【記憶】
すべて、リセットしたい。だれになんと言われようとも、そう思うのです。ええもちろん、知っています。標本化はイコール、忘却ではない。
でもとりあえずすこしの間だけ、わたしのものでなくなるのならそれでいいと思うのです。だから、お願いします。
あのひとは、わたしの宗教です。きっと、今も。あのひとの言うすべてが尊くて、仕草も、においも、視線も、なにもかもぜんぶ、わたしが鏡写しにできたらいいのにと、真似ばかりして、だからわたしはわたしではない。
自身がない。だから、自信がない。あのひとを信仰しても、これだけは駄目だった。ひとからの愛はわたしの自信にはなり得ない。絶対に。
それがとても悲しくて、やりきれません。信じているけれど、あのひとを信じているけれど、だからじぶんを信じられるわけではない。こんな人間の口から、宗教だなんてありえないと思うでしょう。……わたしがいちばん、その矛盾に首を絞められているのです。
出逢わなければよかった。陳腐な言葉ですが、結局はこれに尽きる。だってあの時出逢わなければ、わたしの信仰心はうまれなかった。簡単な話。
「痛い? おいで」
差し伸べられた手を振り払うことは、死ぬことより難しかった。振るわれる手から逃れた先で、わたしはべつなひとの手に縋った。それが、彼だった。それだけ。それだけのことに、こんなに支配されていて、被支配者であるわたしにはもうどうすることもできない。
だから、リセットしてしまいたい。馬鹿げていると思うでしょう。捨てるなんて、信仰はにせものだったのではとわらいたくなるのも無理はありません。
でも、わたしのすべてがあのひとでできている、今のわたしをさえかたちにしてしまえば、こんなに不純物だらけの信仰をリセットしたあとのまっさらなわたしに、また還せる。綺麗で、完全な信仰を、もう一度。
そんな目でみないでください。どんなに軽蔑したって、あなたはその手をふるう。お客はみんな、あなたが欲しがっているものをよく理解しているんですよ。懇願はお客の役目ですけれど、嘆願はあなたの商売の根源でしょう?
さあ、お願いします。この不純物を、わたしのこんなによごれてしまった【記憶】ぜんぶを、ひとときだけ、預かっていてください。きっとすぐに、取り戻しにきますから。
標本 海百合 海月 @jellyfish_
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