第2話

田んぼと畑を過ぎて、両脇を緑で囲まれたアスファルトを行くと、山に入れる場所があった。

きっといつもの遊び場なのだろう、入り口と思しき所の草は倒れて踏み固められ、獣道のように、緑の道が伸びている。

子供たちは身軽な感じで、笑い、喋りながらぐんぐんと山道へ分け入って、先へ行く。


普通に歩いているのだろうが、常日頃の身体の使い方が、絶対に、違うと思う。

僕は一生懸命歩くものの、息が上がるし、ちょいちょい小走りにならないと、着いていけない。運動不足が、恨めしい…。

毎年、ひとりで山に来る時は、木陰で本を読むのが目的だから、こんなに奥深くまできたことなんてない。

山を普通に歩くのがこんなにハードだなんて、知らなかった。


時々、輪の中心にいるケン君がちらっと振り返っては少し速度を落としてくれるが、すぐに面倒くさそうに鼻で息を吐いて行ってしまう。

ケン君が僕を振り向くたびに、少し迷惑そうに、他の子どもたちの視線が飛んでくる。

もう、置いて行ってくれないか。

言いたいけれど、言えるわけもない。


案の定、というか、何日目かに、山で置いて行かれた。

速度について行けず、僕が立ち止まって、水筒の水を飲んでいたら、少しぽっちゃり目のユタカ君が僕を睨んだ。


「おい、オマエ、遅いんだからさ、止まるなら何とか言えば」


僕はむっとして、ユタカ君を睨み返す。


「いつ休もうと、勝手だろ」

「なんだよ、その言い方」


詰め寄ろうとしたユタカ君を、小柄なゲン君が掴んで止める。


「ほっとけよ、そんな奴。さっさと行こうぜ」

「でも…」

「いいから、行こう」


僕には目もくれずにユタカ君の肩を組んで、わざと小走りに二人は先へ進んだ。他のみんなは気づいていないのか、とうに先に行ってしまった。

僕はぎゅっと奥歯を噛む。

やってしまった。

分かっている。ユタカ君が言うように、ちょっと待ってと一声かければよかったのだ。


いや、でも。

どうして、こんな田舎まで来て、たいして知りもしない奴らに、へらへらと媚びなくちゃならないんだ。

僕は別に、一人でいいんだ。

ばあちゃんと、山上君ちのばあちゃんが、僕が一人じゃ危ないからと思っているだけで。

僕は別に平気だ。喘息だって、幼かった頃ほど重くない。

もうここの山だって、何日か通っているから帰り道も分かっている。

ひとりでいい。一人の方が、楽ちんだ。


何ともない、という顔で、立ち止まってわざとゆっくり水を飲む。

ゲン君が一度こちらを振り返るのが見えたが、僕は背を向けて、別の方へ歩き出す。

すぐにゲン君の草を踏む足音が遠のいて、みんなの笑い声は、聞こえなくなった。


いつもとは違う道、でも、すぐそばにいつもの通り道は見えている。

僕は横目で場所を確認しながら、草の倒れていない地面を歩く。


「おっと」


踏み出した足の先に花が咲いていて、思わずよろけてしまう。

これは確か、ばあちゃんが好きな花。

時々一緒に散歩に出ると、嬉しそうな顔でこの花を見て、くしゃっと皺だらけで笑う。

名前は知らない。今度、ばあちゃんに聞いてみよう。

でも、踏まないように気を付けていても、花が多すぎる。それに、草なら踏んでもいいのか。どれならよいのか。

慎重に足元を見て、なるべく土がむき出しの場所を選んで足を下す。


すぐ横でした、かさりという音と気配にはっとしてそちらを見れば、木の幹に大きな虫がくっついている。

ぞわっと腕の産毛が逆立つが、よくよく見れば、面白い形をしていて、綺麗だ。


なんだ、何もないと思っていた山だけど、よく見れば、面白いものがたくさんある。

足下の草も、いろんな種類がある。

小さな虫も、大きな虫も、見たことのないものばかり。

それに、進めば進むほど、地面は草ではなくて、葉っぱが積もった柔らかい土になる。

なんだ、ここ、面白い。


ぽかんと口を開けて、頭上の枝を見やれば、空はほとんど見えず、様々な形や色の葉っぱが風に揺さぶられて、ざわざわと震えている。


「あ…いってえ」


馬鹿みたいに上を向いて歩いていたせいで、がくんと足が何かに突っかかって、僕は無様に顔から地面に突っ込んだ。

咄嗟に伸ばした腕が、ごつごつとした木の根に当たり、掌と肘がずるりと擦れる。


「痛てえ」


掌と肘から、血が出ていた。

右の頬もひりひりするし、服も土と落ち葉と緑の葉で汚れてしまった。

手の甲で頬を擦ると、泥と少しの血が付く。


「なんだよ…」


つい、さっきまで楽しかった気持ちはあっという間にしぼんで、僕は奥歯をぎりりと噛み締める。鼻の奥が、つんとする。


「どこだよ、ここ…」


見渡せば、いつの間にか、すぐそばにあったはずの通り道が、ない。

よそ見ばかりして、歩いたせいだ。

ざわっと血の気が引いていく。


「どこだよ」


じんじんと、掌と肘が痛い。

立ち止まって、ぐるぐると辺りを見るが、どこから来たのかなんて、もう分からない。

あの木を見たような気もするし、あっちの花の横を通り過ぎてきた気もする。

ほっぺたが、ひりひりとする。

駄目だ、目の奥が熱くて。


僕はぐいと、目を擦る。

ちょっとだけ、睫毛が湿る。

泣いたら、駄目だ。

でも、どうやって帰ればいいのか分からない。

確か、山で遭難したら、頂上に登ればいいって。でも、頂上までどれくらいなんだろう。

食べ物も持ってない。ばあちゃんが持たせてくれた水筒も、さっき時間稼ぎのためにぐいぐい飲んじゃったから、もう、ほとんど残っていない。


「どうしよう」


何年も来ている割に、僕は山の中を探索したことなんて、なかったから。

ここがどこかも、入り口までどのくらいで戻れるのかも、夜になったら何かが出てくるような土地なのかも、何も、何も知らない。


「どうしよう」


まだ高い日差しの所為で、手や頬についた土がぱりぱりに渇いていく。

かさかさに灰色になった皮膚に、赤黒く、血がにじむ。

雑菌が入ったら、病気になる。確か、本で、そう読んだ。

洗わなくちゃ、でも、もう、水筒の水がない。

どうしよう。

目の前が、涙の膜で滲んでいく。


ふいに、ぴたりと、風が止んだ。

涙が、ぼろりと、零れる。


「う」


歯を食いしばるが、次々に、涙が溢れる。

ぴたり。

虫の声が、途絶える。

さっきまで、空気の中に満ち溢れていた何かが、途端に消えうせる。

怖い。こわい。

明るいのに、こわい。


「どうしたの」


しんとした空気を割いて、声がした。

びくっと肩が震える。

忙しなく、自分の目玉がぐるぐると動いて声の主を探す。

斜め後ろの草の群生した辺りに、少年が一人、立っていた。

僕より頭一つ分高い背丈、良く日に焼けた腕は筋肉質で、多分、僕よりもほんの少し年上だろう。自分の細い腕が少し恥ずかしくて、無意識に手を擦る。


「迷子?」


再び掛けられた声は声変わりしたばかりなのか掠れて低く、それが僕をひどく落ち着かせた。

助かった。これで、帰れる。

安堵と同時に、途端に湧き上がる恥ずかしさ。

僕は慌ててばれないように涙を拭う。

頬の傷がずきりと痛む。


「道に、迷ったの?」

「ち、違う」

「ふうん、なんか、泣いてたみたいだからさ。それより、な、それ」


さして僕の泣き顔に関心もなさそうに話題がそれたことに安心して、気が緩む。こんな時でも、僕はそんなことを気にするのかと、少しばかりおかしくもある。

少年は、小首を傾げて、僕の顔に指を向けたまま応えを待っている。

最初は頬の傷かと思った。

ふるふると少年が首を振るので、ようやく眼鏡のことだと思いいたって、これ?と外す。


「貸して」

「ん」


僕のメガネ君のゆえんたる黒縁眼鏡を受け取って、少年は眼鏡をかける。

レンズが、土で汚れている。もしかしたら、どうしてメガネが汚れたのかを聞いていたのかもしれないと悟って、赤面するが、少年は眉をしかめて辺りを見回していた。


「なんだこれ、くらくらする…」

「ああ、僕、すっごい目、悪いから」

「うえ、気持ち悪い…」


思わず吹き出すと、少年は憮然と眼鏡を外して、汚れたレンズを服の裾で拭いた。

それ、母さんに怒られるやつだ。

眼鏡を返してよこす少年の顔に、どことなく見覚えがある気がして、僕は首を傾げた。


「ね、名前、聞いてもいい?」

「…ヤマガミ」

「あ!隣の」


思わず僕は指をさす。

そうだ、この声、ばあちゃんに挨拶するときの低くてぼそぼそと喋る。

確かに、ちらりと見かけた隣の孫だ。


「山上君!」


この状況で知っている顔に出会った偶然に舞い上がって、つい、気安く呼んでしまった。

年上なら、山上さん、だろ。と突っ込む間もなく、山上君は難しい顔をする。

怒られるかと思いきや、山上君は意外なことを口にした。


「友達同士はあだ名で呼ぶんじゃないのか」


僕をリラックスさせるために、冗談を言っているのだろうか。

それに乗っていいのか散々迷って、僕は中途半端なあだ名で呼ぶ。


「じゃあ、やまちゃんだ。僕は隣の家の孫の、猛」

「そうか、なあ、タケル」

「おい、あだ名じゃないのかよ」


つい突っ込みを入れてしまった僕に目を丸くして、それからやまちゃんは、少し笑った。


やまちゃんは僕の頬や手のけがを見て、近くの沢まで連れて行った。

湧き水で傷口を綺麗に洗ってくれる。

冷たい水が傷口に染みたが、僕はぎゅっと我慢をした。

それから、いつもの入り口まで、迷うことなく、僕を連れて行ってくれる。

よほど通い慣れているのか、少し首を伸ばして遠くを見ると、僕を気遣いながら不安のかけらも見せずに先を進んだ。

やまちゃん、すげえ。

僕は、いっぺんに、やまちゃんを尊敬した。

その頭に葉っぱが一枚引っかかっているのに気づいて、同時になんだか愛着も湧く。


「じゃあ、ここで」

「え、やまちゃんは帰らないの?」

「早く戻って傷の手当てをした方がいいよ。雑菌が入るとよくないから」


にこっと笑って、やまちゃんが手を振る。

確かにまだ、日は傾き始めたばかりだ。

僕は後ろ髪を引かれながらやまちゃんに見送られて、家に戻った。

ばあちゃんに、ひどく心配されて、おおげさな絆創膏をされたのは、言うまでもない。

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