迷宮 2
◇
それから店を出て、情報を求め町を歩き回ったが、目ぼしい結果は得られなかった。
街の人は皆、ヨセミスフィアなどという言葉は聞いたことがないと言い、科学者についても、知らないとか、聞いたことはある気がする、程度のことしか言わない。
そのうちに、日も段々と傾いてくる。
せっかくこの地までたどり着いたのに、ただ無為に時が過ぎていくようで、アストリアーデの気持ちは焦った。
それだけではない。今日のうちに何かを見つけなければいけないという思いが、彼女をさらに急き立てる。
遅い昼食を食べようと立ち寄った店でも、やはり料理も水も変な色に見えてしまって、一口も食べることが出来ず、後でこっそりと、非常用に持っていた干し肉とパンを齧った。
おかしいのは自分なのかもしれない。でも、もしこの町に宿泊するということになってしまったら、もっとおかしくなってしまいそうで怖かった。
「ま、そういうこともあるって。元々ここに何かがあるってワケじゃなかったんだろ?」
「うん、とりあえず来てみようって感じだったからね」
俯くアストリアーデを励ますように言ったバートに、サリュートアも頷く。
「……そろそろ、帰りましょうか」
セシリアの言葉に、アストリアーデは信じられないような思いで彼女を見る。
「帰るって……まだ来たばっかじゃん。大変な思いでここまで来て、もう帰るの?」
だが強張った表情を向ける彼女を見て、彼らは困ったように顔を見合わせた。
「だって、これだけ探しても、何も情報は得られないじゃないか。これ以上は意味ないんじゃないかな。……アストリアーデも、この町に来てから何だか体調が悪そうだし」
サリュートアが、気まずそうに言う。
「あたしは大丈夫! 本当だって!」
まさか帰るなんて言われるとは思わなかった。ここに泊まることになるよりも悪い。
だがアストリアーデの必死の訴えは、かえって皆を不安にさせたようだった。
「そうそう。俺も、仕事あっからなぁ」
「……私も、帰ってしなければならないことがありますし」
セシリアとバートが、申し訳なさそうに言う。
それはアストリアーデのことを思っての言葉だということが伝わってくるだけに、余計に悲しくなった。
それに、それぞれやるべきことを脇に置いて、ここまで一緒に来てくれているというのもまた、事実には違いない。
でも、これ以上自分の体調が問題ないと主張したところで、かえって逆効果だろう。正直、自分が本当に問題ない状態なのかも、自信がない。
アストリアーデは大きく息をつくと、町をもう一度眺めた。
綺麗に整備され、ごみ一つ落ちていない町で、人々が楽しそうに歩き、話し、笑っている。
「アストリアーデ?」
サリュートアの呼ぶ声にも振り返らず、彼女は町を見続ける。
「アストリアーデってば!」
「……うん」
今度は、曖昧な返事だけを返した。
「どうかした?」
サリュートアの声に、不安とも苛立ちともつかないものが混じる。
アストリアーデは、思ったことを素直に口にしてみた。
「あの人……ウィリスの父親が、もしここへ来たんだとしたら、どんな気持ちでこの町の景色を見たのかな」
胸の奥に何かがつかえて取れないかのように、気持ちがすっきりとしない。
そのもやもやとしたものの正体はわからないけれど、その感覚はどんどん強く、粘っこくなっていく。
「何かがここにあるっていうことを知って、この町にやってきて、あの人はどう感じたのかな?」
人々はこちらのことは気にもせずに、アストリアーデたちの横を通り過ぎていく。
「戸惑った? 絶望した? それとも、何も見つからないことに怒った?」
「それは……わからないよ。もしかしたら、この町じゃないのかもしれないし」
「あの人は、本気だったんだよ。絶対にウィリスを生き返らせたいって思って、他の全てを犠牲にしても、そのことだけを目指して、欠片みたいな希望を必死で集めた。――だからね、ここであきらめるはずがない。絶対に何かある、何一つ見逃さないって気持ちで、町を見てたんじゃないかな。そうしたら、こう感じたかもしれない」
そして、アストリアーデはその言葉をはっきりと言う。
「この町は、おかしいって」
振り返り、今度は兄へと向き合った。
「ヨセミスフィアのことを知らないのはまだわかる。でも、どうしてみんな、この町に科学者が住んでたってことも知らないの?」
「それは、実際に住んでなかったからじゃないかな?」
「サリュートアが調べたことって、そんなに信じられないことなの?」
「そういうことだってあるさ」
何故、そんな目をするのだろう。
戸惑い? 憐れみ? それとも、呆れているのだろうか。
よくわかると思っていた兄の感情が、今は見えない。胸の奥のものが、またじわじわ、じわじわと広がっていく。
どう説明しようかといくら悩んでも、上手い言葉が浮かんで来なかった。
「……もし、そう『思わされてる』としたら?」
「はっ、どういう意味?」
ようやく拾い上げたそれを鼻で笑われた気がして、挫けそうになる。
いつもなら――いや、以前なら馬鹿にしたと怒って、喧嘩になっただろう。
でも今はそんなことよりも、ただわかって欲しかったし、それが出来ない自分が悔しかった。
言葉――説得力のある言葉が欲しい。
これが逆の立場なら、きっと巧みな言葉で納得させることが出来るだろうに。
「何だかアストリアーデらしくないよ。そんなこと気にするなんて」
その何気ない一言で感情は一気に動き、口から声となって出ていた。
「あたしらしさって何?」
「えっ?」
「あたしからすれば、サリュートアのほうが、ずっとサリュートアらしくないよ! いつものサリュートアなら、もっと注意深く見て、調べて、考えるもん!」
そうやって声を荒げる妹を、兄は困ったように見ている。
違う。困らせたいわけではなく、ただこの違和感を、わかって欲しいだけだ。
もうどうしたら良いのかわからずに、視線を逸らした時だった。
「――?」
向こうに見える店の前に、大きな白い犬が座っている。
その犬は、こちらを見ているようだった。
今日はずっと町を歩いていたけれど、あんな犬は見かけた覚えがない。
「ちょっ、どこ行くんだよ!」
サリュートアの声が後ろから追ってくる。
気がつけば、アストリアーデは白い犬を追っていた。
躍動する脚と、太い尻尾。
走るのはさすがに速く、すぐに姿を見失いそうになってしまう。
でも、そうすると犬は、まるでアストリアーデを待つかのように動きを止め、こちらを見た。
いや、犬ではない。――狼だ。
彼女は実物をまだ見たことはなかったが、そう確信する。
こちらを誘うように鼻先を動かしてから、再び走り出したその姿に必死で喰らいつき、追った。
見失わないように凝視していると、それ以外の街や人々の輪郭が、ぼやけてくるかのようだった。
『ほら、こうしたら、まいごにならないだろ』
急に、幼い頃のことを思い出す。
別に絵が得意なわけでもないのに、サリュートアが小石に絵を描いてくれた。
その下手さにアストリアーデは笑ったけれど、今思えばできるだけ妹が覚えやすいようにと考えた、兄の配慮だということがわかる。
そういえばあれ以来、彼はほとんど絵を描かなくなってしまった。今さら謝っても遅いだろうか。
最初は赤い花、次は白い犬、黄色い鳥、最後に青い月。
赤い花は庭に咲いていて、アストリアーデが好きだった花だ。
月は母が好きで、よく家族でも月見をした。色が青になったのは、父の昔の異名が面白かったからだったと記憶している。
では、白い犬と黄色い鳥は、どこで見たのだろう。
知っている家で犬を飼っているところはあったが、真っ白というわけではなかったし、黄色い鳥というのもあまり印象には残っていない。
もしかしたらあれも犬ではなく、狼だったのだろうか。
アストリアーデの足はひとりでに動くようにして、白い狼の後を追う。狼は、町を行く人の間をすり抜けるようにして走る。
誰もその姿に目を向けるものはいなかった。必死で走るアストリアーデのことも気に留めていないように見える。
周囲はどんどんぼやけて行って、人とすれ違っているはずなのに、まるで人の形をした煙の中を潜り抜けているような感じがした。
もう少しで狼に追いつけそうだと思った時、つま先が何かに引っかかり、体が前へと投げ出される。
衝撃が走り、歯を食いしばって痛みを堪えた。それからすぐに立ち上がり、咄嗟についた手のひらと、打った膝をさすりながら周囲を見回す。
目の前には建物があり、道は左右に伸びていた。どちらの道にも、あの狼の姿は見えず、買い物をしている男女や、走り回って咎められている子供の姿がある。
「アストリアーデ!」
その時、名を呼ぶ声に後ろを向くと、見慣れた姿が目に飛び込んできた。
「どうしたんだよ……急に」
サリュートアは近づいてきて立ち止まり、苦しそうに息をする。
彼がずっと追いかけてきたことに、気づかずにいた。
「怪我してるじゃないか」
言われて右手を見ると、手のひらに赤く血がにじんでいる。
さっき地面についた時に擦りむいたらしい。少し土もついていた。
「大したことないよ」
そう言って水筒の水で軽く洗い、ハンカチで縛っておく。
結局、また心配をかけてしまったことに、胸の辺りに苦いものが広がるような思いがした。
「その……狼がね」
「狼?」
サリュートアは訳がわからないというような顔をしている。
こういう反応をするということは、彼はあの狼は見ていないのだろう。
「ううん、そうじゃなくて――」
また様子がおかしいと思われただろうか。
いつもなら笑い話で済むかもしれないが、先ほどのこともあり、自信がなくなってしまう。
説明に困って、アストリアーデはまた建物の方を見た。今気づいたが、そこには小さな木の看板がかかっている。
でも、そこには入り口と思われるようなものはなく、ただ煤けた壁があるだけだ。
「店……かな」
「さあ。……ここに来たかったわけ?」
それならそうと言ってくれれば、と兄はため息をつく。
もちろん、来たかったわけではない。でも、あの狼はどこかに行ってしまった。
何度視線をあちらこちらへと飛ばしても、もうあの真っ白な姿は見えない。
そんな自分へ怪訝そうに向けられる視線が居た堪れなくて、彼女は何か見つからないかと、もう一度店の方を見る。
目を凝らすと、看板に描かれているのは字ではなく、記号のようにも見えた。
「おい、急にどうしたんだよ」
その時バートの声が聞こえたので、アストリアーデは弾かれたように振り返り、セシリアの姿を探す。
「セシリアさん!」
名を呼ばれ、彼女は躊躇うようにしてバートの背後から姿を現す。
そういえば、セシリアの名は口にしないということになっていた。
だが、もう呼んでしまったものは仕方がない。アストリアーデは彼女に、看板を指差してみせる。
「これ、アイセフバックじゃない? 読める?」
セシリアは目を瞬かせ、それから看板のところまで近づくと、じっと眺めた。
「はい。読める……と思います」
それからひとつひとつを指で追うようにしながら見ていく。
「ええと、三・五、二十二・四……」
小声で何やら番号を呟いている。彼女なりの記憶法があるようだった。
「バ――イラルス……フィート。バイラルスフィート、と書いてあります」
「意味は?」
聞かれ、彼女はゆっくりと答える。
「……始まりとか、始めるという意味でしょうか」
「店の名前かなんかかな。裏に回ってみっか?」
そう言って横を向いたバートは、何を思ったのか急に後ろを振り返り、また別の方角にも目を向けた。
「おい」
つられて周囲を見た三人は、言葉を失う。
「誰も……いない?」
近くの店で買い物をしている男女や、家の前で遊んでいる子供だけではない。
先ほどまで人が行き交っていた街には、誰の姿もなくなっていた。
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