山の中は溢れるほどの緑

中村ハル

第1話

夏の思い出といえば、山だ。

噎せ返るほどの緑が溢れる、山。

けれど僕には、山だな、緑だな、虫だよ…という以外、特に感慨もなかった。

誰もいなくて楽ちんだから山に行く、それだけの場所だった。


子供の頃は夏になると、祖母の家に連れていかれた。

遠くには緑萌ゆる山、手前には田んぼと畑。のどかでゆったりとした、母の生まれ育った場所。

幼い頃から僕は喘息がひどくて、空気の綺麗な田舎の方が健康には断然いい、と母が思っていたから。

確かに、鬱陶しいクラスの奴らがいない。そういう意味ではストレスもなく、その分、喘息を起こすきっかけは、ほんの数パーセントは少なかったのかもしれない。でも、それだけだ。


山に行ったら行ったで、都会育ちの僕にとっては、できないこと、しなくてはいけないこと、変えなければならないことが満載で、余程そちらの方がストレスが多い気がした。

人は身に染まった習慣が善しにつけ悪しきにつけ、変化というものに大変な苦痛を感じる生き物らしい。


子供のくせにこういう屁理屈ばかり言うから、僕は、そう、倦厭される。

あまり激しい運動が出来ず、生来の色白で、加えて眼鏡だったので、ついたあだ名が「メガネ君」。

本ばかり読んでいたのは好きだからではなく、その方が面倒なクラスの奴らとつまらない話をしなくて済むから。おかげで余計な知識に拍車がついて、口達者が加速した。


喧嘩になるから、喋らない方がいい。

そう思って、黙って本に顔を突っ込んでいるのに。

「すかしてる」とか「女子にもてたいだけ」とか、小学生男子、マジでくだらない。

ばかばかしくて、言い返す気にもならない。面倒くさくて、鼻からため息が出る。

それがさらに、奴らを煽る。

いじめまでいかない揶揄い。やたらに絡んでくるのは、クラスでも人気の長谷川君とその仲間たち。

こちらが睨めば「おい、メガネ君を怒らせちゃったんじゃない、いこーぜ」とか言って、何にもできないくせに。


父と母は仕事で忙しく、僕を祖母の家に放り込むと、あっという間に東京に戻る。

親戚の中には「寂しくて喘息を起こすんだ」とか馬鹿なことをいう叔父や叔母もいるが、そんなもので喘息が出たり引っ込んだりするものか。親というものは、いたらいたで、いなきゃいないで、子供にとってはストレスだから、どちらだって構いはしない。


それに僕は、ばあちゃん子だ。

ばあちゃんは優しい人で、おっとりとして、時々怖くて、そして少し、おせっかいだ。

療養で来ているはずの僕を、子供は外で遊べ、とにこにこしながら炎天下へ押し出す。

もちろん、梅干し入りの水筒と帽子をかぶせて。

僕はばあちゃんが好きなので、心配を掛けまいとして、外へ行く。


「猛、ヤマガミさんちの子も、誘っていきなさい」


隣の家の山上さんちの孫も、夏にはこちらへきているみたいだ。

確か一つ年上の中学一年生で、毎年ちらりと見かけるだけで、話したことはない。背が大きくて、目つきが少し鋭くて、こわいのだ。

いつも、玄関先でばあちゃんに持ってきたお裾分けを渡すときの、ちょっとだけ低くて大人っぽいぼそぼそとした声を遠くで聞くだけ。


山上君は留守だった。

その代わり、一人でぶらつこうとした僕の襟首を、山上君ちのばあちゃんが捕まえて、通りすがった近所の子供たちに引き渡した。


「ほら、アンタたち、この子、この辺りには不慣れだから、一緒に遊んであげなさい」


山上君ちのばあちゃんは、うちのばあちゃんを10倍元気にしたくらいの溌溂とした人で、おせっかいとごり押し度は、計り知れない。

山上君ちのばあちゃんを知っているらしい子供たちは、少しひるんだ顔をして、困った顔で僕を受け取った。そりゃ、困るだろ。

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