【痛み】
たいせつにしていい、たいせつなものはあなたが決めるんだ、なんて、言ってくださる方は初めてです。
頭に血が上ると、すぐに周りがみえなくなるひとでした。たとえばわたしがすこしたまごやきを焦がしてしまったとき。トイレットペーパーの予備を置き忘れてしまったとき。麦茶の味がいつもより濃かったとき。なんでも、気に入らないことがあると、すぐにわたしを痛めつけるひとでした。
殴る蹴るは日常で、吸っていた煙草の火を押し付けてみたり、持っていたお箸をぐりぐりずぶり、刺してみたり。わたしの日焼けしにくい肌は、だからあなたにもらった傷だらけです。病院になんて、行きません。だから治ることのない傷が、あなたからの贈りものの証として、増えていくばかりでした。
あなたはわたしに痛みを贈ること、そして物語を生むことをしながら生きていました。あなたはじぶんが生み落とした小説たちを撫でるのです。そしてこう言うのです。
「俺の汚いところなんか、こいつらにはひとつだって背負わせたくないんだ」
だからわたしがいるのね。言葉はすぐに、押し殺した悲鳴に代わりますが、わたしはあの頃、結局のところ、満たされていたのでした。
やすいなあと思います。ばかだなあと思います。それでも好きで、好きで。消えない贈りものなんて、ふえつづけて際限をしらない贈りものなんて、すてきだと思いませんか? わたしはすくなくとも、すてきだと信じているのです。
だからあなたと引き剥がされたとき、わたしはなにもかもを奪われたようで、空っぽになってしまったようで……なにも持たないわたしに意味をくれたあなたがいなくなって、もうほんとうにわたしには意味なんてないのだと、痛みなんてと憐れむひとびとに、こころのなかで叫び続けていました。もちろん、届くことなんてないのですけれど。痛みの代わりにわたしに与えられたものは一日三回、食後に服用する薬。一日五回、傷跡を消す塗り薬。要らなかった。そんなもの、要らなかった。
すべて捨てて逃げ出しました。いまも、逃げています。意味を奪ったあのひとたちからのものなんて、ひとつも欲しくありませんでした。
あなたからもらった痛みに浸かったまま、消えないよう、傷を重ねる。
痛みって、きっとあなたからもらったなにより、強い印象をわたしに与えたものなのよ。
それはあなたがわたしに意味をくれた証であり、たしかにあった、あなたのわたしへの愛の証でもあると、信じています。
いまもあるのか、それはわかりません。あなたの生きていることの証のひとつ、あなたの生む小説たちが、本屋に並ばなくなってしまったから。
たいせつなものは、わたしのもの。じぶんだけのもの。その言葉をいただけて、とても救われています。ごめんなさい、勝手に救われたりなんかして。救うつもりなんてないことくらい、わかっています。
それでもこの【痛み】を標本にして、重ねても重ねても消えてしまいそうな証たちを、あなたがすこしだけ穏やかになれた窓際に飾って、ひなたぼっこさせるの。あたためてあたためて、いつか孵ればいい、そう思いながら。
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