第26章 ── 幕間 ── 国王リカルド

 デーアヘルト王城の胸壁の上でリカルドは寒さに震えていた。

 彼は矢狭間クレノーから城下の様子を見下ろした。


「こんな日が来るとはな……」

「陛下」


 リカルドの呟きに被せるように宰相のフンボルト侯爵が心配そうに声を掛けてきた。


「何だ、ロゲール?」

「ここはお寒うございます。コートを羽織られては?」

「バカを言うな。

 これからアレがやってくるのだぞ?」


 二人の顔はいつもより緊張し強張っている。


「左様でございますね……

 まさかあの赤の古代竜と好を結ぶことになろうとは。

 辺境伯殿の手腕は相変わらず恐るべきものがありますな」


 リカルドも頷く。


 ケントはトリエンの領主に据えてから様々なことを起こしてきた。


 帝国での魔族討伐、帝国との和平、魔法文明の復活、大国ウェスデルフの属国化、ルクセイド領王国との同盟……


 優秀な人間なら一つや二つなら解決できるであろう事柄でさえ、尋常ならざる数だ。


 だが、ケントの業績はそれだけには留まらない。


 神々の降臨、秩序の古代竜の招致……


 ケントの腕輪小型通信機の呼び出し音が鳴るとフンボルトが胃が痛くなると顔をしかめるほどだ。


 だが、今回はオーファンラントにおいて特別な意味を持っていた。


「アルシュア山の古代竜グランドーラと交渉しました」


 リカルドがこの言葉を聞いたのはフンボルトと執務室で財務報告を受けていた時だった。


 リカルドとフンボルトは「は?」という声しか出なかった。


 古代竜グランドーラは七〇年ほど前、混迷極めるオーファンラントを恐怖のどん底に落としたと歴史書に書かれている最強、凶悪な存在だった。


 二人は最初ケントが何を言っているのか理解できなかった。


 神々や秩序の古代竜は、伝承、伝説、神話的な存在ではあるが、今まで生きてきた中でその存在を認識すらしていなかった。

 自分たちの人生に関わることは基本的にはないので、概念として理解するのは容易な事だった。

 もちろん、これらも恐怖や畏怖の対象ではある。

 だが、赤竜グランドーラは別だ。


 グランドーラがオーファンラントを襲ったのは七〇年以上前であり、当時生きていた者も数える程度にしか生きてはいない。

 だが、グランドーラが残した恐怖と破壊の爪痕は、当時をありありと感じさせるものなのだ。


 ドラゴンとは破壊の権化であり、気ままに都市や街を破壊するほどの災害なのだ。


 リカルドは幼い頃に父王に連れて行かれたホイスター砦跡地の事を思い出して身震いする。

 トリエンの街よりも大きかったであろう要塞は、バターをナイフで切り崩すが如く、抉られ、潰され、溶かされていた。


 ドラゴンの襲来は人間が抗うことのできない天災なのだ。

 過ぎ去るのを穴ぐらに隠れて震えて待つのが関の山。

 そんな存在と簡単に交渉などができるわけがない。


 これが通常の人間の考える事だ。


 だが、ケントはそんな常識を簡単に超える。


 ケントが秩序の古代竜を連れてきた時も肝を冷やしたが、彼らは人の姿をしており、恐怖の度合いは低かった。


 ただの人間を「秩序の古代竜」と偽っていたのでは? などという貴族もいたくらいだ。

 あの場では本物である可能性を否定できなかった者たちは黙っていただけだった。


 ケントたちが会議室から去った後の会議はそんな議題で紛糾した。

 リカルドとフンボルトはケントの正体を知っているから、虚偽ではないと確信していたが。


 だが、今度は違う。


「グランドーラを王城の城壁の上に飛来させます」


 本当に何を言っているのか解らなかった。

 そんな恐怖と絶望の事件を起こす意味が本当に理解できない。


 その後のケントの説明で一応納得し許可を出したが、まだリカルドは理解が追いついていない。

 いや、脳が理解する事を拒絶したというべきかもしれない。


 同じ提案を聞いていたフンボルトは「王国にとって大変有益」と理解していたようだが。


 竜の庇護というだけで、国防上の問題が一気に解決されるという。


 竜の庇護を受けているという名声は、ケントから報告を受けている西側諸国では国家の地位的正当性に非常に大きな影響があるらしい。


 東側諸国では聞いたこともない正当性だが、竜という存在自身が神話時代からのものである以上、絶大な威力があるのかもしれない。


 だからリカルドはケントの提案を認可した。


 オーファンラントはケントを取り込んだ段階で東側とか西側とか狭い範囲だけでなく、全世界を相手にしていく事になったのだ。


 ケントが西側の大国を色々と旅してきたという事は、そんな西側の大国との国交が開かれる可能性が非常に高い。

 西側で言われる正当性の一端をオーファンラントが持っていなければ、間違いなく下に見られるだろう。

 そのような状況を為政者として放置しておくことはできない。


 だが、竜の庇護を受けるというのは具体的にどうすれば可能なことなのか。

 そんな事は普通の人間に解るわけがない。


 頭の痛い問題だったが、ケントはその道筋を作ったと報告してきた。


 その道筋が「グランドーラ赤い破壊者」だとは!



 震えながらリカルドは南の空を見つめた。


 寒い……


 リカルドが抱えてきた分厚いコートをチラリと見たが、目を固く結ぶ。


 王族として最大のおしゃれをして出迎えるべきだ。

 それが王の格を示すことになる。


 あの赤竜に侮られるわけにはいかない。


 再び目を開くと、南の空に何か浮かんでいるのが見えた。

 黒い点にしか見えなかったが、一瞬だけ陽の光にキラリと赤く光ったのが見えた。


 リカルドの背中にゾクリとした何かが走った。


 来た。


 リカルドは今にも力が抜けそうな腰に力を入れる。


 南の方から「カンカンカンカン」と小さく警鐘が鳴るのが聞こえてきた。

 その音は瞬く間に様々な方向から鳴り始める。


 城下の者たちもドラゴンが飛んてきている事に気付いたのだな……


 王の護衛についているオルドリンも、その周囲にいる近衛兵たちも鎧からカタカタと音を立てて震えている。


 小さい点はどんどんと大きくなり、その威容が詳細に見て取れるようになってきた。


「あれが……赤竜グランドーラ……」


 近衛の誰かが囁いた。


 誰が口を開いたなど詮索する気はリカルドにも、フンボルトにも、オルドリンにもない。

 もう自分たちもその姿から目を離せなくなっているのだ。


 赤い竜が自らの頭上を飛び過ぎた時には下に向かう扉に飛び込みたい衝動に駆られた。

 だが、胸壁にいる全員がそれに耐えた。

 いや、耐えたというより恐怖に身体が凍りついていたというべきかもしれない。


 巨大な赤き竜は王城の上空を優雅にゆっくりと幾度か回る。

 まるで獲物を値踏みするかのようだった。


 既に城下の警鐘の音は全く聞こえなくなっている。

 城下の民たちも恐怖と絶望に震えているに違いない。


 不意に赤き竜が体勢を崩したように見えた。

 グラリと赤い巨体が揺れたと思うとグングンと高度が下がってくる。


「ヒッ」


 王を死を賭して守るはずの近衛ですら恐怖に短い悲鳴を漏らす。


 当然だ。

 国王のリカルドですら自分がいつ脱糞、失禁するか解らないのだ。


 赤き竜が城壁に墜落するかと思われた時、巨大な翼が広がる。

 バサバサと幾度も羽ばたき、赤い鱗に覆われた巨体が空中に静止した。


 竜の瞳が胸壁の上の者たちをジッと見つめる。


 リカルドは身体が小刻みに揺れるのを必死に抑えようと体中に力を入れた。

 そして大きく息を吸うと口を開いた。


「赤き竜よ! ようこそお出で下さった!」


 グランドーラはその言葉に小さく頷いたように見えた。


 するとグランドーラは少し横滑りして隣の胸壁にフワリと着地した。

 巨体が着地したにしては静かで、胸壁に損傷はなく、地響きも立たなかった。


『人間の王よ。歓迎を感謝する』


 空間を揺らすようなドラゴンの声にリカルドは少し漏らした。

 慌てて下半身に力を入れて完全崩壊を防いだが、ドラゴンの声など恐怖でしかない。


 双方の胸壁を結ぶ城壁の上にユラリと何かが出現した。


 ドラゴンから目を反らすのは自殺行為だが、王はその何かに目を向けた。

 鏡面、いや水面のようなその物体は、何度か見たことがる。


 あれはケントが使う魔法の魔法門マジック・ゲートだ。


 そこから特徴のない黒髪の男が顔を出した。


「お、グランドーラ。もう到着してたか」


 緊迫した雰囲気に間の抜けた声が響き、胸壁の上にいた者たちからドッと力が抜ける。


『ケントさま。少し遅いです』

「悪い悪い。ちょっと支度に時間が掛かってね」


 水面のような転移門ゲートからケントが出てくる。

 いつもなら緑色の草臥れたブレスト・プレートなのだが、今日は豪華な貴族服だった。


「リヒャルトさんが大事な行事だからってオシャレしろって煩くてさ」


 ポリポリと頭を掻くケントを見て、近衛たちの緊張が切れた。


「わははは!」

「うははは!」


 感謝するぞケント……


 国王はようやく周囲の緊張が解れたのが解り、心の中でケントに感謝した。

 気付けば自分の身体の力も抜けている。


「やれやれ。辺境伯殿はもう少し貴族としての振る舞いを覚えるべきですな」


 フンボルトが渋い顔をしている。


「いや、辺境伯はあれでよい。

 貴族らしからぬ男だが、形式や格式に囚われては、面白味がなくなるぞ」

「それもそうですな。

 あの雰囲気には救われました。

 私は赤き竜が胸壁に下りた時漏らすところでした」

「其方もか。実は余もだ……」


 リカルドとフンボルトは笑い転げる近衛たちに気付かれぬようにクスクスと笑った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る