第29章 ── 第6話

「マリソリア」


 鼻血をハンカチで拭き取りながらお兄さんは立ち上がった。


「マリソリアは約束を覚えているかな?」

「約束じゃと? 我は約束なんかしたかや?」


 マリスは首を傾げ真剣に悩む。


「ここを出る時、僕と約束したね?」

「兄者よ。我は忙しいのじゃ。

 覚えておるならさっさと応えるがよい」


 俺は苦笑する。


 マリスなら約束を忘れる事もありそうだ。

 いつも横にいて約束を破る度に制裁のチョップでもしていれば、大事な約束は忘れなくなるかもしれないけど。

 些細な約束なら確実に忘れるような気がする。


「年に一度は顔を見せるために帰ってくると約束しただろう?」

「そうじゃったか?

 我は伝説の冒険者になるまで帰ってくるつもりは無かったのじゃが?」


 どうやらお兄さんは「年に一度は顔を見せる」という約束をしていたつもりらしいが、マリスは冒険に出る事にワクワクしてて約束については完全に上の空だったんじゃないか?


 それにしても「年に一度は戻ってこい」とは、一人暮らしを始める子供に対して一般的な親御さんが放つありきたりなセリフのようで和みますな。


 可愛い妹の旅立ちにお兄さんが掛けた言葉だと思えば、約束を忘れたマリスが悪いですな。


「マリス、約束は忘れちゃ駄目だな」


 俺はマリスの頭をポン軽く叩いて反省を促す。


「そ、それはそうなのじゃが……」


 眉をハの字にしながらマリスは俺を見上げる。


 その様子を見てマリスのお兄さんはムッとした顔をしてマリスの肩を引っ張って張って引き寄せる。


「僕の妹に気安く触れるな!」


 マリスは自分を引っ張る兄の腕を左手でつかむと左足を踏み込んだ。

 そのまま、くるりと身体を撚るように兄に背を向ける。

 それと同時にマリスが腰を落としたのを俺は見逃さなかった。


「ここじゃ!」


 マリスはそう言いながら落とした腰を跳ね上げる。


「てぃ!!」


 途端にお兄さんの身体が宙を舞う。

 そして地面にベターンと叩き落された。


「うぐっ!」


 背中からモロに落ちたお兄さんが息をつまらせて顔を苦痛に歪ませた。


 お見事と言いたいところだが……


 綺麗に一本背負いが決まったけど見ているこちらが痛い。

 だって、受け身とらないんだもん。

 まあ、何らかの格闘技でもかじっていれば受け身というものを知っていても不思議はないんだが、柔道もない異世界だしなぁ。


 というか、マリスは何で一本背負いなんて技を知ってんだ?


「一本背負い……誰に教わったんだ?」

「ん、今の技は一本背負いというのかや?」


 どうやら技の名前は知らなかったらしい。


「さっきの技はギルドの拳闘士フィスト・ストライカーに護身術とやらを習った時に覚えたものじゃ。

 とっさに使ってみたのじゃが、上手くいったようじゃ」


 なるほど護身術か。

 女の子ならいざという時に自分で身を守れるのはいいね。


 だが、咄嗟の時に出せるのは悪いことじゃないんだけど……

 今さっきのお兄さんの行動が咄嗟の時だとは思えない。


「しかし、マリス。

 護身術は、いざという時に使うものだし、使う相手は変質者とかだ。

 実の兄に使うのは問題があるんじゃないか?」

「いや、兄者はケントに失礼な事を言ったのじゃ。

 まさに咄嗟の時であったわ」


 ひと仕事終えましたという顔のマリスに後悔の色は微塵もない。


 俺は息をつまらせうずくまるお兄さんを凄い憐れなモノを見た感じがした。


「大丈夫ですか」


 俺はお兄さんに手を貸して立ち上がらせてやった。


「人間に憐れまれるとは……」


 誇り高い古代竜が、人間に気を使われているとしたら、かえって傷つくかもしれないか……


「そいつは申し訳ない。だけど妹さんにこれだけ邪険にされては、さすがの俺も可哀想に思えるよ」


 俺の言葉にお兄さんは「ふっ」と短い笑い声を上げる。


「僕との約束を忘れてたほどだ……

 マリソリアは……よほど楽しかったとみえる」


 ボソリと呟いたお兄さんの言葉は心に響く。


 確かにマリスはいつも楽しげだ。

 マリスが冒険者になるために実家を飛び出したというのは何となく気付いていた。

 最初はどこぞの金持ちのお嬢さんかと思っていたが、実はドラゴン……それも古代竜の娘だった時は驚いたものだ。


 マリスが俺たちと出会うまでには色々あったみたいだけど、詳しくは聞いていないので解らない。


 フォックやヴァリスという道連れがいた時もあったようだが、マリスは冒険者になる為に森を出てオーファンラントまでやってきた。

 大陸の東側のある程度の大きさの町や村には大抵の場合、冒険者ギルドが必ずある。

 そういったギルドでマリスは冒険者登録をしたに違いない。


 正式な冒険者になったマリスは相当得意げな様子だったに違いないな。

 だがそれ以降、マリスはパーティも組めずに一人で頑張ってきた。

 それがどれほどの長い月日だったのかはしらない。


 だが、俺と出会った時のマリスはゴブリンと死闘を繰り広げていた。

 放っておいたら死にそうだったから手を貸したけど……


「確かに楽しかったかもしれないな」


 俺は仲間になった頃のマリスの事を思い出して笑ってしまう。


 レベルがかなり低かったので、色々と一生懸命に頑張っていた感じだったな。


 俺の盾を標榜しはじめたのはいつ頃だったっけ?


「うむ。

 ケントは我を取り立ててくれた恩人でもある。

 兄者よ、ケントに失礼を働く度に我からの熾烈な罰を受けると知れ」


 お兄さんに対してマリスはかなりの上から目線だ。

 お兄さんはお兄さんでそれを受け入れている感じがするので、冒険に飛び出す前からそんな感じだったんかな?


「で、兄者。

 何故、住処から出てきておったのじゃ?

 外の者と取引でもあったのかや?」

「いや……」


 お兄さんは「ハァ」と一つ大きい溜め息を吐いて口を開いた。


「コボルトからマリソリアが西からやって来たという報告を聞いて急いで出てきたんだよ。

 そしたら世界樹を見上げる人族たちと一緒だったんで声を掛けたのさ」

「そうそう、小さき者どもはコボルトという種族であったな。

 我が外の世界を知るまで種族名すら知らなかった者たちじゃが、息災にしておるようじゃな」

「我らの世話をする事を条件に保護しているんだし、滅んだりしないよ」

「そうじゃったのか。

 我は住処のこともよう知らぬ……あの頃は子供じゃったからな」


 今も十分子供だと思います。

 まあ、レベルは一〇〇まで上がっているし……子供と言っていいかは疑問があるけども。


「父上や母上も息災かや?」

「マリソリアが旅に出る前と一緒だよ」

「ということは……まだ寝ておるのじゃな……」


 マリスは肩を竦めた。

 マリスの後ろからフォックが顔を出してお兄さんを見上げた。


「にいに、怪我してる?」

「ああ、フォックくん。大丈夫だよ」


 お兄さんはそう言うと腰に付けていた袋に手を突っ込んでゴソゴソやる。

 そして中から干し肉を取り出すとフォックに渡した。


「君がマリソリアを連れてきてくれたんだね。ありがとう」

「マリソリア? マリストリア?」

「ああ、冒険者の時はマリストリアだったっけ」

「おう。兄者は我がそう名乗っているのを知っておったか!」


 マリスがマリストリアと名乗り始めたのは冒険者になってからなのか。

 それを兄が知っているのはフォックが教えたからみたいだな。


「ああ。それで、憧れた冒険者にはなれたんだね?」

「もちろんじゃ! 伝説の冒険者も今では仲間じゃ!! トリシア!!」


 マリスはトコトコ走ってトリシアのところまで行き、必死に彼女を引っ張ってくる。


「見ろ、兄者! あの本の登場人物のトリ・エンティルその人じゃぞ!」

「ほう……」


 お兄さんはトリシアを下から上へと珍しそうに見る。


「お初にお目に掛かる。トリシア・アリ・エンティルだ」

「これはご丁寧に。

 僕はマリストリアの兄、ゲーリア・ニズヘルグ。

 よろしく」


 ゲーリアが手を出し、トリシアはその手を取った。


「珍しい。アダマンチウムの鎧とは……」


 握手しているトリシアの義手を持ち上げて、ゲーリアは目を輝かせた。


「このアダマンチウムはケントが持ってきてくれた特別な品だ。

 細工はハンマー氏族の長マストールの手によるものだ」

「ほう、ハンマー家の」


 マストールの家って古代竜も名を知る名家なの?

 こりゃ、もう少し待遇を考えないと不味いかもしれんね。

 下手すりゃ外交問題になりかねん。


「で、トリシアくんも……そして何より妹が『ケント』という名前を口にしている」


 そういってゲーリアは俺に視線を向けた。


 ようやくちゃんと自己紹介できそう。

 人に変化しているし話は通じそうだな。


 何はともあれマリスの肉親だし上手く話を進めて友好的な関係を築きたいところだな。

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