暁の道標 5

 ◇ ◇ ◇


「着いたね」

「……うん」


 ようやく辿り着いた我が家。

 こみ上げてきた感慨深い思いが波のように引いていくと、今度は不安や怖さが打ち寄せてくる。

 二人とも、中々ドアへと近づけず、顔を見合わせては、また家へと視線を戻すことを繰り返した。

 やはりここは兄として先に行かねばと覚悟を決め、サリュートアが一歩を踏み出そうとした時、突然、大きな声が上がる。


「お坊ちゃま! お嬢さま!」


 声の主は、ジェイムだった。

 顔をくしゃくしゃにした彼は、こちらへと駆け寄ってくる。


「ジェイム」

「あの」


 二人が何かを言うよりも速く到着した彼が、その体をまとめて強く抱きしめた。


「ジェイム、その」

「ジェイム……痛いよ」


 それは少しきつかったけれど、とても温かい気持ちにさせてくれる。


「お二人とも、少し、お痩せになりましたか。良くご無事で……」


 しばらくそうした後、彼は二人から体を離し、顔を確かめるように見た。

 下がった目じりからは涙が溢れ、一筋、また一筋と頬を伝う。

 それを見ていた二人の目にも涙が浮かび、アストリアーデは堪えきれなくなって、彼に抱きついて泣いた。


「本当に、私がどれだけ心配したことか……」


 二度目に体を離した時、今度は説教が始まる。

 とても心配をさせてしまったから、それは仕方がないと思ったし、叱られることでさえ懐かしいと感じられて、心を揺さぶった。

 だが、神妙にしている二人を見て、何故かまたジェイムは泣き出してしまう。

 二人は何だか居た堪れなくなり、彼を宥めながら、ようやく家の中へと足を踏み入れた。

 久しぶりの我が家は、少し雰囲気が変わったような気がする。

 エントランスホールには、母が立っていた。


「お帰りなさい」


 まるで、ちょっとそこまで出かけてきた子を迎えるようにミストは言ってから、二人に近づき、それぞれを抱きしめる。


「二人とも、大きくなりましたね」


 それから彼女は、ホールにあるテーブルを手で示した。


「ジェイムのお説教が長いから、その間にお茶を淹れておきました」


 いつもの、サラウェアの優しい香りが微かにする。家に帰ってきたのだという実感が、さらに強まったような気がした。


「大体、奥様も――」

「さ、頂きましょう」


 矛先が自分にも向いたのを知り、ミストはくるりとテーブルの方を向くと、さっさとそちらへ歩き出してしまう。

 と、その足が唐突に止まり、また体がこちらへと向けられた。


「そうそう、手紙をありがとう。サリュートアから手紙を貰うなんて滅多にないことだから嬉しくて、額に入れて飾りましょうって言ったら、ヴィンもジェイムもやめろっていうの。あなたはどう思う?」


 にこやかに問われ、サリュートアは言葉に詰まる。

 そんなのは勘弁して欲しいというのが正直なところだが、この状況でそれは言い辛い。


「……あのね、お母さん」


 代わりに口を開いたのは、アストリアーデだった。ミストは首をかしげて彼女を見る。

 ここに来るまでの門も、玄関のドアも手で開けなければならなかった。

 家の雰囲気が変わったように思ったのは、天井が光っておらず、幾つものランプが置かれていたからだ。

 それは『遺産』が止まった証拠に他ならない。


「明かりとか、ドアが動かなくなったりとかね……あたしたちのせいなの」


 恐る恐る言った彼女に、母は微笑んだ。


「多分そうだろうと思っていました。でも素敵ですよ? ランプの明かりで過ごす夜も、薪で焚くお風呂も」


 大体ヴィンとジェイムがやってくれるのだけれど、と付け加えた彼女の目が、ふと部屋の隅を見た気がし、アストリアーデも何気なくそちらを見る。

 一瞬、息が止まった。

 そこには、真っ白な狼が座っていたからだ。

 アストリアーデは目を見開いたまま、しばらくそちらを見ていたが、やがて表情を柔らかくする。


「ずっと、あたしたちのこと見守っててくれてたの?」


 狼は何かを言いたげな表情でこちらを見た。


「そうみたいですね」


 しかし何も語らない彼の代わりに、ミストが答える。


「あなたたちが出かけてから、ケインの姿も見えなくなったから、きっと一緒だと思ったのだけれど」

「ケインって言うんだ。あんまりよく覚えてないんだけど、小さい頃は一緒に遊んでた気もする。……どうして、見えなくなっちゃったのかな?」

「あなたたちは、今までもずっと彼を見ていましたよ」


 母は、穏やかに言う。


「でも、それを忘れていこうとするあなたたちを見て、わたくしたちも、話題に上らせることをしなくなりました。必要な時が来たら、きっと思い出すと思ったから」


 そして、また微笑んだ。


「さっきから二人とも、何の話をしているの?」


 サリュートアは戸惑いながら二人と、部屋の隅を交互に見る。


「サリュートアにもまた、わかるようになるよ」


 アストリアーデは、兄の方を向いて言う。

 彼もまた幼い頃、ケインと一緒に遊んでいたのだろうから。



 夜になって帰宅した父は、二人を見て、やはり平然と「お帰り」と言った。

 まるで数ヶ月ぶりの家族の再会は、ジェイムのところで全て終わってしまったかのようだ。

 疲れたと言って、ソファーにどっかりと腰を下ろした父に何かを言おうとして、サリュートアの頭に沢山のことがよぎる。


「……何で父さんは、俺のことを『サリュー』って呼ぶの?」


 そしてようやく口から出てきたのは、そんなどうでもいい質問だった。


「何でって……」


 ヴィンスターレルはこちらに視線を向け、口を開く。


「カッコよくないか? いい感じっつーか」

「……それだけ?」


 思わず聞き返すと、何かまずいことを言ったと思ったのだろうか、父はソファーに座りなおし、弁解を始めた。


「え……まあ、サリュートアって長いだろ。だから呼びやすくなるし」


 サリュートアは何も言えずに、それを眺めている。


「そ、そんなに嫌だったのか? それなら早く言ってくれれば」


 慌てている父の姿を見ていたら、急に胸の奥から可笑しさがこみ上げてきて、口から飛び出した。

 そうして一旦笑い出すと、止まらなくなる。

 そんなサリュートアを見て、父は呆気にとられたようにぽかんと口を開けていて、その表情がまた、可笑しくてたまらない。

 ――自分で勝手に思い込んで、勝手に傷ついていただけだった。

 理由を聞くことなんていつでも出来たのに、勝手に怖がって、それをしなかった。

 呼吸が苦しく、腹筋も痛む。こんなに笑ったのはいつぶりだろう。

 ようやく落ち着いてきて、出てきた涙を手の甲で拭いながらサリュートアは言った。


「いや、嫌じゃない。――結構気に入ってるよ」

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