ヨセミスフィア 3

 ◇


「セシリアさん!」


 あれからどのくらい彷徨ったのかはわからない。

 お互いに励ましあい、それでもじりじりと広がる焦燥と絶望に、屈服しそうになりかけた時だった。

 サリュートアが大きく上げた声に、皆が集まってくる。


「これ……」


 指先が小さく震えた。これで間違いだったらという思いで、嫌な汗が首の後ろに滲む。

 セシリアは看板に目を近づけて何度も読み、単語を書き写した紙だけではなく、書簡の方も確認してから言った。


「間違いありません」


 その言葉を聞き、皆のついた溜息が、風のような音を立てる。

 ヨセミスフィアではないが、リストアップした単語の中の一つを、ようやく見つけたのだ。


「……でも、私には意味が理解できない単語です」


 続けて痛みを堪えるかのような声音で告げた彼女に、仲間たちは顔を見合わせる。


「何言ってんだよ! すげー進歩だって!」

「そうだよ、あとはこの区画を探せば、きっと見つかるよ!」


 バートとアストリアーデに明るく励まされ、セシリアは小さく頷いた。


「……はい、そうですね」


 サリュートアは、二人ほど楽観的にはなれなかった。

 見つかったのは、選び出されたものとはいえ、セシリアも知らない言葉だ。

 ただ書簡にあったというだけで、もしかしたら全く関係ないものかもしれない。

 しかし、そんなことを言っても始まらないのも確かだ。今はバートの言ったように、可能性を少しずつ潰していくしか方法はない。

 すでに歩き始めていた三人を、サリュートアは追う。


 ――誰も、何の言葉も発さない。

 それからこの区画をくまなく探しても、ヨセミスフィアという言葉は見つからず、セシリアが知っている言葉すら見当たらなかった。

 皆、思い思いの場所に座り込んでいたが、自然と道の中央に集まっている。立ち並ぶ建物の方に寄るのは、何となく抵抗があった。

 力なくうなだれ、休んでいる仲間から視線を逸らすと、もう見たくもない街並みが目に飛び込んでくる。それを憎々しげに睨んだところで、何の反応も返っては来ない。

 体中がぐったりと重くなり、頭もぼんやりとしてくる。体も精神も、もう限界が来ていた。

 このまま目を閉じて眠り、少しでも体力が回復すれば、また迷宮で迷う気になれるだろうか。

 それとも眠ったら最後、もう目覚めることはないのだろうか。

 出来ればこれは悪い夢で、目が覚めた時には温かいベッドの上にいるというのならいいんだけど。

 朦朧としてきた意識の中、様々な考えや記憶が巡る。


『その……狼がね』


 アストリアーデが言っていたことも一瞬目の前に浮かび、泡のように弾けて消えた。

 そういえばあの時、彼女は何かを必死で追っていた。それが狼だったとでもいうのだろうか。

 あんな、人が沢山行きかう街中に?

 だとしたら、サマルダの周囲には山も森もあるし、そこから迷い込んできたのかもしれない。居心地がよければ、そのまま居座ることもあるのではないだろうか。

 こんな状況でも、そんなどうでもいいことを突き詰める自分が、何だか可笑しかった。

 それでも、どうでもいい思考は、つらつらと巡る。

 じゃあ、その狼は、ずっとどうやって過ごしていたんだろう?

 あまり人目につくところをうろうろしていたら、捕まってしまうかもしれない。

 公園かどこかに寝床を確保して、隠れて眠って、移動はなるだけ人の少ない場所を選んで、こっそり通るのだろうか。少し姿を見られたとしても、犬がいるという程度にしか思われないかもしれない。

 餌はどうやって手に入れる? 家畜や人なんか襲ったら殺されてしまう。それならば、路地裏で残飯を漁ったりして――。


「――!?」


 サリュートアは、勢いよく顔を上げた。

 自分が今考えたことを反芻する。その度に、意識は鮮明になっていく。


「路地裏だよ!」


 大きな声に、皆弾かれるように顔を上げた。


「な、なんだよ、いきなり」


 驚いて声を詰まらせるバートに、サリュートアは興奮気味に捲くし立てた。


「俺たちが見てきた看板は、今までどこにあった? 表通りの建物はぐるっと見たけど、その奥には何がある? まさか表から見える建物が、隙間もなくぎっしり詰まってるなんてことないよね?」


「でも、路地なんて見当んなかっただろ? ……隠し通路みたいなもんがあるってことか?」


 彼の意図をようやく飲み込み、バートが腕組みをして言う。


「そうかもしれないし――もしかしたら、見落としたのかもしれない」

「見落とし? あんだけ見て回ったんだから、あったら気づくだろ、普通」

「そうかもしれない。普通なら」


 しかし、今の状況は、お世辞にも普通とは言えない。それは全員が感じていることだ。

 バートの目にも、自信の揺らぎが見て取れた。


「俺たちは、アストリアーデの見たものを、見てなかった。もしかしたら、それと同じことが起きてるってこともあるかもしれない」


 アストリアーデの方には視線を向けなかったから、彼女がどういう表情をしていたのかはわからない。

 バートとセシリアはそちらを見て、少し表情を緩める。それで少し、気が楽になった。


「そうですね。探してみましょう」


 言うが早いか、セシリアは再び、先ほど調べた区画の方へと向かう。三人も、その後に続いた。

 看板は何度も確認したので、路地がないかだけに注目しながら、慎重に歩みを進めていく。


「マジであったぞ!」


 程なくして、人一人がやっと通れるくらいの幅の路地が、意外にもあっさりと見つかった。

 隠されていた形跡など、全く見当たらない。


「どうして、見落としていたんでしょうか」


 路地の奥を恐る恐るといったように覗き込みながら、セシリアが首を捻る。

 こんなに狭い道であるし、周囲は一面アイボリーの壁だから、看板だけに注目していれば、見落とすということもあるかもしれない。しかし、何度もこの前を通っているのだから、にわかには信じがたかった。


「あっ」


 その時目に入ったものに驚き、皆が止める暇もなく、セシリアは路地へと飛び込む。

 そして、入ってすぐ右手の壁に、じっと顔を近づけた。


「リッシェノルジェ……見てください! これ、書簡に出て来る名前です!」


 それから細く入り組んだ路地を、一行はたどたどしく進んだ。

 もう何も見落とすまいと、全員が目を皿のようにしながら歩く姿は、もし誰かが見ていたならば、滑稽に映ったかもしれない。

 やがて、周囲の建物に挟まれるようにして佇む、小さな家が見つかる。

 他と同じアイボリーの壁に嵌め込まれた木のドアの横には、粗末な看板が提げられていた。

 今日だけで何度見たかわからない、記号のような文字だ。


「ヨセミスフィア……」


 誰ともなく呟く。

 そこには、確かにそう記されていた。

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