暁の道標 2
「でも、フォルスタ・リーヒャエルドが殺害されたかもしれないっていう線で、捜査が始まるみたいよ。ユミル・バーガンディー任事官の収賄疑惑が告発され、それによって揉み消された事件が発覚したの」
「バーガンディー!?」
続いてもたらされた驚くべき情報に、思わずバートは大きな声を出す。
「告発した人の名前は? ……わかりますか?」
セシリアも驚きに目を見開き、かすれる声で尋ねた。
「スウォルト・ナシェビルよ」
「じーさん、やりやがったな」
彼の言った、取るべき行動というのは、このことだったのだろう。
追っ手が途絶えた理由も、これだったのだ。
「……何で、あんなことを教えたの?」
高揚する空気の中、アストリアーデが唐突に言った。その声は、小さく震えている。
「何で、ウィリスの――イシュターに、あんな技術を渡したの?」
その言葉だけで、少女には伝わったようだった。
「欲しいと言われたから、あげただけだけど?」
何故そんな当たり前のことを聞くのだろうとでも言うように、彼女は肩をすくめ、さらりと言う。
「元々蘇生のための技術ではないし、素体の損傷も激しかったから、どうしてもコピーの維持に無理が出てしまうんだけど、それでも構わないっていうから――」
「何でそんなことをしたのかって聞いてるの!」
アストリアーデは声を荒げ、少女の説明を遮る。
一瞬にして、自分の頭に血が上ったのがわかった。
歯の奥が震えるような、うずくような感覚がし、体の中心から力が抜けて、座り込んでしまいたい気持ちになる。
「そんなことをしなきゃ、沢山の人が傷つくこともなかったし、ウィリスもあんなに苦しまなかった!」
叫びながら、すでに彼女は少女に向けて駆けていた。
だが、その姿が目前に迫っても、少女は動こうともしない。
掴みかかろうとしたアストリアーデの指先は何の感触を得ることも出来ず、体はもんどりを打って床まで落ちる。
じん、と体が痺れた。
「わたしには、あなたたちみたいに肉体があるわけじゃないから」
台座に座ったまま、床で痛みを堪える彼女を見下ろし、少女は淡々と言う。
「うるさい! ――うるさい!」
ならばとアストリアーデは、台座や、床や、壁に向かい、滅茶苦茶に手や足を振り回し始めた。
それらに傷一つつく様子はないのに、こちらの体には衝撃と痛みが返って来る。それでも彼女は、動きを止めることをしない。
もう大丈夫だと思っていた。
でも、冷たく固まった氷が解け、その中に閉ざされていた棘だらけの種子が弾けたかのように、一瞬にしてあの時の痛みが蘇ったのだ。
「アストリアーデ!」
サリュートアが駆け寄ってきて、体を羽交い絞めにする。
振り払おうとしても、流石にずっと力が強い。
自分にも肉体がなければ、それを難なくかわすことが出来て、もしかしたら少女に殴りかかることだって出来たかもしれない。
こんな苦しい思いなんかせずに、淡々と「もう過ぎたことだ」と肩をすくめて言えたのかもしれない。
――馬鹿馬鹿しい。
「離してよ!」
思い切り手を振るったら、小さな呻きが上がった。
慌てて背後を振り返ると、サリュートアの頬が切れ、少し血がにじんでいる。
一体、自分は何をしているのだろう。
そう思ったら、涙が溢れてきて止まらなくなった。
「……おい、どういうことなんだよ」
バートが、何度目になるかわからない疑問の言葉を口にする。
セシリアは勿論のこと、バートも、あの屋敷で何が行われていたのかを、詳しくは知らない。
そして普通に会話をしていた少女には、肉体がないという。
いくら奇妙なことに慣れてきたとはいえ、それを一気に消化することは、流石に難しかった。
バートは所在なげに立ち尽くし、セシリアは何か言おうとしてはやめることを繰り返す。
沈黙の中、アストリアーデのすすり泣く声だけが、辺りに響いた。
「リッシェノルジェに言われたの。自分がいない間の判断は、わたしに任せるって」
それを見ていた少女は、困惑したような表情を浮かべる。
「彼女がいた時も、実験や戦争のためと言ってここに大勢の人が来たけど、それを悪いと言われたことは一度もなかった。イシュターは、どうしても娘とまた会いたいからって言ったの。それが何故こんなに非難されることなのか、わたしには理解できないわ」
彼女は、初めての難解な問いに挑むかのように、腕を組み、顔をしかめた。
リッシェノルジェとは、セシリアが持っていた書簡に出てきた名だ。
「……あんた、その人がいなくなってから、ずっと一人なの?」
怒りや痛みはぶすぶすと燻り、まだ収まってはいなかったのに、アストリアーデはそう尋ねていた。
その名前を口にした時の少女の声が、どこか淋しげに聞こえたからだ。
もしかしたら彼女の無邪気な物言いに、ウィリスの面影を重ねていたこともあるのかもしれない。
「リッシェノルジェがここを去ったのは、1018年と4ヶ月16日2時間29分54秒前。スタッフは以前はもっといたんだけど、彼女が最後の一人だったの」
彼女はまたさらりと言うが、それはあまりにも気の遠くなる時間で、想像しても全く実感が湧いてこなかった。
「淋しく、なかったの?」
「淋しい? ……それがどんな感覚なのかはよくわからないけど、これがわたしの役割だもの」
そう言って少女は不思議そうな顔をする。
ウィリスと話をした時も、中々意思の疎通が上手く行かなかったことを思い出し、アストリアーデは表現を変えてみることにした。
「あんたは人と話して、面白そうに笑ったり、困ったような顔をするじゃない。ずっと誰とも話せなくてつまらなくなかった?」
すると少女は、微笑みを浮かべる。
「わたしにはね、沢山の表情や反応のパターンが用意されてるの。それらしい反応をしても、あなたたち人間が感じてる感情とは、また違うものだと思うわ」
これだけ表情豊かな彼女に感情がないというのは、アストリアーデには、どうしても信じられなかった。
こんなところに千年もの間、たった一人でいるというのは、どんな気持ちなのだろう。
そして、突然人がここを訪れて、思いがけず会話が出来て、その人から真剣に何かを頼まれたら、どんな気持ちがするのだろうか。
そう思うと、感じていた怒りは、少しずつしぼんで行ってしまう。
その代わりに浮かんできたのは、様々な思考だ。
イシュターの望みを叶えるために、ヨセミスフィアは使えそうな技術を探し出し、提供した。
でも、そもそもが、イシュターが娘の死を受け入れられていれば、こういうことは起こらなかった。
しかし、その結果アストリアーデはウィリスと出会い、短いけれども、お互いにかけがえのない時間を過ごせたというのも、また事実だった。
様々な考えが錯綜し、どうしたら良いのかわからなくなる。
そうして震える妹の肩を、サリュートアはそっと抱き寄せた。
彼女の中で、戦っているものがあるのだということが伝わってくる。
そして彼はもう一人、孤独の中で戦っている人のことを思った。
「……空から地上の景色を映す機械も、ここで管理してるのか?」
「衛星映像の受信端末のこと? ええ、そうよ」
少女は小首を傾げ、答える。
「それを、止めることは出来る?」
サリュートアは続けて聞いた。
あれを止められれば、リシュカは救われる。彼女を縛り付けるものから、自由になれる。
「ここに関連付けられているものであれば、止められるわね」
ここと関わっていないものであれば、止められないということか。
サリュートアは渇いた喉に唾を飲み込み、こう聞いてみる。
「リシュエンス、アドルアの森にあるものは?」
言った後、また口の中が渇いた。
答えは、程なくして返って来る。
「ここで管理してるものね」
長く吐いた自らの息の音が、やけに大きく聞こえた。
なら――と続けようとして思い直し、言葉を変える。
「……ここの、全ての機能を止めたい」
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