第4話 女のすすり泣く声を…
最後に1年の
秀一は剣道を始めてまだ3ヶ月半という初心者だ。
信州・真田家の
素直な親しみやすい性格で、涼介をはじめ、先輩みんなから可愛がられている。
一方の香苗は、部員の中でもっとも気が強く、稽古熱心でもある。怪我も多いが、インターハイ準優勝を果たした団体戦では、咲に続く次鋒を務めた。
秀一に対して唯一厳しい態度を取る先輩でもある。
「ねぇ、田中君」
トンネルに入って間もなく、香苗が言った。
「あの、僕一応、真田なんですけど……」
と秀一が応えることもお約束になっている。
「田名君ってさ」
「あ、もう田中でいいです。すみません」
「私のこと、嫌いでしょ?」
「えっ」
と秀一は驚いた。
香苗は時々、相手のことを本人より分かっているような言い方をする。それは的確であることも多いが、今のは当たっていない。秀一は香苗が嫌いではなかった。
彼女の厳しさは自分のためになっている、と素直に思っている。
「いえ、そんなことないです!」
と慌てて否定した。
しかし、香苗は聞き入れない。
嫌いだ、嫌いに決まっている、と言うように理由を付け加える。
「無理しなくていいよ。私、田中君に意地悪してきたもん」
***
確かに、香苗は秀一につらく当たってきた。まったくの未経験から高校剣道部に入ろうとしていた秀一に、1ヶ月間、毎日8キロのランニングと500本の素振りをこなしてから入部するように命じ、入部後も秀一に厳しい注文をつけてきた。
香苗は、強豪剣道部のレギュラーであることに誇りを持っている。
そのチームの価値を落としたくない気持ちが、秀一に対する厳しさになっていた。
この子はすぐやめるだろう、と香苗は思っていた。やめるに決まっている、と。
ところが、秀一は新入生が次々に脱落する中で稽古に耐え、上達を続けた。この夏合宿では、部員同士の練習試合で初勝利を挙げるまでになっている。
そういう秀一に対して、香苗の中に、当初とは違う感情が芽生えていた。
「ねぇ、田中君」
トンネルの半ばまで差し掛かったとき、香苗が不意に立ち止まり、言った。
「今まで、ごめん……ずっと、意地悪して」
秀一と2人きりで話せる機会は今しかない。
香苗は下唇を噛んで、もう一度言った。
「ごめんなさい」
ショートレイヤーの髪を傾け、頭を下げる。
「いやぁ、そんな。意地悪されたことなんてありましたっけ。あはははは……」
と秀一は重い空気を笑いで和ませようとした。が、その笑いをすぐに止めた。
香苗が泣いていたからだ。
「ごめんなさい……ごめんなさい……」
ボロボロ泣きながら、崩れるように抱きついてきた。
(え、何これ?)
秀一の胸がドクンと高鳴る。
小柄で張りのある、香苗の体の感触。
これが噂に聞くラッキースケベかと思い、秀一は鼻の下を伸ばしかけたが、すぐに表情を引き締めた。自分に対して謝っているのではない、と気づいたからだ。
***
桜坂高校女子剣道部は、ある意味で格差のあるチームだ。
天才・浅村咲が入部したことで、一躍全国トップレベルの強豪になったが、団体戦のメンバーには、東京都でも上位に入るとは言いがたい選手が混じっている。
特に、先鋒・浅村に続く次鋒・相馬は、他の強豪チームからは弱く見える。
マスコミの注目を集めながら勝ち上がっていくチームの中で、香苗は一人、負け続けた。インターハイの初戦から決勝まで6戦全敗。咲が必ず勝ち、香苗が必ず負けるので、チームは常に1勝1敗で中堅戦を迎えることになる。
部員は誰も香苗を責めなかった。
しかし、香苗は他人に厳しい以上に、自分に厳しい。
人一倍強い責任感とチームを思う気持ちが、自分に向ける刃になった。
(ごめんなさい……ごめんなさい……)
「桜坂って次鋒だけ弱いな」
「なんであんな子がレギュラーなの?」
という声が聞こえてくる。
ライバル校の選手や監督が「桜坂の穴は相馬だ」と言っているのも知っている。
(ごめんなさい……ごめんなさい……)
強気な香苗は反感も買いやすい。
「私、あの子、なんか嫌い」
他校の生徒から、すれ違いざま、聞こえるように言われたこともある。
そうした声を気にしないふりをして、香苗は強気な姿勢を保ってきた。
チームの戦う気持ちを支えることも、次鋒の役割だ。
でも、もう限界だった。
インターハイが終わり、緊張が切れた状態で迎えた夏合宿。その最後の夜、秀一に謝ったことで、心の
「ごめんなさい……ごめんなさい……」
今まで言えなかった気持ちを吐き出すように、香苗は謝り、泣いた。
秀一のTシャツを掴む、その手が
「私が本当に許せないのは、私なんだ」
***
香苗のおでこが秀一の胸に押し当てられている。
湯上がりで濡れた髪は、ほんの少し、グレープフルーツの香りがした。
男はこういうとき、どうすればいいのだろう?
秀一は、小柄な香苗を抱きしめたい衝動に駆られた。
しかし、背中に回した腕を理性で押し止める。
(僕にそんなことをする資格はない)
と思ったのだ。
全敗したとはいえ、相手はインターハイ準優勝チームのレギュラー。
それに対して、自分は公式戦に出場したこともない初心者だ。
そんなことをする立場にない、と。
(強くなりたい)
と秀一は思った。
生まれて初めて、心から。
オバケトンネルに女のすすり泣く声がこだまする。
真田秀一、15歳の夏の出来事だった。
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