暁の道標 4
◇
「あ? ここ、どこだ?」
光が徐々に収まっていき、意識がはっきりとしてくるにつれ、寒さもじわりと体の奥まで届いたようで、バートは身震いをする。
周囲には、濃い霧がかかっていた。
少し目が慣れてくると、近くに居る皆の姿も確認できるようになって来たが、あの少女の姿はもうなく、辺りを覆っていた施設の白い壁も、そこにはない。
足下を見ると、彼の靴が踏みしめているのは草であり、その下の土だった。
風が吹き、それが鼻の奥をくすぐると、深い緑のにおいがする。どこかで、木の葉が揺れる音もした。
「さっきまでの、あの場所はどうしたんでしょうか? 何か不思議な力で、どこかに飛ばされた……とか?」
セシリアも周囲を見回して言う。
彼女自身、それを信じていたわけではないのだが、あまりにも自分の理解できる範囲外の出来事が続いたので、そういうこともあるかもしれないと思ったのだ。
「多分、俺たちは知らないうちに外に出されたんだと思う。前に――はっきりではないけど、見たことがあるんだ。動く部屋みたいなのを」
サリュートアが、地面に視線を向けたままで答える。
あの屋敷で、ナオはイシュターを連れて壁の中へ姿を消し、その後二人は、いつの間にか階下へと移動していた。
ヨセミスフィアの中へは階段で向かったが、ああいったものがあるのであれば、四人を一度に外へと出すことも可能だろう。
「んじゃ、あの施設はこの下にあんのか」
バートはそう言って足を何度か踏み鳴らしてみる。だが、草と土を踏む感触しか返って来ない。
「推測だけどね。……でも、サマルダの街はどうしたんだろう? 明かりも見えないなんて」
霧は少しずつ晴れ、見通しは良くなって来ていた。そこから見える空は暗かったが、草木の影は確認できる。
しかし、建物らしきものや、人の気配というのは、全く感じられない。
ここが郊外であったとしても、明かりすら見えないというのは奇妙だ。
「……ねぇ、サリュートア」
そこで、アストリアーデが口を開いた。
「あの街って、石畳が敷いてあったでしょ?」
サリュートアは彼女の真意が掴めずに、「うん」とだけ答えて先を促す。
彼女は、自信なさげな声音で続けた。
「あたしが急に走り出して、転んで、手を少し怪我したから、水筒の水で傷を洗って……その時ね、手のひらに土がついてたの。傷も、石畳にぶつけたっていうよりも、草で切ったみたいな……」
段々と小さくなっていく声を聞きながら、サリュートアは自らの服にも触れてみる。
「……土がついてる」
特にズボンの足や尻部分に、多くついていた。少し濡れたような感触もあり、その指を鼻先に近づけてみる。
「これ、草の汁だ。何で……?」
「今、ついたんじゃねーの?」
バートが同じように服を触ったり払ったりしながら言うが、サリュートアは大きく首を振った。
「俺たちは、一度もここに座ってないのに?」
「あ……」
セシリアが、小さく声を漏らす。
「サマルダに来る時は馬車だったし、町に入ってからはずっと石畳の道だった。地面に腰を下ろしたりもしてないだろ?」
「街が変な迷路になっちまった時、下ろしたじゃねーか。土だって草だって、地面に落っこちてることだってあるだろ」
バートはもう思い出したくないのか、身震いをしながら言った。
「それはなかった……と思います」
そこで、セシリアが口を挟む。
「サマルダの道には、ごみ一つ落ちてなかったんです。少なくとも、私の見た範囲では。ずっと追っ手を警戒した生活だったので、そういうところまで見る癖がついちゃってるんですよね……手配書とか、尋ね人とかの紙がどこかにあったら、と思うと怖くて」
「それに、もう一つあるんだ」
「な、なんだよ」
何だか不機嫌そうなバートの方は見ずに、サリュートアは周囲に目を向ける。
辺りは少しずつ明るくなり、その容貌を徐々に現してきていた。
「サマルダに着いた時、緑のにおいがしたんだ。だから、近くに公園とか、緑が集まってる場所があるのかと思ってた。でも……」
町を歩き回っても、そんなものは見当たらなかった。
もしかしたら、見落としていただけかもしれない。しかしそのにおいは町に入ってすぐ、あんなにはっきりと感じたのだ。そんなに離れた場所にある香りが漂ってくるとも思えない。
そして、アストリアーデだけが感じていた異変。
彼女だけは、最後まであの町の食べ物も、飲み物も口にしようとしなかった。
その一方で自分は遠慮なく飲み食いをし、次第に帰ることばかりを考えるようになっていた。
「……あの町も、迷宮も、幻だったんじゃないかな。そうやって、ヨセミスフィアを守ってた」
少女は、あの場所が強固に守られていると言っていた。
そして、『幻影師』と呼ばれた人々の能力のことを考えれば、その答えが一番収まりがよい気がする。
「つまり俺たちは、揃いも揃って、夢でも見てたってことか? まさか」
「私は、サリュートアさんの意見を支持します」
「お前もかよ!? マジで言ってんの?」
セシリアは少し笑って、それから言った。
「マジですよ。……それに、ずっと言ってたでしょう? アストリアーデさんは。あの町がおかしいって」
「セシリアさん……」
「それとも、もっと上手い説明ってバートさん、出来ます? 緑の香りや、付着した土や草の汁、町が突然迷宮に変わって、人も一人残らず消えて、この付近にも全く町の影すらない理由」
「わーったわーった、俺にはムリだから、いいよそれで」
バートは降参とでもいうように両手を上げ、ため息をついた。
「ま、あのガキも体透けてたし、そんなとこだよ、きっと」
その時、目の端に触れた光に皆、顔を上げる。
空ににじんだ朱の色が、じわじわと周囲に染み行くように広がった。
朱から橙へ、そして金色へ――気色は瞬きをしている間にも入り混じり、押し合い、揺らぎながら姿を変え、魚のような雲の輪郭を浮かび上がらせ、染め上げていく。
魚たちは悠然と、身に纏った光の波をかき分けて空を泳いだ。
空の明るさが増すにつれて、峰々の姿がはっきりと見え、やがて一際明るい金の円が、こちらを覗きこむかのように顔を出す。
そこから投げかけられた光の筋は、目覚めを待つ草の一本一本を撫でながら、その数を増して行った。
鳥たちは一日の始まりを楽しげなさえずりで彩り、木立は伸びをするようにさわさわと揺れ、朝露を払う。
やがて一際太い光の筋が、稜線からこちらへと向かって真っ直ぐに伸び、道となった。
「綺麗……」
セシリアが呟く。バートも小さく息を漏らした。
「……もったいないね」
サリュートアが目を向けると、アストリアーデは顔を朝日に向けたままで続ける。
「こんなにすごい景色がきっと何度もあったのに、今まで沢山見過ごしてきたんだなって思うと」
日の光に照らされた妹の横顔は、随分と大人になったように見えた。
守ってあげなければと思っていたのに、気がつけば彼女は、自分が思っているよりもずっと遠くへ行っている。
それが誇らしいようでもあり、淋しい気もした。
もし、彼女がまた思い詰め、身動きできなくなった時、今度は自分がこう言ってやればいい。
そんなに考えすぎなくても、きっと大丈夫だよ、と。
暁の空は、彼方へと続いている。
サリュートアは、それを見ながら言った。
「帰ろう。俺たちの家へ」
◇
一行はヒスタまで何とか戻り、そこから再び馬車へと乗る。
もう追っ手は現れないのだから、びくびくする必要もなかった。
ヒスタでも、その他の町でも、さりげなくサマルダのことを話題にしてみたのだが、あの町のことは、すでに忘れられ始めていた。
サマルダのことを「大したことのない、普通の町」だと言っていた人々は、その代わりに「どこにあったか忘れた」「そんな町あっただろうか」という言葉を口にする。
あの場所は迷宮と幻の町だけではなく、周囲の人々によっても守られていたのかもしれない。
そのうち人々の記憶からも完全に消え、地図からも姿を消すことになるのだろう。
「お世話になりました。落ち着いたら、またお会いしましょう」
スウォルトの自宅がある町で、セシリアは言って頭を下げる。
十字路に立つと、あの時の騒動が思い出されて、少し落ち着かない気分になるが、そこには日の光の下、普通に行き交っている人々の姿があるだけだ。
「またな! 気をつけて帰れよ!」
その隣に立って手を上げるバートに、彼女は目を瞬かせた。
「バートさんは行かないんですか?」
すると、彼の方が驚いたような顔をする。
「バーカ、こっちにも護衛が要るだろ! また何かあったらどうすんだ」
「でも」
セシリアは、双子を交互に見た。
「うん、その方がいいよ。俺たちはもう、真っ直ぐ帰るだけだから」
「あたしたちは元々二人だったんだから、大丈夫だよ。……嫌なら嫌って言った方がいいと思うけど」
その言葉にぎょっとして向けられた視線にセシリアは笑い、首を小さく振る。
「いえいえ、私も助かります」
今度はほっと胸を撫で下ろしたバートに、サリュートアは向き直った。
「本当はオーファさんにも挨拶したいところなんだけど、また改めて」
「ああ、一回帰ったほうがいいって。でっけーヤマになりそうだし、もしかしたら、俺たちが先にマイラに行くことになるかもな」
「そしたら、一緒にご飯でも食べようよ!」
笑顔で言ったアストリアーデに、バートは親指を立てる。
「ああ、旨い店教えてくれよ? 色が普通のヤツな!」
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