あそこに新しい店が出来ているわ」
「あそこは前は鍛冶屋でしたが、今は食い物屋なんですかね?」
「看板には……『伝説のカツ丼屋』? と書かれていますが、どんな食べ物でしょうか?
まだ早朝だというのに既に人が並んでいるようですが……」
「あの印をご覧なさない。
あれはフソウの武家の紋章なのよ。
きっとフソウのサムライという貴族の家で仕えていた料理人の流れを組むお店だと思うわ」
などと歩きながら話していると、隣を歩いていた行商人が吹き出した。
「お嬢さんたち、お上りさんかい。
あれはフソウから流れて来た伝説の料理人が開いた店だよ。
何やら数百年前に救世主様が広められた伝説の食べ物を再現したレシピなんだとか」
ヤスミーネは突然話しかけてきた行商人風の男の話にキョトンとしてしまう。
そんな話はミカワヤ氏からも聞いていない。
彼は相当な美食家だと聞いているし、そんな伝説の料理なら彼も食べているはずだ。
そんな店が我が国に支店を出したのなら、彼も知っていると思われる。
彼は他の商会であっても自国商会を平然とアピールしてくる愛国者である。
挨拶の時にそれとなく話題にしてアピールしてきても可笑しくないではないか。
しかし、現実にはそんなアピールはされてない。
「そんな料理店が出店しているなんてどこからも情報が入ってきてませんわよ?」
行商人の男は「ははは」と笑っている。
「あの店が出来てまだ半年も経ってないからね」
そんな最近出来た店なの?
ヤスミーネは足を止めて改めて店の方を見てみる。
まだ店は開いていないのだが、既に二〇人以上の行列が出来ている。
確かに店先の壁は新しく漆喰が塗られたようだった。
上の方を見上げれば、店の入っている建物の上ある煙突からはモクモクと白い煙が立ち上っている。
中に人がいるのは間違いない。
などと思っていると軒の下にある木戸が開いて男が数人出てくると、木戸枠を外しているのが見えた。
あら?
あの方は……
ヤスミーネは作業をしている男の一人に近づいて声を掛けた。
「もし。
貴方、シュナーマン商会の若旦那じゃございませんの?」
怪訝そうな顔で細面の男が振り返った。
「こ、こりゃケンゼン商会のヤスミーネお嬢さん。
お久しぶりですね」
男は身体ごとヤスミーネへと向き直るとペコリと頭を下げた。
彼の名は、ミハエル・シュナーマン。
シュナーマン商会の長男であるが、放蕩が過ぎて家を追い出されかねないと言われていた駄目男だ。
「貴方、こんなところで何をしてらっしゃるの?」
ヤスミーネの疑問は当然である。
彼はヤスミーネと同じ歳であり、幼馴染でもあった。
だが、放蕩三昧のイケメン幼馴染が、飲食店で真面目に仕事をしているのは信じられなかった。
話しかけた時の返答も商売人として腰が低く、及第点を付けられる。
こんなのは、彼女の知る幼馴染ではない。
「貴方、放蕩三昧は止めて真面目に働くようになったの?」
ミハエルは「ははは」と苦笑いを漏らす。
「まあ、今はもう二〇も半ばを過ぎましたからね。
いや、そういう理由でもないか……」
彼は看板を見上げて、今度は思い出し笑いをし始める。
「私は、この料理に出会って変わったんです」
何でも放蕩三昧の末、野盗に捕まって連れ去られた事があるらしい。
普段の幼馴染の生活スタイルからも、身代金を要求されても支払ってもらえないような状態だったとか。
その時、ある旅の料理人を名乗る戦士に彼は助けられた。
その料理人戦士は、あっという間に野盗団を壊滅させ、彼を開放してくれた。
その時に料理人戦士に振る舞われたのが、トンカツという食べ物だった。
昼はカツサンド、夜はカツ丼。
その料理に感銘を受けた幼馴染は彼の弟子にしてほしいと頼みこんだが、幼馴染に料理の才能はなかった。
彼はそれでもこの料理人の味を世に知らしめなければならないと、シュナーマン商会に彼を連れていき、会頭に土下座をしてまでこの店の準備金やらなにやらを用意させたのだという。
「今では、ここで店の店長として経営に関わらせて頂いてます」
料理は人を変える。
ヤスミーネはそう思わざるを得なかった。
「貴方にも面白い出会いがあったのね。
良い事だわ」
「ヤスミーネお嬢さんにも出会いがあったんですか?」
「ええ、私も自分の常識を打ち砕かれるような出来事があったわ」
こんな風に彼と話込むなんていつ以来かしら。
彼と一緒に遊んでいたのは幼少期の頃だから二〇年近く前になるわね。
「店長、よろしいでしょうか?」
「ああ、今行く」
店員の一人が幼馴染を呼びに来たのでヤスミーネは会話を切り上げることにする。
「あ、忙しいところ悪かったわね。
仕事に戻って頂戴」
「はい。お話を聞けて嬉しかったです」
「じゃあね」
手を振りながら店先から離れ、護衛の二人のところに戻る。
チラリと振り返るとミハエルは深々とヤスミーネに頭を下げてから店の中に走っていった。
彼はヤスミーネを初恋の相手で嫁にすると言っていた時期がある。
そんな戯言が夢物語だと気づいてから、彼は放蕩三昧の駄目男になってしまったのだが。
ヤスミーネは元老院議長の娘であり、今では父親がやっていたケンゼン商会の元会頭でもある。
とても中堅商会の会頭の息子程度では釣り合わない女性だったのだ。
少し甘酸っぱい思い出が蘇り、ヤスミーネは気分が良くなった。
「父上、只今戻りました」
父親である元老院議長の執務室に入り、ヤスミーネは執務机に付いている父親に抜かり無く淑女然と挨拶を行う。
「息災だったようで何よりだ。
予定よりも帰ってくるのが早かったようだが?」
「はい。
商談が早く片付きましたので」
「その様子では、上手くいったようだだな」
「ええ。
ある御方のお陰で」
ヤスミーネはオーファンラント王国貴族ケント・クサナギ辺境伯の事を父親に報告する。
彼の地位、その度量、技術など知り得た情報を父親と共有する。
ただ、彼の魔法の腕前だけは伏せておいた。
空間転移などという荒唐無稽な魔法を説明しても理解されないと思われるし、変な情報を与えて父の政治的判断に迷いを与えないためだ。
それでも、最初は微笑みながら聞いていた父親の眉間に皺が寄っていくのにヤスミーネは気づいた。
父親は大陸の東側にある国々をあまり好きではないのも理由だろうか。
自分が東側の大国であるオーファンラントの貴族について事細かに報告することが気に入らないのかもしれない。
「クサナギ辺境伯か……」
「父上は辺境伯様をご存知で?」
「東側と取引の多い商会のものどもから色々と彼の者の話は聞いていた。
だが最近、西側からも彼の者の情報が入ってくる事が多くなった」
「西側からも?
アゼルバード王国の国内情勢が不安定なのは知っていますが、それと辺境伯様と何の関係があるのです?」
苦々しい顔をしている父親が首を横に振る。
「詳しいことは解っておらん。
だが、あの国は辺境伯とやらの尽力で持ち直したというのがもっぱらの噂だ」
「まさか」
とても一人の貴族でどうにかできる状態ではなかったはずである。
それに、あの国に関わって得になるような事は何もない。
「だが、お前の話を聞いて合点がいったよ、ヤスミーネ」
「どういう事ですの?」
父が何を言っているのかヤスミーネには解らなかった。
「その空を飛ぶ魔導具だが、アゼルバードが関わっているならば理解できるという事だ」
「え?」
「辺境伯は滅びそうなアゼルバードに肩入れする事で恩を売った。
これについては間違いなかろう」
ヤスミーネは辺境伯様なら関わっていても可笑しくないと思って頷いて返した。
「その恩の代償としてアーネンエルベの古代遺跡の発掘したに違いない。
そこで魔導具の核となる技術を手に入れた……」
父親が何を言っているのかヤスミーネには解らない。
魔法道具はそう簡単に再生利用などできない。
完動品でなければ動かないのが普通なのだ。
発掘品を核として再利用などできようはずもない。
だが、「辺境伯様ならあるいは……」とも思えたりするのだから不思議だ。
「報告ご苦労だったなヤスミーネ」
「はい。お役に立てたなら幸いです」
「うむ。国政における次の一手の参考になったよ。
下がっていい」
「はい。では失礼します」
ヤスミーネは父親に頭を下げてから執務室を後にする。
扉を出ようとした時、父親が何かを囁くのが聞こえた。
「アゼルバードなら……兵力一万もあれば容易く征服できよう……」
え?
扉が閉じる寸前に聞こえた囁きにヤスミーネは耳を疑った。
アゼルバードを征服?
父は一体何をしようとしているのだろう?
戦争……?
彼女は自分の報告が平和だった自国を戦争の道に進ませる原因になったのではないかと不安になる。
だが、ヤスミーネは大商会の会頭ではあるものの、ただの民間商会の会頭でしかない。
父親のように政治家としての発言力は無く、もう一度父親に会って意見を言ったとしても「政に女が口を出すな」と言われる事だろう。
国益を考えれば、戦争をするというのも悪い手段ではないという事は、ヤスミーネは解らないでもない。
戦争に勝つ事で力のある国が新しい領土を得る事は、このティエルローゼ大陸では正義である。
南部、中央森林の向こう側にある軍事大国ウェスデルフが他国に戦争を仕掛けたという話も最近の読んだ情報にあった。
もっとも、この戦争は東の大国オーファンラントの介入によりウェスデルフの属国化という結末に終わったそうだ。
ヤスミーネはケンゼン商会本部への帰り道、近隣諸国のパワーバランス、交友関係などを頭の中で整理してみる。
アゼルバードの情報は殆どなく、あっても古い情報ばかりだ。
父親の囁きを考えると、我が国はアゼルバードに攻め込むことになる。
自分の記憶にあるアゼルバードの情報からは、あんな何もない国を攻めても出費ばかり膨らんで何の利益にもならないのだが、もし古代遺跡が発見されていたとするなら、確かに利益にならないとはいえないだろう。
しかし、アゼルバードはオーファンラントの支援によって持ち直したと父も言っていた。
アゼルバードに手を出すという事は、オーファンラントに喧嘩を売ることにならないだろうか?
ヤスミーネは心の中にクサナギ辺境伯を思い描く。
パッと見、何の派手さもなく、平凡な顔立ちの人物だった。
しかし、少し話しただけで、彼の御仁の慈愛に満ちた深い懐を感じざるを得なくなった。
それ以上に彼が相当なやり手なのも。
それは会談に参加した他のギルド員たちも同じだったはずだ。
損を被らされたジョイス商会のヨハンナが一言も言い返さなかっただけでも解る。
あの女が言い返せないということは、巨人の果実酒だけでなく、他にも相当あの女の弱みを掴んでいるに違いない。
アゼルバードに攻め込むという事は、あの人を敵に回す事になるのかしら……
ヤスミーネの不安は拭えない……
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