2.覚悟があれば

 街灯の落とす明かりは、夜に染みわたる闇をいっそう濃くする。

 闇の中から手を差し伸べてくれる者はなく、そこには薄汚い悪意ばかりが潜む。光の許をあるく者たちは、次の隠れ場をさがす悪意そのものか、あるいは悪意から逃れるべく歩を速めた無関心の抜け殻だ。


 マロウは疲れ果て、一度は路地裏に逃れて足を止めたが、神は立ち止まることを許してはくれなかった。追手の姿はとうになく、孤児院から逃れることには成功した。ところが影には下卑た笑いがあふれ、弱者をいたぶろうとする蛇の刺青をきざんだ腕が伸びるのだ。


 焼け落ちそうになる肺をいさめ、マロウは街灯の雨に降られながら馳せた。

 速足の女に助けを乞い突きとばされ、腰の曲がった老爺に「汚らわしい!」と唾を吐きかけられても、マロウは足を止めなかった。孤児院の外には、自由と親切に満ちた世界が広がっていると信じていたから。


 そしてマロウは、ようやくかすむ視界に闇を薙ぐ回転灯のあかりを見出したのだった。


 鉛を詰めこんだような脹脛を叩き、パリッと制服を着こなした二人の警官の許へ歩みよった。警官はやたらと露出の多い若い女へきびしい顔つきで何か言っている。心臓の音がやかましく、何を言っているかは判らない。マロウはしばし、その場に立ち尽くした。


 やがて警官が苦笑をのこし、その場を去ろうとしたときだ。マロウは動きだした。倦んだ身体を叱咤し「お巡りさん!」と叫んだのだ。

 訝った四つの眼がすぐに少年へ焦点を合わせ、怒ったように眉をつり上げた。


「おいボウズ、いま何時だと思ってるんだ?」

 

 その表情のとおり、ふくよかな警官から怒りの声がとんだ。

 マロウは十三になったばかりだ。彼らの目には、悪ガキが夜の街を徘徊しているようにしか見えなかっただろう。マロウとて、叱責で迎えられる覚悟はできていた。


 だが説教を受けるのは、こちらの用を済ませたあとだ。


「ゴメンナサイ! でも、聴いてくれ。大事な話があるんだ!」


 そう切りだすと、二人の警官は顔を見合わせ小さく首をかしげた。

 一瞬の隙に、マロウはたたみかける。


「オレはホーマー孤児院のマロウって言います。ほら、街外れの陰気な教会みたいなあそこ。オレは、べつに夜遊びしに来たんじゃない。逃げてきたんだ。あそこではヒドい虐待が毎日のように行われてる。オレが生き証人さ、見てくれよ!」


 一息で言いきると、マロウは服をまくりあげた。胸、腹、脇腹、鳩尾にまで、青々とした痣が無数に拡がっている。冬の風がつめたく吹きつけて、肉をしめあげるような痛みを寄越した。


 痩せぎすの警官がその様を見て表情をゆがめた。


「こいつはひどいな……」


 その肩へふくよかな警官が手をのせる。黙って首を振った。ひどく残念がっているように見えた。


 マロウはぱっと表情を輝かせた。


 これで告発は成功した。彼らは罪のない子どもが傷ついていると知ったのだ。あとは大人たちが動いてくれる。それも一市民ではなく、警察が容認したとなれば、クズどもの牙城などすぐに崩れ去るだろう。


 そう確信したからこそ、二人の大人が同時にもらした嘆息は、マロウの耳をいやにひきつけるものだったのかもしれない。


 ふくよかな警官が、改めて痣を観察した。

 そしてもう一度、これ見よがしに嘆息するのだった。


「ボウズ。きっと辛い生活を送ってきたんだろうな。そのせいで性格がひねくれちまうのも無理はねぇ。だが、孤児院で虐待なんてありえんさ」


「ハ……?」


 マロウは絶望するより呆気にとられた。

 一瞬、なにを言われたのか理解できなかった。


「なんで、あり得ないんだよ……?」


 訊ねると二人の警官は顔を見合わせ、ハハハと笑った。


「あそこは教会の支援も受けてる。神の恩寵を受けた立派なところさ」

「神の、恩寵……? ふざけるな! あいつらは天使の皮をかぶった悪魔だッ!」

「まあまあ、落ち着けよ」


 痩せぎすの警官が肩をつかんで宥めようとするのをふり払う。


「じゃあ、この痣はなんだよ! れっきとした虐待の証拠じゃねぇかッ!」

「あん? そんなもんガキ同士のケンカだろ。ボウズ、捏造って言葉知ってるか?」

「ウソだろ……?」


 今度こそ胸のなかを黒々とした澱が満たした。それを喰らって暗い炎が燃えあがる。


「ふざけんなよ……。あんたたち警察が信じてくれなかったら、誰があのクソどもから子どもを守ってくれるんだッ!」


 怒鳴って訴えようと、警官たちはぐるぐる目を回すだけで聞く耳をもたなかった。彼らにとっては虐待を訴える子どもの叫びより、教会やホーマー孤児院の名のほうが信用できるのだ。


 マロウは口のなかでもごもごと悪態をくり返したが、次第に怒りも萎えていった。途方もない悔しさがあって、熱くなるより泣けてきた。視界が歪んで、脇腹が痛む。心に吹く風がキンと冷たい。


「さて、話は済んだか? 俺たちはカウンセラーじゃねぇんだ。ヒスの相手してる暇はねぇのよ。だけども職員とかボウズの友達は、きっと心配してんだろなぁ。送り届けるくらいはしてやる」


 蛆めいて肥えた指先が伸びた。

 瞬間、マロウは我に返りそれをふり払った。


「やめろ! 触んじゃねぇッ!」


 ふくよかな警官が顔をゆがめた。痩せたほうは、口端に陰気な笑いを寄せた。


「ボウズ、暴れんな。あんまり勝手すると、孤児院じゃなくてブタ箱送りになるぜ」

「うるせェ! みんな敵だ……大人なんてクソ野郎ばっかりだッ!」


 マロウは警官のブーツに唾を吐きかけ、踵を返して駆けだした。


「なっ! このクソガキ!」


 足はすでにパンパンだった。脹脛からポップコーンが弾けてもおかしくない。

 それでも走らなければならない。疲れに負ければ、孤児院へ逆戻りだ。そうなれば、またあのクソどもから暴力を振るわれ、義兄弟きょうだいたちの悪夢も終わらない。


 捕まってたまるかよ……!


 マロウは血をたぎらせ走った。風を蹴って前へ進んだ。

 だが遅い。疲れが足を蝕んで、ただれた肺を焼くようだ。等間隔にならんだ街灯が無限に続いているように見えて、とても逃げ切れる気がしない。


「待て!」


 待ってはやらない。待ってはやらないが、振り切れない。巨大な交差点が見えるけれど遠い。その手前には曲がり角。やはり遠い。信号は赤になり車が左右から流れだし、街灯は見てみぬふりをするように低くうなだれている。


 チクショウ……ッ!


 誰も助けてなどくれなかった。希望などありはしなかった。大人はみんなクソで、どいつもこいつも悪魔ばかり。弱い者をなぶり虐げ、ヘルプの声に耳をふさぎ嗤うのだ。


 絶望が、怒りが、憎しみが、マロウに束の間の力を与える。筋肉のブツブツ切れる音がして、いつの間にか曲がり角がすぐそこにまで迫っていた。


 マロウは転がるように角を曲がった。

 そして、


「いでっ!」


 灰色の壁にぶつかった。

 尻もちついて倒れこむと、今度こそ警官にがしっと腕を掴まれた。


「放せ、放せよ! クソぉ!」

「大人しくしろってんだ! ホントにブタ箱送りにされてぇのか!」

「……ちょっと、待ってくんねぇかな」


 その時だった。

 曲がり角からぬっと巨大な影が現れたのは。


 マロウを捕らえようと躍起になっていた警官二人は、その偉丈夫を見てたまらず息を呑んだ。マロウもまた、不自然な壁と思っていたものが、灰のロングコートをまとった男であることに愕然とする。


「お巡りさん。そのガキ、俺の連れだ。やっと見つけたぜ。放してやってくんねぇかな?」


 鈍色の髪を掻きながら、偉丈夫が言った。

 ふくよかな警官は、とっさに男と少年を見比べ思考を加速させた。

 しかしその答えがでるより先に、男の稲妻めいた眼差しが少年を射抜いていた。


「おい。何やらかしたか知らねぇが謝れ。人様に迷惑かけるなって、いつも言ってんだろうが」


 マロウはわけが分からず偉丈夫を見上げた。


 こいつは誰だ? なにを言ってる?


 疑問が湧いて、泡のように弾ける。弾けた滴を掬い上げることもできない。

 ただ、確かなことが一つだけあった。

 ひたすら恐ろしいということだ。このまま黙りこくっていれば、眼差しだけで息の根を止められそうなほどの凄みがあった。


 マロウは警官たちへ向きなおり「……ゴメンナサイ」と頭を下げた。

 すると偉丈夫があたまを鷲掴み「聞こえるように言いやがれ」と、ぞっとする声音で囁いた。


「ゴ、ゴメンナサイ! 迷惑かけてゴメンナサイ!」


 マロウはストリートに額をこすりつけながら謝った。額が割れ、血のぬるい感触があったが構わなかった。恥辱もなにもなく、急かされるようにそうした。


 すると、ようやく我に返ったのか、痩せぎすの警官が口をひらいた。


「え、えっと……職員の方?」

「あ? ああ、まあな。こんなナリだが、一応あれなんだ」

「し、失礼ですが、虐待とかされてませんよね……?」

「ふん、こいつを? 神に誓ってない。このとおり礼儀には厳しいがね」

「なるほど……」


 何に納得したのか、警官があいまいな態度をとると、偉丈夫はマロウの腕をひねりあげるように立ち上がらせた。マロウを悲鳴を呑みこんだ。


「それじゃ、いいかい? 夜も晩いんでね。子どもは早く寝かさねぇと」

「あ、はい。お気をつけて……」

「ご苦労さん」


 折よく信号が青に変わる。

 男は立ち去る。少年の手をひき横断歩道を渡ってゆく。


 マロウは困惑を隠しきれぬまま警官をふり返り、とぼとぼ男に付いていくしかなかった。どう見てもまともな大人には見えないが、腕をふり払う力も勇気もない。しばらくは不安を抱えたまま歩いた。


 二人が立ちどまったのは、やがて男が振り返り「行ったな」と呟いた時だった。黒手袋もはなれ、マロウは改めて男を見上げる。でかい。七フィートはありそうだ。


 偉丈夫からの一瞥がある。


「じゃあな」

「え? なに?」


 当惑を声にだすと、さも面倒そうな視線が落ちた。


「何じゃねぇよ。サツは帰っただろ。俺も帰る。お前も好きなとこ行け」

「あ、そう……え?」


 腑に落ちない。状況を理解できなかった。

 マロウは勇気をふりしぼって訊ねる。


「あの、なんで助けてくれたんだ……?」

「助けてねぇ。うるせぇから止めただけだ」

「はあ……。あんた何者?」

「通行人だ。サツに見えるか? お前アホか?」


 これには恐れより怒りが勝った。


「アホじゃねぇよ!」

「そうか。まあ、どうでもいい。達者でな」


 男は無理やり立ち去ろうとする。

 すかさずマロウはコートの裾を掴んで引き止めた。

 ギロリと睥睨が返る。

 マロウは視線を逸らし、身体を震わせた。


「頼む、おっさん! 聴いて欲しいんだ!」

「おっさん? 失礼な奴だな」

「ゴメン! じゃあ、お兄さん!」

「嫌味か。言いたいことあんなら早く言え」


 苛立ちや呆れ。

 男からはネガティブな感情がひしひしと伝わってくる。けれど突き飛ばしたり、唾を吐きかけたりはしない。話を聞くつもりはあるようだった。


「オレはマロウ。ホーマー孤児院しってるか? あそこから逃げてきたんだ。信じられねぇかもしれないけど、あそこでは虐待が日夜くり返されてる。子どもたちが……とにかくヒドい目に遭ってるんだ。これが証拠だよ」


 マロウは服をまくりあげて痣を見せつけた。

 しかし男は、それを見ても顔色ひとつ変えず「それで?」と問い返すだけだった。


「頼む、あんた大人だろ! この窮状を訴えて、孤児院を摘発してほしいんだ。オレみたいな子どもじゃダメでも、あんたみたいな大人なら――」


「知るか」


 男は遮り、心底呆れたように返した。


「俺には関係ねぇし、興味もねぇ。ガキがどうなろうと知ったこっちゃねぇ」

「んだとッ!」


 マロウはほとんどバンザイしながら男に掴みかかった。男は抵抗ひとつしなかった。ただ、闇をたっぷり吸った双眸でマロウを見下ろすだけだった。


「あんたも結局、クズな大人かよ! それなら、なんでオレを助けたりしたんだ!」

「同じことを二度も言わせるな。うるせぇから止めたんだ」


 男はゆっくりとマロウの指を剥がし、コートの襟を正した。

 そしてまた呆れたように少年を見下ろし、なぜか不意にニタリと不敵な笑みを浮かべた。


「……お前が喚かねぇように、ひとつ面白いことを教えてやる」

「なんだよ……?」


 マロウは警戒の眼差しで男を見上げる。

 すると、視線が同じ高さにまで下りてきた。

 

 マロウはその巨躯に押しつぶされるような心地がして、一瞬目をつむった。

 それと同時だ。闇のなかに囁き声が響きわたったのは。


「〝コッキング〟だ」

「え……うあっ!」


 目をあけようとした途端、目許を黒い手に押さえつけられた。こめかみが軋み、闇がつづき、囁きもまた続いた。


「入口から二番目に遠い円卓。その壁際の席を訪ねろ」


 そこで不意に視野がひらけた。こめかみの痛みも去った。チカチカと明滅する視覚に、翻るロングコートがかろうじて見てとれた。

 男はすでに歩きだしていた。マロウはあとを追おうとするが、背を向けたまま放たれた男の言葉が、その意志を挫いた。


「お前に覚悟があれば、きっと使が来てくれるぜ」

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