3.スカした男

 マロウは、ついに男を追うことができなかった。

 気付けば暗いストリートは無限のように伸びて、遠くビル群の威容が悪魔の牙のごとく見えるばかりとなっていた。


「……次はー、ろこにするぅー?」


 どこからか酔漢の声。

 マロウは怖くなって、行くあてもなく歩きはじめた。


 もう善良な大人を探す気にはなれなかった。手を差し伸べてくれる者など誰もいないと解ったからだ。あの偉丈夫も、善意から助けてくれたのではなかった。


 だから行くあてがあるとすれば、


「〝コッキング〟……」


 それだけだ。


『入口から二番目に遠い円卓。その壁際の席を訪ねろ』


 そもそも〝コッキング〟とは何だろうか。

 円卓とか席とか言うからには、店かなにかなのだろうか。

 それはどこにあるのだろう。


 男は詳細については教えてくれなかった。

 だからマロウは、やはりあてどもなく歩くしかない。


 重い身体をひきずり、孤児院ろうごくに置いてきた仲間たちのことを考える。みんな、どうしているだろう。今ごろ、ヒドい仕打ちに遭っていないだろうか。


 早く何とかしなければ。

 今度こそ義兄弟きょうだいたちが、どうにかなってしまう前に。


 焦燥に急かされながら、やがてマロウは公園へと辿り着く。入口に石組みの通路を設けた広い公園だった。一見、瀟洒な雰囲気だが、入口の反対側は公園というよりほとんど森のようだ。枝葉が風にゆれ、影がうごめく。不気味なところだった。


 しかしマロウはあえて森へと踏み入った。人気も明かりもない中。クンクン、と声が聞こえる。見れば小さな野良犬がいた。尻尾を下ろし折れた枝をもてあそぶ姿は、ひどく寂しげで。なんだか自分とよく似ていた。


「お前も迷子か?」


 マロウは臆せず、その頭を撫でた。野良犬は警戒も怒りもなく、ただそれを受けいれ、悄然と欠伸をした。マロウもつられて欠伸をする。木に寄りかかり、風を拒むように自身を抱いた。それでも冬の夜気は凍えるように冷たかった。


 野良犬も同じ思いでいたのだろうか。

 少年に身を寄せ、温もりを分かち合った。


 マロウは義兄弟の温もりを思い出し、これからの不安と戦いながら、眠ろうと思う間もなく微睡にさらわれていった。


                 ◆◆◆◆◆


「ん……あれ?」


 朝日に瞼をたたかれ、目をあけると野良犬はいなくなっていた。何もかもが夢であったかのようだ。孤児院から逃げだしたこと。警官に追われたこと。偉丈夫に助けられたこと。そもそも孤児院で育ってきたことも。すべて。


 自分はこれから新しい人生を歩むのかもしれない。

 寝ぼけた頭は、そんなことを考えた。


 けれど見下ろした自分の衣服は泥だらけで。

 辺りは公園の、森めいた木々の中だった。


「行かなくちゃ……」


 マロウは疲れの残る冷えた身体に鞭打った。

 どこへ行けばいいのかは判らない。けれど諦めるわけにもいかなかった。苦しんでいる義兄弟たちのために。藁にでも縋らなければならなかった。


 そしてその藁があるとするなら、やはり考えられるのは、灰の偉丈夫の言った〝コッキング〟だけだった。


 公園をでてストリートを歩きだすと、景色は一変していた。死んだようだった街に人があふれ、老若男女が行き交っている。蛇の刺青をきざんだ者はおらず、スーツが目立った。昨夜と同じ世界とは思えなかった。


 だからマロウは、手当たり次第に〝コッキング〟について訊ねることができた。多くは侮蔑の眼差しが返ってくるか無視されたが、声をかけるだけで危険を感じることはなかった。親切にうけ答えしてくれる人もいた。ただし〝コッキング〟について返ってくるのは、銃の知識ばかりだった。


 あごが軋むほど訊ねても、有力な情報は得られない。腹の虫が鳴って、心も萎えてくる。途方に暮れたマロウは、一度公園に戻って、空いたベンチに腰かけた。


「どうすりゃいいんだ……」


 腹をさすって、穏やかな景色を見渡す。

 昨夜の野良とは異なるミニチュアシュナウザーが、円盤を追いかけ猛スピードでダッシュしている。遠く対面にもうけられたベンチでは恋人同士が、互いの髪に指をつっこんで微笑み合う。原っぱの上で本を読んでいる老人もいる。


 隣のベンチには雑誌をアイマスク代わりにして男が寝ている。その周りは空き缶が転がって、草むらを濡らしていた。


 見るからに関わるべきでない相手だ。

 しかしマロウは、たちまちこの人物に惹きつけられていた。人としての魅力など一切感じなかったし、軽蔑めいたものすら覚えたが、この男からは匂いがするのだ。


 汗と酒と――影のにおい。

 昨夜の偉丈夫と近しい匂いだった。


「なぁ、おっさん」


 マロウは意を決し、男へ声をかけた。

 すると「んあ?」と間抜けな声がかえり、雑誌が放り投げられる。

 中年の充血した眼差しが辺りをさまよい「こっち」と呼びかけると、ようやく視線が交わった。


「なんだ……? 迷子か?」

「そんなようなもんだよ」


 答えると中年の男は、半身を起こしこめかみを押さえて、大仰な呻き声をあげた。


「かぁーっ……! 頭いてぇや。こんな時に起こされるなんざ運がねぇ」

「ゴメン」

「いいよ、ガキが謝んな。それより迷子なんだろ、親とはぐれたか?」


 意外にも人の好さそうな受け答えに、マロウは胸を撫でおろす。


「いや、そうじゃなくて。店、かな。探してるんだ」

「はあ。店ってどんな?」

「〝コッキング〟っていうんだけど」


 とたんに中年男は、さも愉快げな笑みを浮かべた。


「へぇ、とんだ悪ガキだな。どこで聞いたか知らんが通だね」

「え、どういうこと?」

「今更とぼけんな。イイ酒探してんだろ? たしかにあそこはウマいぜ」


 男はよだれを啜ると、しかしすぐに指を突きつけて厳しい顔をつくった。


「でも気をつけろ。金がないからってシブるなよ。スタウトだけはゲロマズだから」

「はあ。〝コッキング〟って酒屋なの?」

「あ? 酒場だよ。なんだ、ホントに知らねぇのか。なんでまた?」

「いや、べつに。友達がイイって言ってたから」


 マロウは偉丈夫の風体を思い出し、咄嗟に嘘をついた。


「そうか。イイ友達もったな」

「ところで、それはどこにあるの?」


 訊ねると男は、嫌な顔ひとつせず細かな位置、番地までを説明してくれた。くしゃくしゃに曲がったメモ帳に簡単な地図もかいて寄越してくれた。人は見かけによらないものだ。


「最近の若モンは舌が肥えてんなぁ。俺にも金ができたら、いつかあそこで再会するかも」


「あー……そうだね」


「そのときは一緒に飲もうぜ」


「うん、もちろん」


 適当に返しておいたが、マロウは酒を飲んだこともなければ興味もなかった。きっと再会することはないだろうと思いながら「アリガトウ」と、静かにベンチを去る。


 これで目的地は定まった。


 〝コッキング〟に何が待っているかは知らない。

 ただあの偉丈夫は『覚悟』がどうとか言っていた。『死神の使いが――』とも。

 なにか得体の知れない不安が、腹の底から這いあがってくる。

 マロウはそれを必死で飲み下し、〝コッキング〟へと歩きだした。


                ◆◆◆◆◆


 中年男のおかげで、〝コッキング〟へは無事たどり着くことができた。


 それは光を避けるようにしてあった。

 とある路地裏へ踏みいると、必要性を感じないネオン看板から火花がとびちっている。タイミングを見計らって火花を避けると、コンクリートの壁がどんと客を出迎える。その傍ら、穴のようにストンと落ちこんだ階段の下に、紫の陰鬱なネオンサイン――〝コッキング〟の文字が浮かび上がっていた。


 しかし今更になってマロウは、自分が初歩的な過ちを冒したのではないかと思い至る。


 まだ昼間なのだ。

 日は中天にさしかかったばかり。腹の具合から言えば、途方もない時間が流れたように錯覚されるが、酒場がひらくには明るすぎる時間ではないだろうか。


 それでもここまで来たからには、回れ右というわけにもいかない。ネオンサインは灯っているのだし、もしかしたらという望みもある。


 謎めいた緊張を抱えながら、マロウは肩を押しこむようにして扉へ体重をかけた。


「あれ?」


 すると、扉は呆気なくひらいた。タリンタリンとベルの音がする。


 橙の帳のような明かりが、ぽつんぽつんと左手の円卓の並びに落ちている。右の短いバーカウンターには天井の切れこみから細い明かりが垂れて、中央に置かれたランプと静謐を競い合っているようだ。


「いらっしゃいませ」


 黒檀のような髪をオールバックに撫でつけたバーテンが、猫目を細めて微笑んだ。


 マロウは明らかに子どもだ。身長は年相応で、顔つきなどはむしろ童顔と言ってもいい幼さを残している。しかしバーテンからは、咎めるような言葉も眼差しも飛んでこなかった。


 その場に立ち尽くしていると、バーテンはあくまで穏やかに「お好きな席へどうぞ」と促した。真昼間であるせいか、店内に客の姿はない。どの席に腰を下ろすも自由だ。


 だがあの偉丈夫は言っていなかったか。


『入口から二番目に遠い円卓。その壁際の席を訪ねろ』


 と。


 マロウは大人びた店の雰囲気にのまれながら、かすむ頭の情報を頼りに腰を下ろした。壁との距離がせまく、正面を見るとバーテンと目が合うので、なんとなく居心地のわるい席だった。おまけに他のテーブルと何か違いがあるようにも見えない。


 ホントに、ここでいいのか……?


 マロウは居住まいを正し、けれどバーテンとは決して目を合わせずテーブルを睨んだ。あの偉丈夫の言っていたことは、まったくの出鱈目かもしれない。子どもをからかう意地悪な奴だったのか、鬱陶しいのを黙らせるために適当なホラを吹いたのか。


 いずれにしてもマロウは、自分がここにいる意味を見失いかけていた。


 だが、この店が妙なのもたしかだ。

 まず立地がおかしいし、バーテンも何も話しかけてこない。酒を頼まなければ邪魔にしかならないはずなのに、注文を促そうとする気配もない。ただグラスを磨く音だけがBGMの旋律の合間にキュッキュとスタッカートを刻む。


 やがてBGMが一曲、二曲、三曲と終わりを迎えても、マロウはずるずると店内に居座っていた。


 そして四曲目のジャズ。

 山間を抜ける風のような旋律とともにマッコイ・タイナーの『Fly With the Wind』が始まったのとほぼ同時だった。


 タリンタリン。


 不意に店のかたい扉がひらき、ダークグリーンのスーツにシルバーフレーム眼鏡の若い男がすがたを現した。


 いかにもスカした男は、薄汚い少年には目も暮れずバーテンへ微笑むと「コルコバード」と謎めいた一言を発した。マロウには耳なじみのないものだったが、バーテンがしなやかに動きだしたのを見るに、どうやら酒の注文らしかった。


 それから眼鏡男は、ようやくこちらへ気付いたようだ。おどけるように片眉をあげると、慣れた微笑で肩をすくめ、ツカツカ歩みよってくる。マロウは警戒の眼差しで迎えた。


「ハロー、見ない顔だね」

「あんたは……?」

「ただの客だよ。ここ行きつけでね。相席いいかな?」


 答えるより先に、眼鏡男は腰も鞄もおろしている。横向きにすわり、腰をひねってこちらへ向きなおる仕種が、いやに鼻についた。


「他の席でもいいんじゃないの?」


「おっと迷惑だったかな? ボクは人と話すのが好きでね。いつも相手に近づき過ぎてしまう」


「じゃあ、気を付けたほうがいいよ」


 マロウはぶっきらぼうに言った。


「まったくだ、気を付けないと! でも付き合ってくれないかな。独りで飲む酒なんて美味しくないんだ」


「お好きにどうぞ」


 これまたぶっきらぼうに答える。

 しかし眼鏡男は少しも気を害した様子がなく、むしろニコニコと笑んで優雅に脚を組んだ。


「ありがとう。歓迎してもらえたようで嬉しいよ」


 どこがだ、と心中で吐き捨てそっぽを向く。


 すると眼鏡男は、一人でくだらない話を始めた。

 どこそこの店の料理が美味い、心を落ち着けるには読書が最適、女の子は花と思って接しなければならない――。


 とにかく時間の無駄としか思えない話題が続いた。


 やがて、あのオールバックのバーテンが淡いブルーに色づいたカクテルを運んできた。ようやく言葉の奔流がせき止められ、マロウは疲れた息を吐く。


 すると眼鏡男はニコリと微笑んで、意外にも乱暴にカクテルを飲みほした。

 タイを緩めると、白い首筋があらわになる。マロウはなんとなくドキリとして、視線を落とす。そこへ男がこう切り出した。


「ところでマイフレンド、まじないは信じるかい?」

「まじない? そんなもん信じないよ」


 マロウは孤児院での日々を思い出す。大人たちに殴られる毎日だけがあった。

 まじないも神もあるものか。


「そうか。でも、とりあえず試してみようよ」


 どういうわけか破顔した男は、ポケットから薔薇の刻印がなされたジッポライターをとり出した。鞄から現れたのは、その華やかさにミスマッチな陶器の灰皿。


 男は頭上にたれ下がった照明の傘に手をつっこむ。カチと音がして照明が消える。とたんに二人の許に影が落ちる。


「出逢いというのは不思議なものだね」

「……っ」


 男が囁くと、うす暗い中にも見てとれるほどの、ぞっとする色気が立ちこめた。マロウには返す言葉がない。

 その沈黙を宥めるように、男が灰皿の下から折りたたまれた紙切れを滑らせて寄越した。うっとりするほど優雅な仕種だった。


 マロウは怪訝に男を見た。男は静かにうなずくと、ジッポから炎の舌を引きずりだす。双眸が赤く濡れ、あやしく光る。


 マロウはそれを、紙を開いてみろと解釈する。


 そして紙片をひらいたマロウは、衝撃に目を剥いた。

 昨夜の偉丈夫の言葉が思い出された。


『お前に覚悟があれば、きっと死神の使いが来てくれるぜ』


 改めてマロウは紙片に書かれた文言を見た。

 神経質そうな字体が、こう並んでいた。


『いらっしゃいませ、マロウ様。死神の酒場〝コッキング〟へようこそ』


 と。


 男はなお優雅に、そして妖艶に笑んで、マロウの手から紙片を摘まみとった。


「これが灰に変わるまでに、ひとつ願い事をするんだ。すると、それが叶うんだよ」


 男の科白はまったくもって信用ならなかった。そんな都合の良いことがまかり通るなら、今ごろ義兄弟たちは幸せに笑っているはずだった。


 それでもマロウは、この妖しい場所に、男に賭けてみたかった。


 炎の舌が紙片をなめ、灰から逃げるように上っていく。

 マロウは目を見開き、それを瞬きひとつせず眺めながら、胸の奥にあつい願いを灯した。


 大人なんて、みんなくたばりやがれ……!


 炎はそれに応えるように、一際つよく燃えあがった。短い命を灰がむしばみ、パラパラとこぼれ落ちた。灰皿の底に願いの残滓が散らばる。まじないの結果は不明だ。


 しかし眼鏡男は、その結果を知っているものと見えて。

 妖艶にわらうと立ちあがった。

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